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インナーセルフ療法とは

インナーセルフ療法

 「インナーセルフ療法」は心の悩みを解決したいと思っている人(クライアント)で、自分に向き合うだけの余裕の持てる人ならほとんどの人に適応できる心理技法です。かなりシンプルなので治療者側にとっても会得しやすく用いやすいものです。ブリーフセラピーとして用いるととても有効で、慣れてくればユングの能動的想像法の簡易版的に自分一人で内界の自己イメージとやりとりしながら自分を癒やしたり自己肯定感を強めたりできます。

 この心理技法は過去に既存の催眠療法に飽きたらず何かもっと手応えのある万人に役立つことのできる催眠療法はないかと工夫している中からまとまってきたものです。そして催眠療法を希望するクライアントに、自分の否定してきた部分をイメージ化して、向き合いコンタクトをとる技法としてまとめあげました。

 「インナーセルフ療法」と名づけたのは私ですがその中身はすでにある三種類の心理技法をくっつけてまとめたものです。名前以外で私のオリジナルなところはほんの少しです。その三種類の心理技法とは「催眠イメージ面接法」と「インナーチャイルド療法」と「フォーカシング」です。

1, インナーチャイルド療法との違い

 インナーチャイルド療法は着眼点がとてもよくて、わかりやすい心理療法です。今現在の心の問題をたどっていけばその原因やきっかけの根本は幼少時代に遡ることは、ちょっと本格的な心理療法となれば必然ともいえる過程です。またインナーチャイルド療法でない普通のカウンセリング場面でも、自分の内面に向き合ってもらおうとした場合に、クライアント自らが自然に過去にさかのぼっていき、そこに子供イメージが登場する場合は多々あります。そして過去に傷ついた心(インナーチャイルド)を癒やすことが今現在のあり方を変えることに繋がるのです。自己の内面をインナーチャイルドとしてイメージ化することは自分の内面との関わり方に手応えがでます。癒したり、成長させたりがやりやすくもなります。

 でもインナーチャイルド療法は当人の実際の子供時代の自分に限定されていて、創造的な自由さがあまりありません。実際の子供時代に限定してしまうことで無意識の自然治癒力の働きを限定してしまのです。インナーセルフ療法はインナーチャイルド療法のように実際の幼少期時代の子供に限定したアプローチでありません。もちろんそれも含めてですが、内界のより自由な無意識的発想からの子供に限定しないイメージを見守っていこうとします。その方が自然治癒力が展開しやすくなります。自然に任せていると例えば、次の節で述べる鶴先生の催眠イメージ面接の事例では子供(インナーチャイルド)ではなくて大人の自分イメージが最初から登場したりもします。自己イメージを実際の子供時代のイメージに限定せず、もっと広くしつらえる狙いをもって「インナーセルフ療法」と名づけてみました。

 もうひとつ、インナーチャイルド療法は残念なことに自分の内面(インナーチャイルド)を自我意識の方から一方的にコントローしようとしています。インナーチャイルド療法の創案者ジョン・ブラッドショーの著作に『インナーチャイルド―本当のあなたを取り戻す方法』というのがあります。その中の交流分析と自己催眠イメージを使ったエクササイズを例にとってみると、そこには「インナーチャイルドに新しい許可を与える」などと、大人が子供をしつけていくパターンと同じ手法が述べられています。そこに現れたイメージをこちら側からコントロールしていこうとし過ぎなのです。インナーチャイルド療法には良い点がいっぱいあるのですが操作的すぎるので、下手をすると実際の親が子供を親自身の期待に沿うようにとコントロールしながら育っててしまった育て方の二番煎じなりかねないのです。

 その辺りを乗り越えるためにインナーセルフ療法では独自の心理技法であるフォーカシングを接し方の基本にして、過度に操作的にならないようにしています。また、そうすることでイメージの自律的な展開も出やすくなります。治療者やクライアントの側の「このようになっていくのでは・・」などというこだわりのある治癒過程に当てはまらない、ユニークな解決方法が自律的イメージの展開から出てきやすくなります。自然治癒力の働きを信じて待っていると、子供イメージ自体が治癒や解決に向かって変化していくのです。例えば、子供イメージが現れたにしても、はじめは色がなかったり銅像のように固まっていたりする場合だってあります。それが次第に色がついてきたり柔らかく人間らしくなってきたりとイメージ自体で自律的に展開していくのです。

2, 催眠イメージ面接法 鶴先生の事例から

 私がインナーセルフ療法を思いつくヒントになったもので催眠療法の権威である鶴光代先生が1992年に「現代のエスプリ」の中に出された事例があります。

 対人緊張に悩むOLのAさんに鶴先生は「自分がわかる」という暗示を与えます。彼女は自分は広い部屋のなかに一人でいて身を固くして座っている。自分であることはわかるが他人を見ているようでピンとこない。そんなイメージから次第に展開されて、確かに私自身だと実感が生じ泣きはじめた。とあります。また催眠の覚醒後に、自分のことはわかっているのだけど分かりたくない気持ちがあって、ずっと目をつぶってきた。初めて自分を見ることができたような気がすると語っています。鶴先生は論理性や合理性を要求しないイメージの世界で自己に向き会えたからこそ、理屈抜きの実感として自分がわかるという体験をなしていったと推察できる、とまとめています。

