フォーカシングで盲点となりがちな自我意識の変化過程

フォーカシングにある二つの流れ

 フォーカシングを一般化していうと「思考による解決手法をちょっと横において、無意識的な働きや身体的働きなどの、自我意識を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとすること」といえます。それを実際面でやりやすくするためにハウツー化したものがフォーカシングの6段階のステップです。

 よく「ストレスが溜まる」といいます。この状態は、例えれば川や水路が狭められて流れが淀み、水が溜まってダム化してしまった状態といえるでしょう。トラウマも同様にそれを押さえこんだ時の身体の緊張とともに流れ出ることを封じ込められています。意識的無意識的に緊張することで、心の流れの路が狭まります。時にはそれが断たれてしまっているかのように見える場合もあります。

 この水路イメージにフォーカシングを当てはめてみると、フォーカシングのテクニックは、その流れの滞った辺りにフォーカスして、そこに溜まったものが無理なくスムースに流れ出すように働きかけるものです。その技法は、心的エネルギーの流れの抵抗を解き放つ心理技法の中ではとても洗練されています。ちょっと古いかもしれませんが、精神分析における抵抗分析と比較すると、その差はイソップ物語の「北風と太陽」の物語に匹敵します。

 フォーカシングでフェルトセンスと名づけた「意識化されていない曖昧な感覚の全体」へのアプローチによって、先に述べたようなストレスやトラウマの適度な解放ができることから治癒が起こります。また時には否定的なフェルトセンスの奥にあった肯定的なものとの出会いや、自我意識を越えたところからのメッセージを受け取り、クリエイトできたりもします。これらの体験には意外性があったり、また涙を伴うことがあったりするなどと、とても感動的です。これがフォーカシングの醍醐味といえるでしょう。このようにフェルトセンスに注目して、そのフェルトセンスが変化、展開していくことによって良い結果が生まれるというのがフォーカシングのメインストリームです。

 けれどもフォーカシングにおいては、フォーカサー自身の意識の側が変化したことによる効果も忘れてはなりません。アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバンの共著『フォーカシング・ニューマニュアル』ではフォーカシングにおける理想の意識のあり方(プレゼンス)を詳しく検討しています。それにそって考えてみると、フォーカサーの自我意識が理想的なプレゼンス状態に育っていくことの方がより重要なことのように思えてきます。最近この側面に関しての言及が以前より増えてきましたね。

 さて理想的なフォーカシングの構図は「フェルトセンス」対「プレゼンス状態」であらわされます。でも現実でのフォーカシングでは「フェルトセンス」とそれに対峙する「理想のプレゼンス状態であろうとする自我意識」というのがより正確です。この「理想のプレゼンス状態へと動いていく自我意識」自体の変化は、フェルトセンスの変化する時の感動に比べ、地味というか微細で目立ちません。そのせいか私の知る限りですが、自我意識が理想的なプレゼンス状態になっていく過程においての、その具体的実際的な動きはそれほど明確化されていないように思います。

 この、より良いプレゼンス状態に移行しようとする自我意識の側の変化は大きく二つの段階に分けられます。一つ目は既知のことですが、フォーカシングの準備段階での知的理解による自我意識の変化のはじまりです。本『フォーカシング・ニューマニュアル』のはじめの方には『何かについて「取り組んでいる」という態度から、何かと「いっしょにいる」という態度に意識的に変わるとき、全てが違ってきます。それといっしょにすわっている…落ち着いてすわっている…と想像することが、この変化を起こりやすくします』とあります。

 フォーカサーはフォーカシングを学ぶ前までは、往々にして自分に否定的だったり、操作的であったりします。それがフォーカシングをマスターしようとする初期段階で、先に述べたようなレクチャーによって自分の内面に肯定的観察的な目を向けるやり方を知的に学んでいきます。それによって自我意識の側は否定的、操作的態度から肯定的な受けとめ方に切り替わろうとしはじめます。

 二つ目はフォーカシング実践中での変化です。自我意識が謙虚になって自分を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとする(理想の)プレゼンス状態への変化が体験的に培われていく段階です。この、体験による自我意識の変化の過程をより細かく見て行くとおもしろいことがわかってきます。それは、フォーカシングを行う際に言語化まで至らなくとも治癒や変化が起こることへの答えともなります。私は、フォーカシングの実際場面での、この、より良いプレゼンス状態にあろうとする自我意識の動きを詳しく検討してみました。そしてそれらをフィードバックして実践面でも応用しています。私なりの解釈なので偏りがあるかもしれません。でも本質をついているところもかなりあるように思えるので今回試論として発表してみます。

