夢と脳科学と物語の関係

夢は脳内モニターである

 近年脳科学の方から『寝不足を解消しないと脳内に毒素がたまる:神経科学者ジェフ・イリフ氏』との学説が発表されました。脳科学研究で注目されている老廃物アミロイドβの蓄積は、アルツハイマー病などの恐ろしい病気の始まりといわれています。

 カリフォルニア大学の脳科学者たちは、65歳から81歳の健康な人を対象とした実験をしました。その詳細は省きますがその結果、深い睡眠が不足すると脳の長期記憶に影響を及ぼしアルツハイマー病の引き金となるアミロイドβタンパク質が発生することを発見したのです。研究を行った脳科学者のWalker氏は「アミロイドβタンパク質がたくさん蓄積しているほど睡眠の質が低く、記憶力も低下します。さらに、深い睡眠が取れていないと、アミロイドβタンパク質などの有害物質を脳内から追い出すことが難しくなる、という悪循環に陥るのです」と語っています。

 脳内からの老廃物は脳脊髄液(CSF)に吸収され、他の排泄物とともに血液中に排出されます。CSFは目覚めているマウスの脳内ではほとんど動きません。でもマウスが眠ってしまうとCSFが脳内を駆け巡るのが見えるのです。眠ると脳細胞自身が縮み、脳細胞間の隙間動が広がることでCSFが流れやすくなってアミロイドβタンパク質をはじめとする脳内の有害物質を排出させるのです。ようするに睡眠中に脳の浄化作用が行われているわけですね。

 これらのことは心理学の分野では昔から周知のことでした。今から40年以上も前に、カナダの心理学者(生理心理学の研究者)であったW・ルーテは「自律性中和」と言う治療技法を発展させました。その技法の説明の中で彼は、ニューロンに蓄積された物質と機能妨害作用を減少及び段階的解消することを目的とすると言っています。そして睡眠でなく自律訓練法を応用した、より積極的に脳を調整する技法を開発していたのです。

 心の開放、浄化作用は睡眠中だけでなく、リラクゼーションや感情発散によっても起こります。というか守りのある中で、深いリラクゼーション状態になったり、泣いたり笑ったり怒ったりと情動発散したりする。その後に深い睡眠に入る。というのが浄化作業の順当な工程といえるのです。脳科学ではまだ解明されていませんが睡眠だけで浄化作業のすべてを賄うには充分でない場合が多々あります。

 思い出すのは、昔カウンセリングに来談していた若い男性が連れてきた友人女性の見た夢です。その男性クライアントはカウンセリングに興味を持った友達がいたので連れてきたと言って、彼の面接日に音楽仲間の女性を同伴してきました。そこでその回の心理面接は私とその男性クライアントで、彼女のことを中心に話し合いました。そして最後に、私のリードでイメージトレーニングによるリラクゼーションを彼女に体験してもらったのです。彼女はとても感激していました。その次の面接日に来談したその男性クライアントは「彼女は、この前ここに来た帰り道に涙が溢れてきて止まらず、それから4時間位ずっと泣き続けたらしいです」と言うのです。彼女はその夜に、おもしろい夢も見てそれを彼に話していました。それは、

 {夢:仙人とゴキブリ}

トンネルの中に居るとゴキブリがいっぱい出てきた。
そこで彼女が「助けてぇ~」と叫んだら仙人が登場した。
そしてゴキブリを2,3匹残してあとは全部壁に穴を開けて逃がしてくれた。

 というものです。この夢から、彼女の内でかなり大掛かりな浄化作業が行われたのは確かですね。私とその男性クライアントは、彼女を男性二人で相手してあげたから、それで仙人が登場したんだろうね。などと悦に入って頷きあったものでした。彼女が見た夢の中のゴキブリとは、脳科学でいうところの老廃物アミロイドβに相当するといえでしょうか。この彼女の体験からして、心が開放され、感情が発散される。深いリラックスに至る。睡眠も深くなりそこで最後の仕上げが行われる。そしてその工程が夢の物語となってモニターできる。という流れなのがよくわかります。

 脳科学の実験で、アミロイドβの除去速度を、目覚めている時と眠っている時の脳で比較して測定した結果、アミロイドβの排除は睡眠中の脳のほうが、ずっと速いということがわかったようです。でも泣くという行為を含めて心理臨床面ではすでに大切な浄化作用とされている感情発散は脳科学ではどのように位置づけされるでしょうか。そのうちには脳科学で涙の中にもアミロイドβが含まれていたり、また別の老廃物が含まれているのが発見されるでしょうか。他にも脳内物質にはセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどもあるようです。それなどとの関係もふくめたその全貌の複雑さを思うと、その解明は果てしないようにも思えますが。

夢は心の体験を物語にして見せてくれる

 夢分析の第一人者であった河合隼雄氏はある講演会の中で「意識と無意識の間で、さまざまな物語が生まれてくる。その典型的なものは夢だと思っています」と述べています。たぶん、その典型的な物語である夢が、世にある昔話から文学作品などのさまざまな物語のルーツなのでしょう。たしかに夢は現実の体験を不思議に象徴化してうまく物語ってくれてると思います。

 脳科学でいろいろわかってくることは脳の治療に関して非常に役立つ発見となるでしょう。しかし考えてみれば私たちは太古からそれを夢モニターの発する物語として見ていたのです。脳科学による説明や脳画像などはわかりやすいかもしれませんが、夢モニターでそれを知るほうが、自分一人でチェックできて便利です。そのうえ夢は物語形式なので、サスペンスからホラー、ファンタジーまで盛りだくさんでずっとおもしろみがありますね。