 鶴先生の暗示指定は「自分がわかる」というものですが、この事例ではその指定に対してちょっとズレた感じでクライアントの自分イメージが登場していますね。考えてみれば鶴先生の「自分がわかる」指定は漠然としていて自己イメージをストレートに呼び出すにはピッタリの言葉ではありません。そこで私は鶴先生の発言にもあるような「クライアントにイメージの世界で自己に向き合う」という体験をしてもらうために「心のなかにいる(もうひとりの)自分に出会ってみましょう」などと指定するようにしたのです。それにフォーカシング的接し方をプラスして心理療法のエッセンスである(自分と向き合う)ということを「催眠イメージ面接」で的確にやれるようにしつらえたのです。

3, フォーカシング的関わり

 催眠療法は基本的には指示的でクライアントを強くリードします。そのためクライアントの一番良い方向への治癒の流れや自立心を阻んでしまう危険性があります。また催眠の構造上から今までの自我のあり方を一旦ゆるめて自己の一部を再統合するような本格的な心理療法が成立しにくくもあります。成瀬吾作先生が提案した「催眠イメージ面接法」はクライアント自身のイメージ展開を基本にしていてその辺りを乗り越えようとしています。また水島恵一先生はより非指示的にクライアントのイメージに共感的についていくという「イメージ面接」を催眠を用いないままで開発しています。けれども両者ともに治療者側の対応に、これといった筋やまとまりがないので治療者個々人のセンスや裁量によってその成否に大きな差が出てしまうようです。

 この問題点を克服するのに最適なのがフォーカシング技法です。催眠療法家自身がフォーカシング的対応を用いることで、いたずらに指示的になりすぎたり、クライアント自身の自己治癒への適切な流れを阻む余計な介入などの危険性を乗り越えることができるのです。また、イメージ面接法ではクライアントのイメージ展開が拡散してしまって収集つかなくなる場合があるですが、フォーカシングの技法の中にはその事態にとても適切に対応できる技法があります。

 そのフォーカシングの一番の良いところは『見(守)る』フォーカシングでいう『プレゼンス』というところです。それは実は冷静な観察でもあります。ゲシュタルトセラピーの創始者パールズも彼の著作のどこかで言っていましたが、人は客観的な観察の直後に自我の価値観である「良い悪い、快不快」などの判断を即座に入れる癖を持っています。そのくせに陥らないために、具体的には「見るに徹する」ことにより思考が思考を呼ぶループが断ち切れます。自己の一体化している所から離れることができるのです。

 心理療法の壁としてまず乗り越えねばならないのは、この思考のループから抜け出ることです。言い換えると「~すべき」から「~したい」への転換です。ここを乗り越えないで心理学的な価値判断を知的に理解しただけの、身体の変化の乏しいレベルの心理療法が未だにあります。

 もうひとつの壁は、ある価値観に一体化してしまっているがために自分と向き合えないままループし続てしまうことです。これらを乗り越えるには非指示的なカール・ロジャーズのカウンセリングが一番よいのです。でもロジャーズのカウンセリングは非指示的すぎるためにハウツー的に用いることができません。でもそのカウンセリングから派生したフォーカシングには利便性があってハウツー的に用いやすいのです。ちょっとだけ指示的だがそのぶん人に教えたりも出来ます。先に述べた思考のループや自分に向き合えないループを乗り越えるための技法がシッカリとあります。

 フォーカシングでは言語化以前の感覚(フェルトセンス)を「からだの感覚」「感情的な特質」「生活への関わりまたは物語」「イメージまたはシンボル的なもの」というようにわけています。インナーセルフ療法はそのフォーカシングにおけるイメージ又はシンボル的なものである視覚イメージをメインに置いた手法です。自律的イメージには、操作的でないフォーカシング的な見守る係わり方が最適といえます。また、フォーカシング上での言葉になりますが「理想状態(Presence)」と「ある特定の所に一体化している(部分化)」の「感じへの一体化」「感じについての感じ」などというようにフォーカシング的捉え方をしていくことでセッションの様々な状況を乗り切っていけます。

 特に「感じについての感じ」という概念は、自分に向き合う時のコツとしてとても役立つものです。例えば「悲しそうな自分がいます。でもなんか優しく見守れないです」とクライアントが言うとしたら「ではそのなんか優しく見守りにく辺りを見てみましょうか」などと、感じについての感じに適切に対応していけます。インナーセルフ療法は自己イメージ中心ではありますがフォーカシング的に関わることで自己イメージだけにこだわりすぎないで対応していける柔軟さも持っています。

 フォーカシング的あり方がインナーセルフ療法の基本的態度ではありますが、時に、自己イメージとより良い関係を作れるように積極的に「抱きしめてみましょう」などとより強く働きかけることもいといません。また「自由に思いつくままに(自己イメージと)係わってみてください」とクラアント自身にやりたいようにしてもらうこともあります。

4,インナーセルフ療法の狙い「自己肯定感を高める」

 インナーセルフ療法の治療目標は自己肯定感を高めることにあります。その狙うところは、否定されたり受け容れがたい自己の一部や、ありのままの自己全体との関係改善です。インナーチャイルド療法でいえば、幼少時代の自分です。ロジャーズのパーソナリティ理論でいうなら(理想的)自己概念から外れた部分です。ユング心理学でいえば「生きてこなかった半面」。ゲシュタルトセラピーでいえばトップドックやアンダードックに相当します。