 それは、私の禅の修行体験と禅の思想の視点から、フォーカシングを見ていくことで明確になってきたものです。フォーカシングの「理想のプレゼンス状態」は禅でいう「悟り」に至る前段階の、雑念などがでなくなった「禅定」といわれる状態とずいぶん似通っています。

 先に『フォーカシング・ニューマニュアル』の本から引用した文章の中に「…落ち着いてすわっている…」という表現がありましたね。これを読むと私は、その最たるものである坐禅を連想します。また『プレゼンスの力』という章には『プレゼンスの本質』という詩的な項目があります。その中には「あるがままに全てを受け入れること」「何も知らないこと・・・・・可能性をはらんだ空っぽの場所」という表現があります。これはまるで禅の「あるがまま」や「無心」とそっくりです。このような似かよった表現があるということは、両者が同じあり方を基礎に持っているからではないでしょうか。

禅の修行における意識の変化過程

 (…注:私の禅修行においてこれを記した2015年5月の時点の考えと2016/11月の時点とでは、禅に対するとらえ方が随分違ってしまいました。今でもここに記したような修行方法をとっている所も多いようです。けれども私が今学んでいる禅のあり方からすると、観察する部分があるのではいつまでたっても二人連れです。「今、事実は常に一つ」の禅からすると、余計なものがまだある。ということになるのです。そこで現在の私の修行は観察する事さえもしない。要するに何もしない修行となっています。それに二人連れ、というのも実は違っていて、観察している瞬間は「観察している」というのしかないのが事実なのです。とにかく「~する」というのが入り込んでいるうちは本物の禅ではないのです。禅の真髄は何もしないで「只ある」ということのようです。…)

 私は煩悩多くて悟りには程遠いですが、こりないで禅の修行を長年続けてきました。禅では「悟り」状態が光を放って目立つために、一般的には悟りの境地についての話題が中心となりがちです。でもそれらは全て絵に描いた餅なのです。禅の老師は、そんなものを思い浮かべる自我意識こそが悟りの邪魔をしているのだといいます。意識が「悟り餅」を描こうと働くより前にある「いま」あるがままの事実に触れなければなりません。そこで修行の実際では、悟りを求めるのではなくて意識的努力(計らい)や雑念などの思念を断つことを重要課題として工夫していくのです。それが徹底すれば忘我に至り、元来からあった法の世界が現前してくるので必ず悟れるというのです。

 思念を断つといっても簡単にはいきません。次から次に念が湧いてきます。念が湧くのが当たり前になっています。私などは何かに夢中になっている時以外は、朝から晩まで暇さえあれば頭はあれこれ考え続けています。悟った人からいわせればこれは「ハイキングに行って身体は美しい自然の中に触れているのに頭部は、洞窟の中に入ってテレビに夢中になっている」というくらいに、ひどい心身分裂状態なのだそうです。一人でフォーカシングをやると集中が持続しないのは、この意識のかってに動き回る癖のせいですね。

 私の修行している曹洞宗の禅道場では「いきなり無我とはいかないので、方便として心を一点に集中し続ける工夫をしなさい」といわれます。臨済宗派の方では、数息観といって呼吸に合わせて数を数えることで意識を一点に統一できるようになる工夫からはじめます。どちらにしても飛び回る意識を一点に絞る工夫がなされています。そんな修行方法の中には、自分の内面に目を向けて、雑念が湧いたら「これなんぞ」とそこを見るようにしなさい、という工夫もあります。禅の理屈では見ようとすることで飛び回っていた意識が一つに統一されて、心が静まり禅定が深まってくるというわけです。これはフォーカシングでフェルトセンスに焦点をあてていく時の意識の動きとまったく同じです。

 フォーカシングでフェルトセンスに注目していると、それが消えてしまったり、フェルトセンスを言語化しなくとも安定が訪れることが度々あるのはフォーカシング体験者の誰もが経験済みと思います。気になる所を見守るだけで、ハッキリとしたフェルトセンスに行きつく前にことは済んでしまう。これは焦点付けるという動きによって、それまで飛び回っていた意識が一点に落ち着いてきたからなのです。

 禅の見解では事実は「いま、いま、いま」と常に意識に先んじ、縁に応じて動いていっています。その動きは一筆書きのような作用なので、事実に葛藤はありえないのです。「いま」の事実は既に終わっているのに、いまの直後(ベンジャミン・リベットの実験によると約0.3~0.5秒後くらいといわれてます)に意識がそれを認め、捕まえます。そして良い悪いなどと価値判断を持込み、葛藤し、悩みはじめます。

