心身の能力を最大限発揮するためのコツ

本来の実力が発揮できなくなるあがりや緊張

 人前でパフォーマンスをする時プレッシャーなどから余計な緊張してしまい自分の能力や実力を充分発揮できずに悔しい思いをした人は数多い。努力逆転の法則などというようにいざ本番となると、心は焦り、頑張れば頑張るほどに身体は固まり思うように動かなくなる。心と身が繋がらなくてバラバラな動きになってしまう。

 あがり症、緊張症の解消に個別の心理療法のカウンセリングや催眠療法で取り組む方がおられる。このブログ「心身の能力を最大限発揮するためのコツ」は、そんな方々と心身の問題を根気よく掘り下げて工夫している中から見えてきたものを下地にして書いている。

 上がり緊張の解決策は、実は、よく言われる「考えすぎなければいい」ということである。確かに無心に我を忘れて心身一体となって物事に没頭するのが一番実力を発揮できるのは理屈では納得できる。 無心でやれば良いのだ。けれどなかなかそうはなれない。「考えすぎなければ良いよ」といわれてこの問題が解消した人はまずいないであろう。

 実際にちゃんと無心になれるコツが体験会得できなくては本当の解決には至れない。そこで今回はこの問題を徹底的に洗いなおしてみた。おもしろいことに、そのように心身のしくみをより本質的なところから解明したその対応案はあがり、緊張に効果的なだけでなく、達人の域に達するためのコツでもあった。

あがり緊張の諸相

 スポーツでのあがり症の一つにイップスと呼ばれる症状がある。イップスとは極度の緊張感、精神的なことが原因で筋肉が硬直し、思い通りのプレーができなくなる運動障害のことである。元はゴルフ界の用語でパットの際などに身体が思うように動けなくなる症状を指していた。それが近年では他のスポーツでも使われるようになってきたのである。弓道やアーチェリーには矢を発射する時に早すぎたり遅すぎたりして適切なタイミングを失ってしまう早気やもたれといわれる症状がある。これらもイップス類似の症状と見られている。

 スピーチ恐怖症やあがり症対策については過去に『あがり症克服のコツ』という電子書籍で具体的に述べたことがある。スポーツなども含めたより広い範囲でのあがり症や緊張症の人に共通しているのは、先にも述べた心と身体がバラバラになっていて心身統一できなくなっている点である。

 その心と身体がバラバラになってしまう動きをちょっと具体的に見てみる。例えばゴルフで優勝のかかった最後のパットに取りかかろうとしたゴルファーに「これを入れたら優勝だ!」とか「ミスしたがすべてが終わりだ」などの思いがよぎる。この時、プラス思考などで気を取り直して脳の想像イメージ によって自分の身体がスムースに動くように成功イメージできたりすればまだ何とか修正が効く場合もある。ところが「ちゃんとできるかどうか、、」などとの重いが浮かんで不安にとらわれてしまう場合がある。

 迷いはじめてしまう。さらには失敗しないようにと、より意識性を高めて身体をコントロールしようと頑張る。もう身体に任せられなくなっているのだ。知らぬ間に自分の実力以上にうまくやろうとしてしまっている。でも身体はこれまでの実力以上にはできっこない。そして心身は葛藤状態となる。

能力を発揮できない原因は科学万能主義にある

 余計なことを考えないほうが、心身は自然に事に対処できる。イップスの場合、自然に動作できている時の平常心が意識過剰によって打ち破られるために、身体が伸び伸び動けなくなってしまっている。原因は意識、思考にあるのだ。でも最初にも述べたようになかなか無心にはなれない。特に近代人は学校で学んだ「よく考えて答えを出す」という問題解決法が当たり前のやり方になっている。そのため、「よく考えて答えを出す」という手法が逆効果を及ぼしているなどとはツユにも思えないのだ。

 私たちは自分の意識や意志力で自分をコントロールしているつもりでいる。自動車を運転するのと同じ感覚で自分の身体を運転しているつもりでいるのである。でも身体の運転は車の運転とは根本的に大きな違いがある。自動車は他とは切れた個体である。交通網の中に入って円滑に目的地に到着するには、交通網の流れや道路に沿うために人間がとり行う運転技術が必須である。

