人はどのようにして挫折や苦悩を乗り越えて変化・成長するのか その2 条件付きの肯定感と無条件の肯定感

死と再生の物語

 ロジャースの言うような「受容的な雰囲気を作り出すことで、クライアントは自身の持つ価値の枠組みを少しずつ弛め・・・」というカウンセリング療法は、その取り組みが本格的になるにしたがって心理的な生き死にまで関わってくる課題となってきます。先に述べたユング心理学でいう「死と再生」と名付けたテーマです。それまで持っていた価値観が長い期間にわたって自己を支えるアイデンティティとなっていた場合はなおさらのことです。それをはずすことは自分が無くなるような、死に至るような感じさえするのです。

 河合隼雄先生は「カウンセリングの実際」という著書の中で心の問題に取り組むことを、家の改築をする時に例えて、心の壁を取り払った時の危険性について述べています。例えばカウンセリングで元気になってくると、今まで内向していた怒りや自己主張が外向きになって他者に向かうようになります。そのこと自体は避けて通れない必須の課題なのです。でも今まで押さえ込んでいたせいか怒りの感情が一時的にですが、いっきに増大するので、そのあたりのしのぎがなかなか大変だったりする場合があります。

 またクライアントにとって安心して自分の内界を検討できるような、守られた場ができえたとしても、より良い関係にあるクライアントとカウンセラーをもってしても、やはり心の問題には受け止めかねるような過酷なものもあるのです。そのような場合には整理ができるように、時が熟するまで二人で待つことになります。

窮すればすなわち変ず、変ずればすなわち通ず『易経』

 カウンセリング場面で自己との直面(観察)を徹底することによって、今まで持っていた(価値感)の枠組みが本当には役立たないものであることを、より実感するようになります。それによって、うまくいかなくなっていることを、自己防衛でごまかし回避しようとして悪循環に陥っていたあり方が自然(生命体の本来あるべきよう)に修正されるのです。

 価値観という枠組みで形づけて(格好つけて)いる状態は、無意識的ですが観念(思考や理性)が稼働しいている状態です。それが「窮する」という状態になることで、思考や理性が全く通用しなくなり、どうにも動きようのない事態に陥るのです。格好付けていられないお手上げ状態です。無防備で、慣れないうちはすごくまずい状態のように思えます。けれどもフーフーハーハーと苦しいままに、お手上げのままに成りきって過ごしていると、不思議に、いつの間にか反転が起こります。

 本当に徹底する。行き詰まってどうにもならなくなると、何かが変わらざるをえなくなる。そうすると、おのずと道は開けてくるのです。古代中国の哲学と宇宙観である『易経』の基本である変化の法則です。

二つの自己肯定的価値観

 自己の肯定的価値観には大別すると二つあるといえます。一つは条件付きの肯定的価値観です。もう一つは無条件の肯定的価値観です。条件付きと無条件の価値観の違いは「する」と「ある」との言葉を当てはめて、その違いを見るとよく理解できます。「する」というのは社会的な肯定的価値観です。例えば会社に就職して仕事をすることができなければクビになります。言い換えると「できた、できなかった」で良し悪しが決まる価値観です。社会的には役割を果たす(する)という行為によってその社会の一員で居られるのです。

 「ある」というのは存在すれば良いということですから、社会的な枠組みにとらわれない無条件の肯定的価値観となります。詳しくはブログ『カウンセリングで見つける(無条件の)自己肯定感』を参照してください。

 条件付きの価値観である「する」の方で頑張ること、ある物事を努力して結果や成果を出す事で、自分はできるんだと自信を持つことはとても良いことです。心理療法の過程でも、自分の好きなことに没頭して成果を出すことによって自信を持てるようになり、立ち直っていく人もいます。

 前に、ある価値観に同一化して、それが全て(正しい)となってしまうと他のあり方は全て悪となり、自己の内面についても同様に評価するようになる。と言いました。例えば結果を出している優秀な自分しか認められないという価値観を持っているとします。すると結果が出せなかった場合は、それがいくら精一杯努力した結果であっても否定されてしまいます。そしてさらに失敗続きになれば終いには、これでは生きている意味がないとなってしまうのです。

 これは「価値観の弊害」の章で紹介したアサジョーリ氏が、価値観に同一化が強くなると深刻な結果を招くとして第一にあげた「本当の自分を知らないか、あるいは自覚しないことになる」と言うところに相当します。条件付きの価値観に一生懸命になりすぎることで、人間として限界ある自己の良いも悪いも含めたありのままの多様性や、宇宙生命体としての(真実の)自己までも否定してしまうようになるのです。