 その事実を約0.3~0.5秒後に認め受けとめる価値判断(受けとめ方・自己概念)には非常に個人差がありますね。本格的な心理療法ではクライアントが悩みや症状をポジティブに受けとめることでそれを乗り越えられるようになるために、この受けとめ部分の改善や成長が目標となります。でも禅では受けとめ部分が働かないようにすることが目標です。まず「事実」のみに意識を注目させて、余計な思念を断つようにと修行します。そしてもっともっと思念を断っていくことで、最後は受け止める部分全てが無くなるようにと徹底するのです。

意識の「見守ろう」とする動きの効果

 禅では自我意識に対して否定的なので、修行者はへたをすると自己嫌悪に陥り挫折しかねません。私は自己肯定的なフォーカシングを禅修行に取り入れることでこの辺りを脱することができました。

 坐禅中になかなか雑念を断ち切れない私は、ガッカリして「ダメだなあ、またやってしまった…」などと念を継ぎ足し自己嫌悪に陥り、やる気までなくしていまうという繰り返しに嵌っていたのです。そこで、その雑念や思念の起こる辺りをフォーカシング的にやさしく「見守る」ことを試してみました。これはかなり役立ち、自己嫌悪に陥らないようになりました。また、意識が雑念に流されていない時は、今度は頑張り過ぎというか「これで良いかな」「もうちょっと早くうまく上達する手はないかな」などと強迫的に計らい続けていることにも気づけたのです。そういえば禅の老師からは「素直に言われた通りにやればよい」とさんざん言われていました。けれどもそう言われても、自分が素直でないとは疑いもしませんでした。それ程に「うまくやる」ことは私の一部と化していたようです。

 私は時に、フォーカサーや心理面接中のクライアントなどに「頭さんに注目してみましょう」などと、当人の意識自体をチェックしてもらえるような言葉を投げかける場合があります。ちょっと操作的なのですが、ねらいは、表面化していない内心の動きを知りたいのと同時に、フォーカシングなどの目前の課題にスムースに入っていけるようになってもらうためです。すると私自身がそうだったような「うまくやらねば」「失敗しないように」「良い悪い」や「他のことが気になっている」などの意識の余計な計らいや注意散漫に気がつく人がいます。それに気づいた時には、そちらに働いていた意識の動きはもう止まっていて、その分リラックスが深まります。また目前の課題にすんなりと入っていけるようにもなります。この方法は対人緊張が強い人のリラックスにとても役立ちます。

 この変化は、当人が「自身の意識の余計なはからいに気づいたからこそ、それが止まった」ということになります。でもこれは100%の正確さではありません。実際には「意識自体を見守ってください」といわれて、内を見ようとするその時には、良いか悪いかチェックしたり心配したりなどと、それまで飛び回っていた意識は、すでに内面を見ようとする動きに変化しています。実はその時点で問題は解決していたといえるでしょう。

 意識自体を見守ろうとしなくても、フォーカシングには大いに自分を落ち着かせる要素がありますね。昔、阿世賀先生のフォーカシング講座で体の各部位を順次見守っていくやり方を学んだことがあります。とてもリラックスして眠気まででました。その時の心身相関を細かくたどってみると。身体がリラックスする前に、まず意識が「見守る」という単純作業に統一されて飛び回らなくなり鎮まります。次にそれにつれて身体もリラックスしてきます。するとそれまで緊張していたために表面化しなかった身体の疲れや眠気がでてくる、という流れが見えてきます。

 これらは言い換えると単に「落ち着く」ということです。でもこれが意外と難しいのです。「落ち着こう」「リラックスしよう」と意識することは、逆に意識を余計に働かせることなります。思考のループを助長させてしまうのです。前の章で「悟りは絵に描いた餅である」と述べたのと同じ作用です。一体化しているせいで考え過ぎていることさへ気づけない場合もあります。そこで登場するのが、この「内面を見ようとする」という行為なのです。意識が「見る」一つになったことで、動き回る意識の計らいに振り回されていた身体も一つに定まり落ち着いてくるわけです。

 内面を「見る」ということは、自らの内面と適切な距離を持つことができるという側面での効果もありますね。例えば、簡単にはいきませんが「強い感情に圧倒」されていたりする場合に、その強い感情の全体を見ようとすることで距離がとれてきます。この場合の心身相関もより細かに見てみましょう。まず強い感情が起ってくると、それを自我意識が捕まえて「何とかしなければ、でもできない、苦しい、このままではおかしくなるのでは」などと動き回りはじめます。強い感情はすでに過ぎ去っているのにその時の恐怖でこだわりができたのです。でも今度はそれを「見よう」とすることで、意識は考えることから次第に「見る」動きに集敏されていきます。そして見ようとすることに徹底できるほど身体も落ち着いてくるわけです。