 けれども身体は環境と切れた個体ではない。生まれた時から生命体としてすでに環境と繋がって生きている。まず空気を吸って酸素をとり入れて生きている。音がすれば勝手に聞いている。危険なものが近づけば「危ない」と思うより先に身体がそれを避ける。人がハンドルやアクセルブレーキなどを操らなくても自動運転の部分が多いのが人間の心身なのである。環境の中を自動運転できる技術を生命体はすでに機能として備え生まれてきているのであった。それを禅仏教では、全てを法(環境、宇宙、心身)が執り行っているから意識の方は余計なことはしなくていい。逆にそれをするから問題が起こるのだとまで言いきっている。

 けれども近代科学の下に生きてきた人間は、身体に任せっきりではどうなることかと不安でならなくなってしまう。自動車に任せっきりで運転するなんてあまりに無謀だと思うのと同じに思えるのだ。その裏には、人は理性によって地球の自然を征服して、昔に比べずっと安全に便利に生活できるようになった。その方法を生命体としてすでに活動している身体にも当てはめてコントロールした方が良いとの思想、思い込みがある。

 これは実は、自動車の運転手が二人いてその二人が二つのハンドルを握って一つの自動車を運転しようとしているのと同じ、おかしなことなのである。イップスの症状は一つの自動車(身体)を意識と無意識の二人の運転手がそれぞれにハンドルを切ろうとするところから起こってくるのである。同じ方向に切るならまだしも二人が正反対にハンドルを切るなら身体という自動車は身動き取れなくて固まるしかないのである。

意識の勘違いの証明 野口体操・リベットの実験・禅仏教

 意識がメインで心身をコントロールして活動しているというのは事実ではない。野口体操の創始者、野口三千三氏は『原初生命体としての人間』という本で「私は、できるだけ広い範囲のことについて、なるべく反射的に行動することができ、反射的に行動することができないことは、ほんのわずかなことだけで、そのわずかなことについてだけ、意識的に判断をする」という。

 禅の方ではよりラディカルに「すべての人が環境と連動して(縁起によって)そのように生きているのだ」という。禅の考えは後でより詳しく述べることにするが、私たちはその多くを意志力でやっていると勘違いしていて、それと気づけないだけなのである。

 このことは脳科学の分野ですでに明確になっている。アメリカの生理学者ベンジャミンリベットは1957年ごろ友人の神経外科医が脳の外科手術を行っている間に実行できるような実験をして、脳の感覚皮質そのものを刺激する実験を行った。その実験から、あらゆる行動はそれが起こってから最大0.5秒後に意識に上るという結論に達したのである。人は意識してから行動を起こしているのではなくて、意識で気付いた時には既に行動は起こっていることになる。意識は行動の内容を決定したつもりになっているがそれは大きな勘違いである。感情についても同様で無意識が勝手に作っていて意識は遅れてそれに気付くことがわかっている。

 リベットは「人間の今という現在についての経験をどのように考えるかということです。最大0.5秒という遅延のために現在をどのように定義し理解するかが困難な問題になっています。・・・中略・・・つまり実際に私たちが現在について気づくのが大脳皮質に感覚信号が届いてから最大0.5秒立った後であるのにもかかわらず、私たちが主観的にまさに生きているのは前に戻った現在であるということになります」という。

 さらに「車を運転していてボールを追いかけてきた少年が車の前に飛び出してきた場合は少年が表れてから0.15秒たらずのところでブレーキを踏む。この行為はアウェアネスでなくて無意識に行われています。このような込み入った精神機能が無意識に行われているのです」とも言っている。つまり意識できた時、事は全て終わっているのだ。しかし私達はリアルタイムに行動していると思い込んでしまっている。

 このことは実はリベットの実験を待たずして、はるか2500年前にブッダが見抜いていたことであった。仏陀が菩提樹の根元に坐り続けて忘我状態に入ってのち、認識が戻った際に気がついたのは『この世は人間の考えとは関係ない宇宙の法則として、人が認識や知恵を働かせる以前に、今に生滅して完遂(全てがきちんと成仏)しながら流転している』ということであった。

