心理的な症状や悩みで行き詰ってカウンセリングに来談された方が、話しを進めていく中で、おしなべて行き着くのが「自分に自信がない」ということです。「集団に溶け込めなくて自分だけいつも浮いているような疎外されているような感じです」とか「職場で人に気を遣ったり遠慮してしまって、自分の行動や話すことは後回しになります」「周りや世間がどう思うか気になって外に出るのも辛いです」などと自分に自信がないことからくる人間関係での大変さが話題となるのです。
自分に自信が持てないと人とのかかわりが重荷となって疲れるばかりで、次第に人の中に入ることが嫌になってきます。引きこもりになっている人の多くが、事情はそれぞれに違っていても自分に自信がないがために人の中に入っていくことができなくなっています。さまざまな問題や困難を乗り越えたり、自分の成し遂げたいことに挑戦するなどして、充実した人生を生きていくためには、まずもって自分に自信を持っていることが必須といえるでしょう。
心理面接やカウンセリングでは、何らかの形でなくしたこの自信を取り戻したり、新たな自信を育てたりすることが課題となります。けれども「自分に自信を持てばよい」と言うほどに簡単にはいきません。自信とは自分を信じるということですが、中身が具体的ではありません。自信を持つためにどのようにしていけばよいのかがわかりにくいのです。また自信の持ち方自体にもいろいろあって、例えば自分の実力もわきまえずに自信過剰になったとしたら、はた迷惑ばかりで人間関係はかえってうまくいきません。
そこでまず「自分に自信を持つ」ということがいったいどのようなことなのかを、より具体的に整理しなおしてみました。それによって自分の場合はどのように取り組んでいけば本当に役立つ自信を得ることができるのかがわかってくるはずです。今回の内容は個別の心理面接でこの問題に取り組むことを共にしたクライアントから学んだものが中心となっています。(やはり自分に自信を持てなくなった事情の根が深い分だけその再生は困難を極めます。そんな場合はやはり個人の心理面接でカウンセラーなどに支えられながら根気よく取り組んでいくのがベストでしょう)
条件付きの自信
「自信」は二つに大別できます。わかりやすいのは仕事が人よりできるとか、頭が良いとか運動能力が高い、などというように他と比較して自分の方が優れているところからくる自信です。よほどの障害や才能がない限り、その道で努力工夫していれば次第に上達するので自信は強まります。でも上には上があってきりがないので、自分より下位の者が多い中にいる時は良いのですが、優秀な人が多く集まる中に入ってしまうと途端に自信喪失しかねません。また自分の到達したい理想を高く持ちすぎると、いつまでたっても自信が持てないことになります。
この自信は何々が優れているからというように条件付きのもので、その条件から外れてしまえば役立たなくなるというもろいものなのです。でも社会の中で活躍するには、物事を成し遂げるまで努力する力が欠かせません。そのためには、自分は人より優れた能力があるのだとの自信がある方がずっとやる気が出ます。
逆に、自分は今までちゃんと物事を成し遂げたことがない。どうせまたうまくいかないだろう。などというような自信のなさでは、できるかどうか試してみることさえ諦めてしまうでしょう。こんな時一番良いのは「好きこそものの上手なれ」というように、自分の好きなことに夢中になっているうちに自然とそれに上達していく体験をすることです。その体験によって自分もやればできるのだと自分の可能性自体に拡大した自信が持てる場合もあります。
無条件の自信(基本的信頼感)
自信にはもうひとつ無条件の自信というのがあります。それは他人との比較するものでない無条件のありのままの自分に対するものです。根拠のない自信ともいえるでしょう。これは先に述べた条件付きのように他と比較してのものではないので一見わかりにくくて目立ちません。けれども例えば家を建てる際に一番重要な基礎工事に相当するもので人がより良く生きていくためにはより重要なものです。
心理学で乳幼児期に育つといわれている基本的信頼感というのがこれに相当します。乳幼児がより快適に安全に育っていくための要求を親や養育者がよくわかって、できるかぎり叶えてあげられるほどに、周りや自分に対する基本的信頼感が強くなると考えられています。他者にも自分にも、世の中に対しても強い肯定感を持つことができるのです。そのため社会の中においても意欲と信頼を持って前向きに活躍していけます。
かといって、完璧を目指して乳幼児を養育するのでは神経質さが伝わるので逆効果です。赤ちゃんに対する深い愛情と理解がありながらも肩の力が抜けた感じで、ゆとりを持って接する方が基本的信頼感がよりよく育つはずです。これがあれば条件付きの自信が全てなくなっても、自分の存在をすべて否定しなくて済みます。