 ……「強い感情に圧倒」されているという場合、感じの感じといえる「圧倒されている部分」を見守ることも見過ごしてはなりません。そのさいも心身相関的にはほとんど同一の動きとなります……

 心の「落ち着き」には深浅もあります。禅の修行の過程を10枚の絵であらわした「十牛図・牧牛図」というものがあります。中国宋代の廓庵禅師によるものが有名ですが、そこには牛との関わりを主題とする絵をもちいて、悟りに至る禅修行者の境涯の進展が表現されています。私の独断ですが、その図に禅の修行過程で深まっていく心の落ち着き度を当てはめてみたのです。すると、第三図の「見牛」で心が落ち着きはじめ、第七図の「忘牛」辺りでは深い静寂を体験するなど、悟り以前にあっても修行者の境涯の進展に付随して心の落ち着きも深まっていくようです。中西政次氏の著書『弓と禅 』の中には、その第七図辺りに相当すると思われる境地が「人跡未踏、神のみのしろしめる湖の小波もたたぬ水面の静寂さが来た」という表現で述べられています。そういえば仏頂禅師に参禅した松尾芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」にも深い静寂感が見られますね。

 フォーカシングのプレゼンス能力において「心の落ち着き」は必須といえます。そこで先に述べた禅修行でみられるような、その深まり度の側面に関してはどう見ていけばよいのでしょう。フォーカシングにおいて理想のプレゼンス状態(プレゼンス能力)を追求する限りは、この心の落ち着きの度の深浅も検討すべきではないでしょうか。

理想のプレゼンス状態 一体化からの離別

 禅ではフェルトセンス的なものは全く取り扱いません。何ごとにもこだわらないのが禅のあり方です。そのため概念化や言語化さへ余計な動きとして捨て去ろうとします。禅の修行は、心理臨床における無意識を自我に統合しようとする作業とは真逆に見える、自我本体を一度すべてなくして(忘我して)しまおうとする作業です。一見フォーカシングとは相容れないもののようにも見えるのですが、でも両者は理想の自我意識(プレゼンス状態)を追求するという点では全く同一線上にあります。

 これまで「禅の修行過程」と「フォーカシングにおける理想のプレゼンス状態への変化過程」を重ね合わせたり照らし合わせたりしながら比較検討してきました。最後に「一体化とそこからの離脱」の側面から両者を見てみます。……こだわリを排するせいか禅には一体化に当てはまる概念は見られません「何でも捨てていくのが禅修行である」といわれる中に図らずとも一体化からの離脱も含まれているといえます。でも私が思うに、一体化は心理療法のみならず禅修行においても大きな障壁となる場合が多々あるように思います……

 『フォーカシング・ニューマニュアル』の後半にある『プレゼンスと部分化』という章では、よりよいプレゼンス状態になるために、一体化に関する詳細な分析とそこからの離脱を追求しています。そこでは心理学用語の「一体化」を『部分化の状態にいる』と呼びなおし、実例にそって具体的に深く分析しています。それらは一体化からの離脱を実際におし推し進めていくためにとても役立つ概念となっています。禅では「何でも捨てていく」修行によって同じく一体化からの離脱も進んでいきます。そしてフォーカシングにおける一体化からの離脱よりももっと先まで、身体や自我意識なども捨て去って離脱していこうとするのです。そのようにして全ての一体化から離脱した暁には忘我状態が訪れます。そののち、我に返った時に悟りが訪れ、今度は「元々全てが一体(自分)であった」とわかるようです。

 さてフォーカシングにおいて、プレゼンスの理想のあり方は今後も追求されてしかるべきでしょう。それには部分化の状態(一体化)を見ぬき、そこから離脱するという作業をより拡大深化して行くことがメインの作業となります。そしてそのように広げ、深めしていった結果ですが、ついには身体内や自我意識への一体化も見ぬいていくことになるのでしょうか。理の上ではそれは可能なわけですが、はたして実際にはどうでしょう。

★参考文献:『フォーカシング・ニューマニュアル  アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバン 共著 』 『マインド・タイム~脳と意識の時間 ベンジャミン・リベット』 『弓と禅 中西政次 春秋社』 『意根を断つ今一度坐禅について 前編 少林寺住職 井上貫道』 『意根を断つ今一度坐禅について 後編 少林寺住職 井上貫道』

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