 否定された自己の一部との再統合は元々心理療法の重要テーマです。その治癒過程を具体的にわかりやすく表現しているエピソードが東山紘久先生の『愛・孤独・出会い』という著書にあります。インナーセルフ療法の狙うところともちょうど重なる話なので骨子をピックアップして紹介します。

 「愛・孤独・出会い」の本には東山先生がラ・ホイヤ・プログラムのエンカウンター・グループに参加した体験談があります。そのエンカウンター・グループのメンバーの中年女性ジェーンがセッションの中で、自分の中にある子どもっぽさについて今までの多くの失敗体験を話します。それに対してメンバーの一人がゲシュタルト・セラピィの技法を使って、子どもっぽいジェーンと対決してはどうかと提案します。そこでジェーンは子供っぽい部分のジェーン二世としてクッションを相手にロールをやったのです。そしてその最後にジェーンは「お前とは訣別だ。私は一人で生きていく。おまえもどこへなりと行き、勝手に生きろ」とジェーン二世であるクッションを放り投げます。メンバーのみんなはジェーンの決意に拍手を送ります。ファンリテーターもその勇気を讃えました。ジェーンニ世のクッションはグループの真ん中に投げ捨てられたままで、話題は次のメンバーのことに移っていった。

 でも東山先生にはジェーンがジェーン二世を切り捨てるだけでは問題の解決にはならないことが見えていました。本によれば・・・「ジェーンの問題がジェーンニ世を切り捨てるだけではどうしようもないと感じていた。ジェーンニ世はジェーンの影であり、影を切り捨てただけでは問題の解決にはならないことは歴然としているからである。そのような理屈もあったが、何よりもグループの真ん中に捨てられたままのジェーン二世のクッションの寂しさが伝わってきた。次の人に話が進み始めた時に、先程あれほど元気だったジェーンがどことなく元気を失っているのも気にかかった。ファシリテーターの単純さに怒りを感じていた」・・・とあります。

 その後、東山先生は投げ捨てたクッションを拾って胸に抱き・・・「お前はジェーンから嫌われて、今は捨てられてしまった。お前はジェーンを離れて生きてゆけるのか。お前はお前なりにジェーンを愛していたと私は思う。ジェーンはお前の意味を本当に分かっていないと私は感じる。お前とジェーンは一緒になって、生きていかねばならないように思う。二人して、それぞれの良さと欠点を克服して行かねばならないのではないか。相手にだけ欠点や責任を押しつけていたのでは、二人の持つ良さは生きてこないと私は思う」と独り言のように話します。・・・そしてしばらくジェーンニ世を抱きじめていました。

 すると突然ジェーンが東山先生からジェーンニ世を奪い泣きながらジェーンニ世に詫び「私はお前の大切さを知っていながら、私の勝手でお前を捨てた。私はお前無しでは生きていけない。お前だってそうだ。今それが分かった。もう一生お前を見放さない。お前と二人で我々の人生を築いて、生き抜こう」とジェーンは長い間、働哭したのである。グループのみんなは自分たちの心に深く沈潜することができ。東山先生はジェーンニ世をジェーンに返せてホッとしたのです。

 ところで催眠療法に興味を持つクライアントにはその精神的な苦しさのあまり、もう藁をもすがるような思いで、早急な変化を求めている人がかなり多くいます。暗示でも何でも使って魔法のようにパッと早く楽になりたいのです。来談したクライアントは自分に無価値観を抱いています。理想的な自己象とありのままの自分とのギャップや比較から、そうでない部分をダメだと否定してしまっています。時にはそれが拡大していて、ありのままの自己全体を否定するまでにも至っています。性悪説の上に立っているためありのままの自分を押し出して生きることができません。催眠療法を望むクライアントは(暗示などによって)このダメな自分を理想的な自分へと変化させることが自信に繋がると思い、それを期待して催眠療法をやって欲しいと来談するのです。

 心理相談室に来談したクライアントは東山先生のエピーソードにあるジェーンと同様に、自己の一部を否定しています。理想的な自己と比較してそうでない自分をダメだと否定していのです。催眠療法を使ってでも自分のその否定したくなるところを無くしたいと思っています。レベルの低い催眠療法や心理療法ではその考えをそのまま後押しするだけになりがちです。クライアントの内にある認めがたい部分を強力な暗示によって排除する目的に催眠療法が用いられるのです。東山先生の事例で例えると、ジェーンがジェーン二世であるクッションを投げ捨て、メンバーのみんなが拍手を送った辺りまでで治療が終わってしまうのです。

 心理療法では大雑把に分けると、今現在の自我をとにかく強化する方向と、今現在の自我を一旦ゆるめて自己の一部を再統合する方向の治療と二通りの道があります。自分に厳しくして頑張って乗り越える。などというような自我を強化する方向の乗り越え方が役立つ場合もあるわけです。でもオーソドックスな心理療法では東山先生の事例と同様に、心理療法家の方はクライアントが本当に良くなるためには、当人が否定していた部分を統合してもらわねばならないと思っています。クライアントは先に述べたように心理療法の初期には、自分の否定したくなる弱いところを無くして強くなりたいと思っているのでクラアントと心理療法家との間にかなりギャップがあります。クライアントにそのところの考え方を変えてもらうための体験学習として、自らの内の自己像を見守ってもらおうとするのがインナーセルフ療法なのです。