逆に基本的信頼感を育むことができなかった子供は、自他ともに信頼しにくく安心できなくなるでしょう。この世に生まれ出てから、充分守られている感じが持てないで育った子供は、失敗を恐れて何事にも消極的で他人を信頼できず情緒的な人間関係が築きにくいといった傾向があるといわれています。その後に来るしつけに対して、怖さや否定されたという思いを強めがちになるともいわれています。また、夫婦喧嘩や離婚など不安定な家庭で乳児期を過ごすと、基本的信頼感が育まれにくいという指摘もあります。不安が多くて落ち着く暇がなければ信頼どころではありませんね。
さらには、物心ついてからのしつけにおいて、この無条件の自信(基本的信頼感)を脅かす事態が加わるのです。しつけにおいて良い行動、悪い行動などと条件がつき始めるために、無条件の愛情の方が隅に押しやられてしまいがちです。カウンセリング場面では、子供時代に親の期待が大きすぎたり、虐待までいかない場合でも、無条件に大切にされた感覚を持てないような家庭に育ったという辛い話がよく語られます。自信が持てなくなった事情として、当人が育ってきた家庭や環境において乳幼児以後にも、ありのままの自分を認めてもらった感じがしなかった体験が見えてきます。
親としては、ちゃんと無条件の愛情を子供に持っているにしても、例えば両親ともに忙しくて子供と接する機会が少なかったりすれば子供は見捨てられているように感じたりもします。そしてその理由として「私に価値がないのだろう。愛されるためにもっと良い子にならなければ」と健気にも思い込むのです。
余裕がない親に育てられた場合は、ちょっとのことでも怒られたりするために自己否定感が強くなります。子供によりよく育ってもらいたい、社会で活躍する人になってもらいたいと期待して頑張る方ばかりを強調してしつけていると、それを受け止める子供は親の無条件の愛情の方が見えなくなります。そして「ありのままの自分ではダメだから叱られるのだ」と思ってしまいます。
また、しつけ体験と同時並行して子供の内面には、覚え始めた言葉による自己評価が始まります。そこで、それらの体験は(良いも悪いもですが)観念の地図となって、ずっと残ってしまいます。それは思いの癖として、何かの折には登場して当人をそこに決めつけてしまうのです。
ありのままの自分が認められなくて基本的信頼感が充分得られなかった人は、どこかもろい部分があります。また、常にこうあるべき理想像に向かって努力をしていなければならず気を抜けません。深い休息も少なくなるので常に疲れが残っています。例えば一旗揚げようとして都会に出た若者が挫折して実家に帰ってきた時に、優しい家族のその無条件の抱え環境があれば傷ついた心を癒すことができます。そしてまた新たな人生を歩むことが可能となります。このような心の作業が簡単に進みにくくなるのです。
ありのままの自分を愛することが自信に
かといって基本的信頼感が得られていなければもうダメというものではありません。乳幼児のころに得られなかった基本的信頼感をその後に獲得することは充分可能です。この側面を育てていく過程が本格的な心理療法やカウンセリングの仕事といえるでしょう。
逆にいえば、子供時代に基本的信頼感を充分得られなかった人は無意識裏にそれを求めて生きていきます。例えば、プチ家出をして親が必死になって探しに来る姿を見ることでようやく自分が心底大切にされているのだと確認できて安定する子供がいます。時には離婚して実家に戻ってきてから、この無条件の自信(愛情)を家族とのやり取りで獲得しようと再挑戦している動きがうかがえる成人女性もいます。
自殺未遂をすることの裏に、自分では全く無価値に思える自分の存在が家族にどう受け止められるか、命を賭して確かめようとしている動きが見える場合もあります。古い話ですが、自分のベッドの下に剃刀の刃を隠していたのを母親が見つけて、慌ててご両親で心理相談室に連れてきた不登校の中学生を思い出します。彼女は心理療法を受ける以前に、それを重大事と受け止めたご両親の態度でもう半分以上立ち直っていたといえるでしょう。
重度のうつ病の中年女性は来談してカウンセリングを積み重ねていく中で少しづつ回復に向かっていました。そのころ、同年代の女性で不登校の子供のことで悩んだことのある友人と電話で話している際に「居るだけでいいのよ」と言われました。それが心に響いた彼女はそのことを夫に言いました。すると夫も「そうだよ」とそれに賛同してくれたのです。それをきっかけにして彼女の回復に一段と弾みがついたのでした。「居るだけでいい」これこそが無条件の愛情(自信)といえるでしょう。
心理的な症状や悩みがない人の中にも無条件の自信については充分持ちえていない人が多くいます。人間社会にはさまざまな条件があります。学校では成績の優秀な子供が高く評価されます。プロスポーツ界でトップクラスの選手には莫大な契約金が支払われます。仕事で結果を出すことができなければ会社を辞めねばなりません。結果がすべて。条件付き(の自信)がまかり通っているのが人間社会なのです。