 次に紹介する夢も、自分の体験したことを物語ってくれたというばかりでなく夢が物語を紡ぎだすことによって心をまとめあげ、仕上げをしてくれたのがよく納得できるものです。それは「私の父親が息をつまらせて死ぬ」という私が見た夢です。今から12年くらいくらい前に私は「とにかく悟ってみたい!」と思って禅修行に打ち込み、日常ちょっとでも暇があれば坐禅していました。そして細切れでしたが、丸一日で約九時間あまり座禅した次の朝にとても印象的な夢を見たのです。目覚めて床の中でその夢を思いだした時、ちょっとした気づきと共に体感的にとても不思議な感じが起こりました。

 {夢:お披露目会 、父が息をつまらせ死ぬ}

私がプロ野球チームの監督のようになるらしい。
左隣にもう一人同じような立場の人も立っている。
その奥のテーブル席には野球チームのオーナーらしき年寄りもいる。
新任監督のお披露目の場のよう。
私の側に父がいて、私の周りを驚くほどに忙しくグルグルまわり廻って、私の身なり、格好などについてあれこれ世話を焼く。
父親は終いには勢い余って、みずから肩をいからせ息を詰まらせ、ぶっ倒れて死んでしまう。

 朝、目覚めて直ぐにこの夢を振り返っていた時、ふと呼吸に注目したのです。するとこの時だけでしたがいつもと違う不思議な感じで、出る息が長く長く天井の方に向けて空中をズーッと伸びていったのです。不思議な気持ちよさでした。同時に「ああ、ちゃんとやらねば、ちゃんとやらねば、とずっとやってきたんだなあ」との思いが浮かびました。

 この夢を見なくとも、坐禅修行だけでも同様の気づき体験ができたかどうか検証することはできないわけですが。でも私はこの夢で「あぁそうだったんだなぁ、、」と深く頷けたのです。夢は「お前のやったことはこうなんだよ、そしてこうなってるよ」と物語って教えてくれたのです。

 この時の禅修行とその最中に見た夢とで私の強迫性的なこだわりからずいぶん抜け出すことができたように思います。坐禅修行と夢によって私は治療されたのです。私は完全主義的な「キチンと整えたい」との強迫性障害的なところがありました。四国の山村で農業を営んでいた父は手先が器用で、趣味と実用から始まった大工仕事がプロ並みとなり田舎の小さな建設会社で採用され大工としても働いていました。

 そんな几帳面でキッチリとした仕事をする父親からそれを受け継いだようです。坐禅中に、もう極限まで「ちゃんとやらねば、うまくやらねば」とこだわってました。まるで夢の中で忙しくグルグルまわり廻って私の身なりを気づかう父のようにそれをやり続けていたわけです。ところが逆説的に、それをやり続けたために疲れ果て、夢の父のように息を詰まらせ、ぶっ倒れてしまうような形でそれを手放すことになったわけです。

 ところで私の参禅したことのある曹洞宗系の道場では「只管打坐」「ただ坐れ」などというように工夫や努力などの計らいは戒められています。それを何度も聞いている私は、もちろん意識では充分わかっているつもりでした。それなのに坐禅していると、いつの間にか「これでいいのか、間違っているのではないか、もっと良いやり方がほかにあるのではないか」などと頭を使って計らい続け「ただ坐る」というあり方から程遠いことをやり続けていたのです。

 なぜ素直になって計らいを止めることができなかったのか。その理由は「うまく要領よくやろうとする」あり方は私の信条とまでなっていて、一体化(同一化)していたからでしょう。長い間に無意識の癖となってそれが普通となり、おまけにそれが自分となってしまうので容易なことでは気づくことができません。このようなあり方は内省的な心理療法やカウンセリングがなかなか進展しない大きな要因のひとつとなります。というかそもそもそこに向き合ったり取り組む気になれないのです。それが自分であって、それをなくすることは自分をなくする(死ぬ)ことになりかねないのですから。

 おもしろいことに、この私のまぬけな禅修行は曹洞宗とは相反するやり方の、臨済宗系の公案(禅問答)を用いる修行過程に添っていたのでした。臨済宗では例えば「隻手音声」というのがあって「両手を打てば音がするだろ。では片手の音はどうかそれを聞いてこい」などと理屈に合わない問を老師に課せられるのです。そう言われた修行者は真摯に最大限考え尽くすわけです。考えるだけ考え、悩むだけ悩むと最後はその考え悩む機能が働かなくなって止まってしまう。するとそこに答えの方自ら立ち上がってきて解決に至る。見性する。という修行方法なのです。

 私は悟りにはほど遠かったですが、それと知らないででも同じ過程を歩んだのでした。心のことは逆説が多いですが、これも間違った修行だったのに、かえってそれで良い修行ができたというちょっと苦笑気味の逆説です。

 このブログに取り上げた夢は、説明の都合上もあって典型的な夢がほとんどです。全ての夢がこのようにわかりやすいとは限りませんね。でも、そんなわけのわからない夢なのに、なぜか気になる場合があります。そんな時はそれを否定したり、呆れたりするだけでなく「たぶん夢なりには上手に表現しているのだろうから、きっとなにか意味があるはず」と思ってみましょう。そしてもう少しあれこれ検討してみてください。すると、いつもとは限りませんが、時に「ああ、そういうことかぁ」などと眼から鱗で発見があったり、納得したり、心がのびのび解放されたりするようなことが起こったりします。

参照ページ

コメント

タイトルとURLをコピーしました