 東山先生のエンカウンター・グループに例えてみると、グループの真ん中に投げ捨てられたままのジェーンニ世と同じに、クライアントの内界で打ち捨てられている自己の一部を探し出し、まず見守ってもらうのです。その後は、ジェーン二世に東山先生が係わったようなやり方を提示したりして、東山先生に触発されてジェーン自身がとった行動のような展開をクライアントに期待するのです。

 昔ある女性クライアントの報告してくれた夢がインナーセルフ療法を思いつく大きなヒントになりました。彼女の夢には市松人形にそっくりな小さな少女が登場して、どこまでも彼女についてこようとします。クライアントは夢の中でその少女が気味悪くて嫌でした。クライアントは夢の中で階段を上がりました。するとずっとついてきていたその市松人形のような少女は小柄すぎて階段を上がれません。階段の一番下の所で彼女の方に行こうと、なんとか階段を登ろうともがいています。それを見かねた彼女は夢の中で思わずその少女を抱き上げました。抱き上げてみるとその人形は不思議に、なんともいえない暖かい感じがしたと言ってました。

 夢の中と現実(エンカウンター・グループ内)での違いがあるにもかかわらず、先に述べた東山先生の本にあるエンカウンター・グループでのジェーンの体験と、市松人形の夢を見たクライアントとの体験が共通しているのがわかりますね。

5,インナーセルフ療法の進め方

 インナーセルフ療法は、クライアントに自分自身に適切な(他人をみる、観察する)距離感(親友に対するような)を持てるようになってもらうことを最重要の目標としています。これはフォーカシングの理想とするあり方をです。この距離感はフォーカシングでいう「プレゼンス」の状態であって「見守り寄り添う」態度といえます。それによって自分を責めてしまう癖や常にそこに陥りがちなループからの脱却できるようになれます。自己否定や無価値観に至っている部分にインナーセルフ療法で向き合い救いだしたりもできます。それは自分で自分を癒やせるようになることでもあるのです。

 セッションの際にはフォーカシングでいう「感じについての感じ」を見逃さないのが治療者側のコツです。フォーカシングの達人であるアン・ワイザー・コーネルさんは「フォーカシングでは迫害者と被害者がいたらまず迫害者の方に同情を寄せる」といっています。それは被害者を救わねばという価値観にこだわりすぎない内面への向かい方の良い例えです。パールズのゲシュタルトセラピーで言えばかわいそうなアンダードックの言い分だけでなく、トップドックの言い分もよく聞くということになります。

 クライアントにインナーセルフ療法を勧める時には指定イメージで「自分の中のもう一人の自分に会ってみましょう」といって内的イメージを喚起してもらうようにします。より丁寧にやる場合は、できるだけリアルで自律的なイメージが出現しやすくなるように前もって軽い催眠誘導などをして下準備します。次にそこに現れる自律的イメージの自然な展開に任せながら治療者側は基本はフォーカシング関わりで順次対応していくのです。セルフイメージはできるだけリアルで自律的(勝手に動く)イメージが望ましいわけです。でもそれよりもっと大切なのは、内面と向き合っている当人の実感です。

 簡単にやる場合は「公園などに座っているともう一人の自分が向こうから近づいてくる」という指示をあたえたりもします。より丁寧なイメージ誘導である「地下室に降りていくと部屋があってそこにもう一人の自分がいる」というやり方は、先の章で述べた鶴光代先生が1992年に現代のエスプリの中に出された事例から思いついたやり方です。クライアントにより感情移入してもらいたい時には丁寧に時間をかけてイメージが活性化するようリードします。

 はじめに自己イメージに向きあうような指定イメージをしたら、次にそれに対する態度を「今だけでも親友に接するような感じで」とか「良い悪いと判断しないで、ただよくわかってみようとしてみましょう」などとフォーカシングのプレゼンス的なあり方でイメージと接してもらうようにします。

 普通のカウンセリングの途中で、クライアントの心に自己イメージが自然に浮かんでいる場合や、それに近い感じの体感があることをクライアント自ら話題にする時があります。そんな時には「そこをもう少し見てみましょうか」と提案して一旦閉眼してもらい「ではそこをよく見守ってみましょうか」とリードしたりしてインナーセルフ療法に入ったりもします。また時にはフォーカシングの途中などでも、ある感じに対して「物事をその人なりに受け止めている辺り」をインナーセルフ療法的に人格イメージ化してみることを提案して関わってみることでより良い展開になることもあります。

 指定イメージの例としては「地下室に入ってみましょう」「ベンチで腰掛けていると、もうひとりの自分が近づいてきます」クライアントが内的な部分を話題にしたら「自分の体の中にそれがあると思ったらどこら辺にありそうですか」「どんな雰囲気のイメージでそこに居るか見てみましょうか」などとか。部屋の中なら「部屋のどのあたりに居そうですか」「どんな気持ちで居るみたいですか」「姿勢や顔つき目つきはどんな感じですか」などを聞いていきます。「どんな思いでいるのか、わかろうとしてみましょうか」「(彼、彼女が)何か言うとしたら何て言いそうか聞いてみる感じで、、」「じっと見守って感じ取ってみましょう」などと介入します。