そこで一生懸命に頑張って仕事をした結果、例えば定年退職をした男性で、過去の会社での肩書や活躍などの自慢話にふける人がいます。悲しいことに年老いてしまった今の自分に価値を見出せないのです。だからついそんな過去の話を持ち出して、自分を支えなおそうとしてしまうのでしょう。
人間の理性(科学的思考力)と自然(生命体)の知恵との比較
自信があるなしについてさらに深く探っていくと、学校で学ぶ「よく考えて答えを出す」というやり方や、理性で自分をコントロールするのがベストであるとの価値観の弊害が見えてきます。例えば、素直で感受性が強くて頭の回転が良い子供ほど、人の言うことを真に受けるので、周りに振り回されやすくなります。またいろいろ考えられる分、葛藤が増えたり、こだわりができたりします。悪い方にも強く想像力が働くので強い不安に襲われます。そして次第にそんな自分の心身に否定的となります。知らないうちに性悪説の上に立ってしまったのです。そして常に自分を監視してコントロールしなければならなくなるのです。
「ありのままの私は怠け者だから」とか「手放しにしたらどうなるか心配で」「ありのままの自分は全く無価値です」などと言います。これらは事実ではなくて思い込みなのです。でも常に気が抜けないのでこのままでは心底楽にはなれません。
…他に、理性偏重が極端化してしまって、しんどい生き方になっている例をちょっと紹介しておきます。元々まじめで理性の働きが強い人で、何事もきちんとやらねば気が済まない完全主義となり、それが高じて強迫性障害的にまでなる場合があります。ちょっとしたミスもダメだと、常に意識を強く持って几帳面に成し遂げようと頑張ります。疲れは倍増します。伸び伸びできず、感情発散もできなくなってしまいます。また、理性で物事を「良い悪い」「白か黒か、0か100か」のどちらかに割り切って区別、判断する癖がついている人がいます。そのぶん極端から極端に、心や行動が揺れ動いてしまうので、とても不安定な生き方となります。当人はとても一生懸命なのですが事実や他人とのズレが大きくなるので、なかなか他とわかり合えないで苦労します…
科学万能時代の私たちは、その近代科学最大の発明といえる自動車の運転と同じに、理性でもって自分の心身をコントロールしていくのがベストだと思っています。けれども人間の身体はスイッチを入れなければ稼働がはじまらない自動車と同じではありません。身体は生まれてからずっと環境と連携して死ぬ時がくるまで終始自動運転し続けているのです。道を歩く際に考え事をしながらでも、身体はちゃんと目的地に向かってくれます。
ほとんどのことを身体の機能がかってに自動運転してくれているからこそ、人はいろいろ自分の考えを膨らます暇があるのです。身体は自動車のように他と切れた個体ではありません。けれども近代科学の下に生きてきた私たちは、身体に任せっきりにするのは手放しで暴走する自動車に乗っているのと同じに、あまりに無謀なことだと思えるのです。これがありのままの自分に自信が持てない理由の根底にあるものです。
自分で獲得しなくても生まれた時にはすでに備わっている心身の機能や知恵は計り知れません。例えば失敗したり挫折や病気になったことが、実は心身の知恵によるもので、より大きな災難を守るためのものだったという場合さえあります。
かなり昔に来談した戦争体験のある老年の方の話を思い出します。彼は東南アジアに遠征した際に上官から明日偵察に行って来いと命令を受けたのでした。ところが次の朝目覚めてみると足がパンパンに腫れあがって歩けないほどの急病になっていたのです。そこで急きょ代わりの人が偵察に行かされたのでした。でもその人は帰ってこなかったのです。代わりに偵察に行った人が水死体となっていることが、彼には事前に分かったそうです。彼の身体が急病になることで彼の命を守ったのだとしか思えません。
このような典型例でなくても私たちが気づけないところで心身がとり行っている人知を超えた働きは無数にあるでしょう。私たちのちっぽけな頭で良い悪いを判断したり、全てを取り仕切ろうとするのは思い上がりもいいとこかもしれませんね。
子供時代に様々な事情から充分な自信を持ちえなかった事情はあるにしても、大人になった今、自分だけでそれを回復する道もちゃんとあります。まずは今まで見てきたように、より正しく自分を知ることです。自分が自分の心身をどう思っているかを見直して、そして自分の勘違いや思い込みを剥がしていきましょう。すると、ありのままの自分が素敵にいきいきしてきます。あるがままの事実と、自分が想像で作ったり思い込んだりしたことの区別がつくようになるだけでも、かなり楽になります。
実際のテクニックとして、ちょっと立ち止まって自己否定することは横に置いて、自分の内面をまるで親友を見守るように、優しく見守もってみましょう。内なる自分にあれこれ話しかけずに寄り添うつもりになってみましょう。すると、それまで否定してダメに見えていた自分がとても愛おしく大切に思えてきますよ。
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