セルフコントロールがうまく行かない原因
私は若いころ三日坊主で意志力がないと父親によく言われました。「確かに自分は何かをものにしようと取り組んでみてもすぐに飽きてしまう。本当に物事を成し遂げる力がないのかも。人から称賛されるような偉大なことを成し遂げたいのにこんな三日坊主ではとうてい無理だろう。。」などと自分でも思ったりして、かなりの劣等感になっていました。
そんな時、これは役に立ちそうだ!と目を引いたのが催眠から派生した潜在能力開発に役立つ「自律訓練法」という心理技法でした。厚労省のe-ヘルスネットに「自己暗示の練習によって段階的に全身の緊張を解いていく訓練法・・・」とあるそれです。
私は張り切って六つの公式暗示のうちの第一公式である「腕が重い」という暗示を試してみたものです。でも、全くピンときませんでした。腕が重い感じがよくわからないのです。あきらめて、しばらくしたらまた試してみるがやっぱりわからない。という繰り返しでした。催眠療法の大御所だった成瀬吾策氏の「自己コントロール・能力開発の心理」という新書本を買ってこころ新たに挑戦してみましたが、その本の通りにやろうとするとかえって難しくなってしまいました。泣きっ面に蜂です。おまけに自律訓練法が会得できない事自体が劣等感に追加されてしまいました。
でもその後もしばらくしたらまた試してみるという感じで、しつこく幾度となく行き詰まりを繰り返しながらもセルフコントロールに挑戦してみました。そしてずいぶん長い期間がかかりましたが次第に、私にはどうして自律訓練法が会得できないのかの理由がわかってきたのです。
意識自体の勘違いを見抜く
私が自律訓練方法を会得できない理由は過剰な意識的努力にあったのでした。要するに元来の頭でっかちな私自身のあり方が禍していたのです。自律訓練法は心身のリラックスを深めるために体系付けられたトレーニング方法です。でも私はマニュアル本通りにならなければと、意識性を高め自分を思い通りにコントロールし、型にはめようとして逆に緊張していたのです。
幼少の頃のトイレットトレーニングの影響でしょうか。どこかで「物事は理性でコントロールしてうまくやらねばならない」と思い込んだのでしょう。また小学生の頃には科学画報という月刊誌も読んでいたのでその本で科学的思考が訓練されたのでしょう。いつの間にか、そのようなやり方が普通となってしまっていました。それに気づくには随分時間がかかりました。二十歳過ぎから徐々に取り組んできた禅修行によって「人は思考と事実をまぜこぜにとらえていて、意識は勘違いしていることが多々ある」ということを学び、やっと自分の無意識の癖を見抜けるようになってきたのでした。
新しいことに取り組むときや失敗をしないで物事を成し遂げようとするときには、意識して緊張感を持って抜かりなくやることはとても大切です。でもこれが行き過ぎて、例えば何事も意識「頭脳」でコントロールしようとしてしまうことは人間の心身のあり方の自然な流れと大きくズレてしまったり、逆行してしまうことになってしまい、心身一如の動きでなくなるのです。
意識的な動きの二つの問題点
心の葛藤
自分をコントロールしようとすることは。今現在のあり方以上の理想の状態に自分を持って行こうとすることです。それは理屈やイメージ上ではすんなりと達成できた状態が思い浮かべられます。でもそれはまだ絵に描いた餅にすぎません。通常はそこから根気よい練習や訓練を積重ねて、長い期間をへてその理想に到達できる場合もあれば、それでもなお到達できないこともあるわけです。
とくに、本番でこの「うまくやりたい」欲求が働きすぎると今現在の実力以上には動けない身体の動きと乖離してしまいます。その状態を引っ張り上げようとする意識と、その時できる範囲でしか動けない身体とのズレが起こってきます。また自己否定が強い人の場合は、ありのままの自分(身体)に自信が持てないので、思考自体も「うまくやりたい、でもできないのでは」と相反する思いがうかんで葛藤してしまうのです。
基本的には身体はその時ひとつのことしかできません。身体が緊張して固まるのは心が相反する思いで行ったり来たりと葛藤していて決まらないので身体もどっちについて良いかわからず、身動きできずにいるからなのです。
(上手くやろうとする)観念の暴走
思考がアレかコレかと葛藤したときに、身体は「身動きできず固まるしかない」という問題とともに、うまくやろうと意識を働かせるときに気をつけねばならない問題がもう一つあります。それは心理的なものは特にですが、思考(頭・理性)だけで物事を解決できると勘違いして実態(行動、感情、本心など)が伴わない表面的な形だけで済ませようとしてしまうことです。