 イメージとの体感的な距離感はとても大切で「どれくらい近づけそうですか」「近づいても大丈夫そうですか」「背中を擦ったり抱きしめたりできそうですか」などと聞いて確認します。それでクライアント(彼、彼女)とインナーセルフとの距離感が見極められます。「寄り添うような距離に近づいてみて」「背中を撫でたりさすったりしてみて」「手を握ったり、できそうだったら抱きしめてみては」などとより積極的に提案する場合もあります。

6,考察

 インナーセルフのイメージ展開にはよく登場する共通したイメージが見いだせます。否定的イメージでは、体育座りしている。うつむいてる。顔が見えない。など。接しているうちにそれらが変化した時の肯定的なイメージでは、笑ってきた。落ち着いてきた。などがあります。また、近寄りがたい。触れない感じ。距離を取りたがっている。などもよく登場します。

 自分の問題となる部分とどれだけの距離にあるかを、出現するイメージとの間合いから計ることがでます。地下の部屋に降りてみたが誰もいない。などはまだ直に向き合える状態ではないと推測できます。また、近寄れない。見守ろうとしても批判的な部分があってそうできない。などいうことで、すんなりとはいかない感じが見て取れることもあります。

 そのように内的自己像と自我意識との距離感、内界に対する距離感が把握できることでインナーセルフ療法だけでなく心理療法全体としての容易さ困難さが読み取れます。他に距離感の具体例としては、近寄れない。部屋にいない。隣の部屋にいそう。どこかに隠れていそう。部屋に居なかったのに部屋を去る段になって名残惜しい感じがしてきた。影のようなイメージ。距離を取りたがっている。触れたり抱きしめたりできない感じ。などがあります。

 内面に浮かんでくる自己像と向き合うことはクライアント自らの自分への気づきの大きなきっかけとなります。インナーセルフ体験をしてもらうことでクライアントが今まで無意識的で気づかなかった部分や否定していた部分を知ることもできます。またセッション直後の話し合いで、自分の内面をより掘り下げることができるようになります。

 インナーセルフ療法の短所としては、やはり指示的な心理技法の部類に入るので、クライアント自身の気持ちの流れやペースをねじ曲げてしまう危険性があります。自分に向き合うことも容易でない、ギリギリいっぱいのクライアントの場合などには適応できません。カウンセラーから働きかけが多くなることで「わかってもらえた」という感じがしなくなる場合もあります。またフォーカシング技法が未熟だと自律的イメージが出現、展開しにくい場合に対処ができなくて行き詰まってしまうでしょう。インナーセルフ療法だけでなく閉眼しての心理セッション全てに言えることですが、間のとり方のコツを会得するのが難しくもなります。

★参考文献:『インナーチャイルド―本当のあなたを取り戻す方法』『愛・孤独・出会い エンカウンター・グループと集団技法』内界の子供イメージについては網谷由香利氏がその著書『子供イメージと心理療法』でユング分析心理学的な立場からクライアントの内界とともに治療者側の内界にも立ち現れてくる子供イメージの治癒力について考察しています。


フォーカシングで盲点となりがちな自我意識の変化過程

フォーカシングにある二つの流れ

 フォーカシングを一般化していうと「思考による解決手法をちょっと横において、無意識的な働きや身体的働きなどの、自我意識を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとすること」といえます。それを実際面でやりやすくするためにハウツー化したものがフォーカシングの6段階のステップです。

 よく「ストレスが溜まる」といいます。この状態は、例えれば川や水路が狭められて流れが淀み、水が溜まってダム化してしまった状態といえるでしょう。トラウマも同様にそれを押さえこんだ時の身体の緊張とともに流れ出ることを封じ込められています。意識的無意識的に緊張することで、心の流れの路が狭まります。時にはそれが断たれてしまっているかのように見える場合もあります。

 この水路イメージにフォーカシングを当てはめてみると、フォーカシングのテクニックは、その流れの滞った辺りにフォーカスして、そこに溜まったものが無理なくスムースに流れ出すように働きかけるものです。その技法は、心的エネルギーの流れの抵抗を解き放つ心理技法の中ではとても洗練されています。ちょっと古いかもしれませんが、精神分析における抵抗分析と比較すると、その差はイソップ物語の「北風と太陽」の物語に匹敵します。

 フォーカシングでフェルトセンスと名づけた「意識化されていない曖昧な感覚の全体」へのアプローチによって、先に述べたようなストレスやトラウマの適度な解放ができることから治癒が起こります。また時には否定的なフェルトセンスの奥にあった肯定的なものとの出会いや、自我意識を越えたところからのメッセージを受け取り、クリエイトできたりもします。これらの体験には意外性があったり、また涙を伴うことがあったりするなどと、とても感動的です。これがフォーカシングの醍醐味といえるでしょう。このようにフェルトセンスに注目して、そのフェルトセンスが変化、展開していくことによって良い結果が生まれるというのがフォーカシングのメインストリームです。

 けれどもフォーカシングにおいては、フォーカサー自身の意識の側が変化したことによる効果も忘れてはなりません。アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバンの共著『フォーカシング・ニューマニュアル』ではフォーカシングにおける理想の意識のあり方(プレゼンス)を詳しく検討しています。それにそって考えてみると、フォーカサーの自我意識が理想的なプレゼンス状態に育っていくことの方がより重要なことのように思えてきます。最近この側面に関しての言及が以前より増えてきましたね。