 私たちは事実と思考、想像を繋げて生きているのが普通である。そのうえ今の瞬間の事実も思考の働きもスピードが非常に早い。なのでこのことが明確にできないでごちゃ混ぜにしたまま生きているのである。でも例えば実際の地形とその地図との関係のように事実(地形)と思考・想像(地図)をきちんと分けていってみると次第にわかってくる。全てのことが私たちが物事を認識・意識する以前の『今』の瞬間にすでに始まり終わっているのである。

心身の能力を最大限発揮するためのコツ

 江戸時代初期の禅僧、沢庵宗彭が柳生宗矩のために書いたといわれている『不動智神妙録』という剣禅一致についての書物がある。その中に「・・・心をばいづこにも止めぬが眼なり。肝要なり」と剣術の極意として禅でいう無心を説いている。リベットの実験結果を加えて言い換えてみると「心が一つのことを意識すると0.5秒の遅延が起きるので瞬時に対応できなくなる。無心でいれば0.15秒たらずで身体が勝手に対応するぞ」ということになる。

 このところで気をつけねばならないのは、心身統一合氣道の会長である藤平信一氏がいう『心身統一とは「心」と「身体」の統一ではありません。「心身統一」とは「天地と一体になる」こと、すなわち天地と氣が交流している状態を指します』という辺りである。通常では、心(意識)が頑張って身体と一体になっていく努力をすることでそうなると勘違いしている場合が多い。無心にあろうとする時も、心身統一しようとする時にも、つい意識が頑張ってしまうのだ。

 沢庵和尚の不動智神妙録にも、この辺りのことを故人の歌をひいて「思はじと思ふも物を思ふなり、思はじとだに思はじきやきみ」と言っている。思わないでいようとすることも思いをしていることになる。思わないようにとも思わない。というのが本当の無心ということだという。心と身体が天地と一体になるにしても、無心ということに関しても、意識的なうまくやろうとするような努力は必要ないのである。

 さてここまできて厄介なことになった。(私が)努力してそうなろうとしてはいけないのである。そうしようとすればかえって無心から遠のくことになる。更に、あえてそうしないでおこうとすることも無心から遠のくことになる。本当のコツを会得するための道はないということになってしまった。

 この難問への回答らしきものが名著「弓と禅」の中にある。著者オイゲン・へリゲルが弓の修行をするにおいて、阿波研造師範はへリゲルに「赤子に弓を握らせて放すと全然衝撃が無い。そのように引くのだ」と言う。ヘリゲルは「赤子には目的も無く意図も無い。私には放すということがあるから赤子のようにはできない」と言う。阿波師範は「正しい射には意図も目的も無い。一切を捨てよ」と言うのだ。

 禅の高僧や弓の達人がいうと、凡人にはとても達しがたい境地のように思えてくる。でも元は、ようするに子供心である。そしてこれはブッダが発見したりリベットの実験結果からいえるように、すでにだれもがそうなっているものである。意識に勘違いがあって、それに気づいていないだけである。だれもが赤子の時にはそれのみで生きていたし。難しく捉えないでそのままに受けとればシンプルで、わかってしまえば「なんだそんなことか」というようなことなのだ。

 すんなりと無心(赤子の心)に気づける人もいるが、でも実際にそれを会得するのに苦労している人は多い。幾年もかけて我を捨てる工夫をしている禅の修行者もいる。自分で自分をなくすことは容易なことではない場合が多いのである。しかし忘我状態に限って言えば、他人にリードしてもらえば自分でそうなろうとする部分を任せることができる。当相談室でも用いている催眠療法である。我を忘れてもらうノウハウにたけている他者催眠によって一度でも忘我体験をするとかなり簡単にそのコツが会得できるのである。

参考文献

マインド・タイム - 岩波書店
脳研究40年に及ぶ著者がなし得た驚くべき発見の経緯と脳や意識をめぐるあらゆる仮説への明解な論評.
野口体操 公式ホームページ - TOPページ
野口体操の公式サイトです。野口三千三の映像アーカイブス、写真等の紹介と伴に野口体操の現在を伝えます。
http://www.shinichitohei.com/japanese/2016/04/post-adbb.html

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