生命体である心身はその時々、事実に即して(自動運転で)動いています。心臓などは勝手に動き血液を全身に巡らせるよう働いてくれてます。歩いていて躓いて転びそうになったときにはとっさに手が出て自分を守ろうとします。でもそのような活動とは別に、想像だけによっても動くのです。
例えばウトウトしているとき夢うつつに階段を踏み外すようなイメージが思い浮かんで同時に身体がカクッとなったりすることがあります。寝ているときに見る夢に狸が出てきたので蹴飛ばしたら、実際に隣に寝ていた奥さんを蹴飛ばしてしまった人もいます。そこまでの大きな動きでなくても、野球のピッチャーになったつもりで、投球するところを想像すれば、実際に投げてるときほどハッキリした動きではなくても腕の筋肉は投げようとした動きを微細にとっているのです。
現代人は科学の力と想像力によって自らの心身をコントロールできると思いこんでしまいました。自然を整えて人間が安全に便利に生活できるようにコントロールしてきたのと同じように、自然生命体である人間の心身をも合理的に効率良く、まるで機械を操作する時のように操作できるのではと思いこんだのです。それは生命体が元来行っている、事実に即した生命活動の反応や動きよりも合理的で効率良く、とても良いやり方に思えるのです。しかしその結果、人間の心身が元々持っている本当に大切な自然治癒力さえ阻害してしまうという問題が起こってしまったのです。
思考に限ってみても、例えば「考えすぎだよ。気にしないようにしたら」などと言われると「そうか。じゃ考えないようにしよう」と思うのは良いですが、その後にも、あ、また考えてしまった。どうしたらもっと考えないようにできるだろう。などと考えの上塗りをしてしまいます。「上手くやろう」とする努力がいつの間にか、実は、船が沈みかけてしまったので積み荷を船外に捨てねばならないのに、逆に積み荷を積み込んでいる行為になってしまっているのです。でも頭で何事もコントロールできるつもりになってなっている意識はそこになかなか気づけません。
これらの思考の勘違いに重ねて、テレビやインターネットなどのビジュアル化バーチャル化の発展によって、中身が伴わなくとも見た目、格好がよければ、そして他からの賞賛があれば全て良し。との価値観が加わります。SNSなどの画像のフォトショップによる加工からはじめて、とにかく競技に勝てば良いとのドーピン グや、人気を得るための過剰な美容整形など。内面は二の次で表面的に良ければ全てよし。と思う人が非常に増えてきました。
この傾向は日本では建て前と本音ということで使い分けられていたところの、建て前の部分だけで満足するというあり方ともいえます。これによって本音の部分など内面の否定的な劣等部を克服できたと思い違いしているのかもしれませんが。この心身の深いところを無視したあり方は逆に自己のよって立つ生命体自体を破壊してしまうこと、言い替えると自分で自分を切り崩している行為なのです。
メディアの中では、切り取られ過大に粉飾されたヒーロー、ヒロインが大活躍です。私達大衆はマスメディアの発達とともにそれらの作られたヒーロー、ヒロインを昔の時代の何倍も見せつけられ、知らぬ間に洗脳されているのです。言い切ってしまえばそれらは実は幻想で彩られた偶像です。そんなヒーロー、ヒロイン達ですが、でも私たちは彼らに感情移入することで、一時的に彼らの物語を心理的に同じく生きることができます。ヒーロー、ヒロインが試練に立ち向かうことを追体験することによって私たち自身が心理的に大きく成長するすることも数多くあります。また自分では成し遂げることなどあり得ないような夢を、ヒーローが代わりに成し遂げてくれることで無力でうだつの上がらない自己のストレスを発散できたりもします。
問題なのはそのような世に称賛されるヒーロー、ヒロインでなければ無価値であると思いこんでしまってヒーロー、ヒロインのように秀でたところのない私たちには幸せは得られないかのように思いこむことの危険性です。
どうすれば心の葛藤状行動に態や観念の先走り状態をうまく乗り越えられるか
ここまでいろいろ掘り下げて検討した思考の働きの弊害の方をまとめてみると。「うまくやりたい」が心の癖(枠組み)となってしまって自然発生的な自己の内面からの動きを否定的に見てしまったり阻害している傾向でした。そこで言えることは、否定したり阻害したりしてきた自己の内面をコントロール(操作・統制)するのでなくてそこと繋がる(共感する)ことこそが必要だということです。
しかしこのような背景があるにも関わらず、なんでも科学で解決、とばかりに科学的心理学をアピールするハウツーものが横行しています。「こうすればうまくいく」というハウツーものはその殆どが実は先に述べた「船が沈みかけてしまったので積み荷を船外に捨てねばならないのに逆に積み荷を積み込んでいる行為」なのです。少し言い換えてみると、意識(思考)と自らの身体や感情などとが切れてしまっていることが問題なのであって、それを繋げる作業が課題であるのに、科学的に頭脳を働かせることで解決しようとして、またしても切れたまま思考内でのみ動いてしまっているのです。