 さて理想的なフォーカシングの構図は「フェルトセンス」対「プレゼンス状態」であらわされます。でも現実でのフォーカシングでは「フェルトセンス」とそれに対峙する「理想のプレゼンス状態であろうとする自我意識」というのがより正確です。この「理想のプレゼンス状態へと動いていく自我意識」自体の変化は、フェルトセンスの変化する時の感動に比べ、地味というか微細で目立ちません。そのせいか私の知る限りですが、自我意識が理想的なプレゼンス状態になっていく過程においての、その具体的実際的な動きはそれほど明確化されていないように思います。

 この、より良いプレゼンス状態に移行しようとする自我意識の側の変化は大きく二つの段階に分けられます。一つ目は既知のことですが、フォーカシングの準備段階での知的理解による自我意識の変化のはじまりです。本『フォーカシング・ニューマニュアル』のはじめの方には『何かについて「取り組んでいる」という態度から、何かと「いっしょにいる」という態度に意識的に変わるとき、全てが違ってきます。それといっしょにすわっている…落ち着いてすわっている…と想像することが、この変化を起こりやすくします』とあります。

 フォーカサーはフォーカシングを学ぶ前までは、往々にして自分に否定的だったり、操作的であったりします。それがフォーカシングをマスターしようとする初期段階で、先に述べたようなレクチャーによって自分の内面に肯定的観察的な目を向けるやり方を知的に学んでいきます。それによって自我意識の側は否定的、操作的態度から肯定的な受けとめ方に切り替わろうとしはじめます。

 二つ目はフォーカシング実践中での変化です。自我意識が謙虚になって自分を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとする(理想の)プレゼンス状態への変化が体験的に培われていく段階です。この、体験による自我意識の変化の過程をより細かく見て行くとおもしろいことがわかってきます。それは、フォーカシングを行う際に言語化まで至らなくとも治癒や変化が起こることへの答えともなります。私は、フォーカシングの実際場面での、この、より良いプレゼンス状態にあろうとする自我意識の動きを詳しく検討してみました。そしてそれらをフィードバックして実践面でも応用しています。私なりの解釈なので偏りがあるかもしれません。でも本質をついているところもかなりあるように思えるので今回試論として発表してみます。

 それは、私の禅の修行体験と禅の思想の視点から、フォーカシングを見ていくことで明確になってきたものです。フォーカシングの「理想のプレゼンス状態」は禅でいう「悟り」に至る前段階の、雑念などがでなくなった「禅定」といわれる状態とずいぶん似通っています。

 先に『フォーカシング・ニューマニュアル』の本から引用した文章の中に「…落ち着いてすわっている…」という表現がありましたね。これを読むと私は、その最たるものである坐禅を連想します。また『プレゼンスの力』という章には『プレゼンスの本質』という詩的な項目があります。その中には「あるがままに全てを受け入れること」「何も知らないこと・・・・・可能性をはらんだ空っぽの場所」という表現があります。これはまるで禅の「あるがまま」や「無心」とそっくりです。このような似かよった表現があるということは、両者が同じあり方を基礎に持っているからではないでしょうか。

禅の修行における意識の変化過程

 (…注:私の禅修行においてこれを記した2015年5月の時点の考えと2016/11月の時点とでは、禅に対するとらえ方が随分違ってしまいました。今でもここに記したような修行方法をとっている所も多いようです。けれども私が今学んでいる禅のあり方からすると、観察する部分があるのではいつまでたっても二人連れです。「今、事実は常に一つ」の禅からすると、余計なものがまだある。ということになるのです。そこで現在の私の修行は観察する事さえもしない。要するに何もしない修行となっています。それに二人連れ、というのも実は違っていて、観察している瞬間は「観察している」というのしかないのが事実なのです。とにかく「~する」というのが入り込んでいるうちは本物の禅ではないのです。禅の真髄は何もしないで「只ある」ということのようです。…)

 私は煩悩多くて悟りには程遠いですが、こりないで禅の修行を長年続けてきました。禅では「悟り」状態が光を放って目立つために、一般的には悟りの境地についての話題が中心となりがちです。でもそれらは全て絵に描いた餅なのです。禅の老師は、そんなものを思い浮かべる自我意識こそが悟りの邪魔をしているのだといいます。意識が「悟り餅」を描こうと働くより前にある「いま」あるがままの事実に触れなければなりません。そこで修行の実際では、悟りを求めるのではなくて意識的努力(計らい)や雑念などの思念を断つことを重要課題として工夫していくのです。それが徹底すれば忘我に至り、元来からあった法の世界が現前してくるので必ず悟れるというのです。

 思念を断つといっても簡単にはいきません。次から次に念が湧いてきます。念が湧くのが当たり前になっています。私などは何かに夢中になっている時以外は、朝から晩まで暇さえあれば頭はあれこれ考え続けています。悟った人からいわせればこれは「ハイキングに行って身体は美しい自然の中に触れているのに頭部は、洞窟の中に入ってテレビに夢中になっている」というくらいに、ひどい心身分裂状態なのだそうです。一人でフォーカシングをやると集中が持続しないのは、この意識のかってに動き回る癖のせいですね。