 親密な関係においては、例えば家庭内にあっては無条件の肯定感が家族間の基礎になければなりません。会社で結果が出せなくてクビになってしまった男性が、落ち込んで帰宅したとします。そんな時には奥さんが、無条件の肯定感を持って「結果は出せなかったけど、頑張るだけ頑張ったのだからとにかく、よく休んでね」などと夫をねぎらうことが大切です。それによって失敗した自分も受け入れられた彼は、ホッとして落ち込んだ自分を深く癒やすことができます。そうなれば必ず、また新たに挑戦する気力が湧き上がってくるはずです。

 かなり以前に当相談室に来談されていたうつの主婦は、その友人に(その友人は子供の不登校で悩んだことがあったそうです)「いるだけで良いじゃないの」といわれて、それを夫に話したら「そうだよ」と言われ、それがうつから立ち直る大きなきっかけとなったのでした。またある女性は、自殺未遂をして入院していたのですが、そこに慌てふためいて両親が駆けつけたのでした。彼女は取り乱したその両親の姿を見て(無条件に)大切に思われていたことがわかり自信を取り戻したと事例で聞いたこともあります。

 無条件の肯定的価値観は建物を建てる時の地盤下の基礎部のようなものです。家族の絆に必須なものです。でも親はそれを置き去りにして、ついつい子供に条件付きの価値観の方を優先して押しつけがちです。親としては、子供により良い生き方をしてもらいたいと期待してそうするのです。でもそれでは子供は無条件の肯定感の方を感じにくくなるわけです。『参照文献:カウンセリングで見つける(無条件の)自己肯定感

究極の肯定感と人間による価値判断との違い

 社会的枠組みを超えた「ある」と言う肯定的価値観は、人間の考えが入り込まない宇宙生命体のあり方です。これは仏陀の悟りとも通底します。そこでブッダの悟りとはどんなものかを以下にまとめてみました。

 物事(事実)は人がそれを意識的にとらえて、思考する以前の「今」にあって流転しすでに決着している(諸行無常)。それは人間を超えた宇宙的な働きである。しかし人は自分の持つ価値基準から、意識的にとらえた、過ぎ去ったその事実の一部を思い起こし、それについて考える。そして良し悪し的な判断をして、そこから自らをよい方向に導こうとする。思い通りにならない事が多々あるのがこの世(一切皆苦)であるのに、人間は自分の思い通りにやろうとして(無明)かえって悩みを深めているのだ。

 よって人間レベルで思考して意識的にコントロールすることは諦め、それ以前の「今」の働きの(宇宙生命体、身体の)おもむくままにあればよい。・・・矛盾するようですが仏陀は人の思いや思考などの全てを否定してはいません。人間の生まれ持った機能を眼、耳、鼻、舌、身、意(げんにびぜっしんにの)六根と称して、その中に思考「意」の働きも含めています・・・

 頭(意識)は常に後追いしかできません。「今の瞬間」と思った時には、実際の「事実の今」はすでに過ぎ去っています。でも私達は、過ぎ去った過去の事実の記憶を思い出してあれこれ考えます。おまけに、まだ来てもいない未来を悪く想像して不安になったりします。事実とは違う、思考や想像によって一喜一憂してしまっているのです。この、頭脳が独り相撲に陥ってしまう辺りを、実際の地形と地図の関係と重ねて言ってみると。地図(=思考・想像)は便利なものですが実際の地形(=事実)は変化し続けているので、地図=思考・想像を常に正しいものと思い込んで歩んでいると必ず道に迷って(悩みを深めて)しまう。ということになります。

 驚くことに仏陀の悟りをそのまま生きようとした人物が、禅仏教の僧には数多く居るのです。その中でも仏陀の教えを一段と徹底して生き抜いたのは、江戸時代の良寛和尚でしょう。彼は地震の被害にあった友人に宛てた手紙の中で「しかし、災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」とまで言い切っているのです。

 けれども理性を用いて熟慮したり物事の本質を見極めたりすることはやはり必要に思えます。カウンセリングや心理療法はそれをする場でもあるのです。そして実際それが役だっているのです。でも禅仏教は「自我はない」と言って、そこを一気に飛び越えて、ただ「ある」ことを主張します。私は悟っていないからかも知れませんが、今のところやはり考えるときには大いに考えたり、時には理性を用いて自己コントロールするところはすればよいのでは、と思っています。

 大切なのは、限界ある存在としての人間である自分を認め、そしてブッダが見極めた人間の思考や理性を越えた大いなる働きがあることをよくわきまえて、自我肥大にならずにあることでしょう。『参照文献:悟りと無条件の自己肯定感

参照ページ

 

『悟りと無条件の自己肯定感』
2017年11月に「今のありのままの自分で行くしかない。というか、ありのままの自分で良いのだ。と決着はついた」とこのブログに書いてからあっという間に2年半が過…

 

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