自己の内面と繋がるために、コントロールより先に自分自身に寄り添い見守り、共感的に接する必要があるのです。例えば友人が深く落ち込んでいるときに、慰めたり励ましたり、友人の気持ちが切り替わるよう説得してみたりなどと働きかけるのは悪いことではないのですが、それが行き過ぎると友人をコントロールしようとして押し付け、追い込むことになりかねません。その逆に、黙って友人のそばに居ることが余計なプレッシャーを与えないで友人を深く支えることになります。その(共感的な)あり方を自分自身に向かって働かせるのです。
良い悪いの判断を一旦横において、自分に共感的に向き合っていれば、自分が無意識的にやっている癖を見抜くことができるようになります。自分が葛藤していることや、思考が次々飛んだり繰り返したりしていることにも気がつくようになるのです。
価値観の転換は(心理的な)大仕事でもあります。自分一人で自分に向き合うのが困難な場合には共感的なカウンセラーに寄り添ってもらいながら自分に取り組むのが良いでしょう。
私の場合はうまくやりたいとの思いが完璧主義までになっており、そんな几帳面さが高じて強迫性障害一歩手前だったと思います。そこから試行錯誤して長い期間、修行のようにいろんな心理技法を体験学習しました。そんな中で禅の根本思想である「あるがままに今を生きる」というあり方から多くを学びました。またここに述べたセルフコントロール法のテクニックである自分に共感する技法は「フォーカシング」という心理技法で学ぶのが最適でした。この禅とフォーカシングに関してはブログの他の箇所(下記の参照ページ)で紹介してあります。
ここでは私自身が自己コントロール法やマインドフルネス法を会得するために役立った受け止め方や考え方で、当心理相談室に来談されるクライアントに、このような受け止め方や、やり方もありますよ。などと説明しているものを箇条書してみます。読むだけではピンとこないものもあるかもしれませんが、本当に役立つセルフコントロール法を求めている方の縁になることを願っています。
①自分と向き合う
まずは自身を観察すること、自分を見守ることがなによりも優先です。「見る」に徹することで意識の「うまくやろう」とする動きを止めることもできます。見守る自分になれば上手くやろうとか失敗してはいけないなどという意識の動きから離れられるのです。
②心身への信頼
うまくやろうとすること、合理的に計画的にやろうとすることは自分の身体の自然の働きを信頼していないからでもあります。身体に任せていては失敗するのではないか。と思う時点で意識の一人歩きとなっているのです。自然生命体としての身体がちゃんとやってくれるんだ。と信頼できていれば余計なことは考えないで身体に委ねていられます。
③等身大で生きる
自己否定の上にある価値観でなく、弱点もある等身大の自分を肯定してありのままを基本にして生きられるようになる必要があります。
④事実と想像
事実と幻想を区別できるようになる事が大事です。事実と思考、想像が混ぜこぜになっているので、それを見分けられるようになることも必要です。そうしていると他から称賛され尊敬されるヒーローやヒロインでなくて、ありのままの弱い自分だからこそ他と繋がることができるのがわかってきます。
⑤失敗することにこそ意味がある
失敗が意味を持つ場合があることを知る必要があります。中国の故事にある「人間万事が塞翁が馬」の例えにあるように、物事に失敗することが実はより大きな成功えの脚掛けだったということが多々あることも知らなくてはなりません。
⑥結果が全てではない
結果よりも過程(中身)を大切にする価値観を保つ必要があります。マラソンを走ってビリになっても精一杯走ったならそちらを認め、誉めるのです。会社内では精一杯やっても仕事ができないと話になりませんが自分では仕事は成し遂げられなかったけど精一杯やったよね。と自分を誉めることもできなくてはなりません。
カウンセリング
心の問題の解決に取り組む時の協力関係 心の問題を一人で抱えるのが辛くなってきた時に心の専門家に相談して一緒に考えてもらおう、助けてもらおうとするのは現代社会では当たり前のことになりました。けれども一般的にはそうでも、いざ自分自身の悩みを打ち...
フォーカシング
このページはフォーカシングについて紹介するつもりで書き始めたのですが、今一番気になっていることから書きはじめたために、ある程度心理療法に慣れた人やフォーカシングをすでに知っている人向けの話題になってしまいました。読んでもし難解でしたら、当相...
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