 私の修行している曹洞宗の禅道場では「いきなり無我とはいかないので、方便として心を一点に集中し続ける工夫をしなさい」といわれます。臨済宗派の方では、数息観といって呼吸に合わせて数を数えることで意識を一点に統一できるようになる工夫からはじめます。どちらにしても飛び回る意識を一点に絞る工夫がなされています。そんな修行方法の中には、自分の内面に目を向けて、雑念が湧いたら「これなんぞ」とそこを見るようにしなさい、という工夫もあります。禅の理屈では見ようとすることで飛び回っていた意識が一つに統一されて、心が静まり禅定が深まってくるというわけです。これはフォーカシングでフェルトセンスに焦点をあてていく時の意識の動きとまったく同じです。

 フォーカシングでフェルトセンスに注目していると、それが消えてしまったり、フェルトセンスを言語化しなくとも安定が訪れることが度々あるのはフォーカシング体験者の誰もが経験済みと思います。気になる所を見守るだけで、ハッキリとしたフェルトセンスに行きつく前にことは済んでしまう。これは焦点付けるという動きによって、それまで飛び回っていた意識が一点に落ち着いてきたからなのです。

 禅の見解では事実は「いま、いま、いま」と常に意識に先んじ、縁に応じて動いていっています。その動きは一筆書きのような作用なので、事実に葛藤はありえないのです。「いま」の事実は既に終わっているのに、いまの直後(ベンジャミン・リベットの実験によると約0.3~0.5秒後くらいといわれてます)に意識がそれを認め、捕まえます。そして良い悪いなどと価値判断を持込み、葛藤し、悩みはじめます。

 その事実を約0.3~0.5秒後に認め受けとめる価値判断(受けとめ方・自己概念)には非常に個人差がありますね。本格的な心理療法ではクライアントが悩みや症状をポジティブに受けとめることでそれを乗り越えられるようになるために、この受けとめ部分の改善や成長が目標となります。でも禅では受けとめ部分が働かないようにすることが目標です。まず「事実」のみに意識を注目させて、余計な思念を断つようにと修行します。そしてもっともっと思念を断っていくことで、最後は受け止める部分全てが無くなるようにと徹底するのです。

意識の「見守ろう」とする動きの効果

 禅では自我意識に対して否定的なので、修行者はへたをすると自己嫌悪に陥り挫折しかねません。私は自己肯定的なフォーカシングを禅修行に取り入れることでこの辺りを脱することができました。

 坐禅中になかなか雑念を断ち切れない私は、ガッカリして「ダメだなあ、またやってしまった…」などと念を継ぎ足し自己嫌悪に陥り、やる気までなくしていまうという繰り返しに嵌っていたのです。そこで、その雑念や思念の起こる辺りをフォーカシング的にやさしく「見守る」ことを試してみました。これはかなり役立ち、自己嫌悪に陥らないようになりました。また、意識が雑念に流されていない時は、今度は頑張り過ぎというか「これで良いかな」「もうちょっと早くうまく上達する手はないかな」などと強迫的に計らい続けていることにも気づけたのです。そういえば禅の老師からは「素直に言われた通りにやればよい」とさんざん言われていました。けれどもそう言われても、自分が素直でないとは疑いもしませんでした。それ程に「うまくやる」ことは私の一部と化していたようです。

 私は時に、フォーカサーや心理面接中のクライアントなどに「頭さんに注目してみましょう」などと、当人の意識自体をチェックしてもらえるような言葉を投げかける場合があります。ちょっと操作的なのですが、ねらいは、表面化していない内心の動きを知りたいのと同時に、フォーカシングなどの目前の課題にスムースに入っていけるようになってもらうためです。すると私自身がそうだったような「うまくやらねば」「失敗しないように」「良い悪い」や「他のことが気になっている」などの意識の余計な計らいや注意散漫に気がつく人がいます。それに気づいた時には、そちらに働いていた意識の動きはもう止まっていて、その分リラックスが深まります。また目前の課題にすんなりと入っていけるようにもなります。この方法は対人緊張が強い人のリラックスにとても役立ちます。

 この変化は、当人が「自身の意識の余計なはからいに気づいたからこそ、それが止まった」ということになります。でもこれは100%の正確さではありません。実際には「意識自体を見守ってください」といわれて、内を見ようとするその時には、良いか悪いかチェックしたり心配したりなどと、それまで飛び回っていた意識は、すでに内面を見ようとする動きに変化しています。実はその時点で問題は解決していたといえるでしょう。

 意識自体を見守ろうとしなくても、フォーカシングには大いに自分を落ち着かせる要素がありますね。昔、阿世賀先生のフォーカシング講座で体の各部位を順次見守っていくやり方を学んだことがあります。とてもリラックスして眠気まででました。その時の心身相関を細かくたどってみると。身体がリラックスする前に、まず意識が「見守る」という単純作業に統一されて飛び回らなくなり鎮まります。次にそれにつれて身体もリラックスしてきます。するとそれまで緊張していたために表面化しなかった身体の疲れや眠気がでてくる、という流れが見えてきます。

 これらは言い換えると単に「落ち着く」ということです。でもこれが意外と難しいのです。「落ち着こう」「リラックスしよう」と意識することは、逆に意識を余計に働かせることなります。思考のループを助長させてしまうのです。前の章で「悟りは絵に描いた餅である」と述べたのと同じ作用です。一体化しているせいで考え過ぎていることさへ気づけない場合もあります。そこで登場するのが、この「内面を見ようとする」という行為なのです。意識が「見る」一つになったことで、動き回る意識の計らいに振り回されていた身体も一つに定まり落ち着いてくるわけです。

 内面を「見る」ということは、自らの内面と適切な距離を持つことができるという側面での効果もありますね。例えば、簡単にはいきませんが「強い感情に圧倒」されていたりする場合に、その強い感情の全体を見ようとすることで距離がとれてきます。この場合の心身相関もより細かに見てみましょう。まず強い感情が起ってくると、それを自我意識が捕まえて「何とかしなければ、でもできない、苦しい、このままではおかしくなるのでは」などと動き回りはじめます。強い感情はすでに過ぎ去っているのにその時の恐怖でこだわりができたのです。でも今度はそれを「見よう」とすることで、意識は考えることから次第に「見る」動きに集敏されていきます。そして見ようとすることに徹底できるほど身体も落ち着いてくるわけです。

 ……「強い感情に圧倒」されているという場合、感じの感じといえる「圧倒されている部分」を見守ることも見過ごしてはなりません。そのさいも心身相関的にはほとんど同一の動きとなります……

 心の「落ち着き」には深浅もあります。禅の修行の過程を10枚の絵であらわした「十牛図・牧牛図」というものがあります。中国宋代の廓庵禅師によるものが有名ですが、そこには牛との関わりを主題とする絵をもちいて、悟りに至る禅修行者の境涯の進展が表現されています。私の独断ですが、その図に禅の修行過程で深まっていく心の落ち着き度を当てはめてみたのです。すると、第三図の「見牛」で心が落ち着きはじめ、第七図の「忘牛」辺りでは深い静寂を体験するなど、悟り以前にあっても修行者の境涯の進展に付随して心の落ち着きも深まっていくようです。中西政次氏の著書『弓と禅 』の中には、その第七図辺りに相当すると思われる境地が「人跡未踏、神のみのしろしめる湖の小波もたたぬ水面の静寂さが来た」という表現で述べられています。そういえば仏頂禅師に参禅した松尾芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」にも深い静寂感が見られますね。

 フォーカシングのプレゼンス能力において「心の落ち着き」は必須といえます。そこで先に述べた禅修行でみられるような、その深まり度の側面に関してはどう見ていけばよいのでしょう。フォーカシングにおいて理想のプレゼンス状態(プレゼンス能力)を追求する限りは、この心の落ち着きの度の深浅も検討すべきではないでしょうか。

理想のプレゼンス状態 一体化からの離別

 禅ではフェルトセンス的なものは全く取り扱いません。何ごとにもこだわらないのが禅のあり方です。そのため概念化や言語化さへ余計な動きとして捨て去ろうとします。禅の修行は、心理臨床における無意識を自我に統合しようとする作業とは真逆に見える、自我本体を一度すべてなくして(忘我して)しまおうとする作業です。一見フォーカシングとは相容れないもののようにも見えるのですが、でも両者は理想の自我意識(プレゼンス状態)を追求するという点では全く同一線上にあります。

 これまで「禅の修行過程」と「フォーカシングにおける理想のプレゼンス状態への変化過程」を重ね合わせたり照らし合わせたりしながら比較検討してきました。最後に「一体化とそこからの離脱」の側面から両者を見てみます。……こだわリを排するせいか禅には一体化に当てはまる概念は見られません「何でも捨てていくのが禅修行である」といわれる中に図らずとも一体化からの離脱も含まれているといえます。でも私が思うに、一体化は心理療法のみならず禅修行においても大きな障壁となる場合が多々あるように思います……

 『フォーカシング・ニューマニュアル』の後半にある『プレゼンスと部分化』という章では、よりよいプレゼンス状態になるために、一体化に関する詳細な分析とそこからの離脱を追求しています。そこでは心理学用語の「一体化」を『部分化の状態にいる』と呼びなおし、実例にそって具体的に深く分析しています。それらは一体化からの離脱を実際におし推し進めていくためにとても役立つ概念となっています。禅では「何でも捨てていく」修行によって同じく一体化からの離脱も進んでいきます。そしてフォーカシングにおける一体化からの離脱よりももっと先まで、身体や自我意識なども捨て去って離脱していこうとするのです。そのようにして全ての一体化から離脱した暁には忘我状態が訪れます。そののち、我に返った時に悟りが訪れ、今度は「元々全てが一体(自分)であった」とわかるようです。

 さてフォーカシングにおいて、プレゼンスの理想のあり方は今後も追求されてしかるべきでしょう。それには部分化の状態(一体化)を見ぬき、そこから離脱するという作業をより拡大深化して行くことがメインの作業となります。そしてそのように広げ、深めしていった結果ですが、ついには身体内や自我意識への一体化も見ぬいていくことになるのでしょうか。理の上ではそれは可能なわけですが、はたして実際にはどうでしょう。

★参考文献:『フォーカシング・ニューマニュアル  アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバン 共著 』 『マインド・タイム~脳と意識の時間 ベンジャミン・リベット』 『弓と禅 中西政次 春秋社』 『意根を断つ今一度坐禅について 前編 少林寺住職 井上貫道』 『意根を断つ今一度坐禅について 後編 少林寺住職 井上貫道』