カウンセリングで見つける(無条件の)自己肯定感

横浜市中区石川町の濡れ地蔵画像 以前に「個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法」というブログで同じテーマを詳しく具体的に述べました。でもかなりの長文になってしまったので、実際に自信をつけるために読んでみたいと思う人以外は読む気になれなかったようです。

 内容的には同じで重なるところもありますが、今回は「無条件の自己肯定感」というテーマで、人の人生を大きく左右する価値観である自己肯定感とその反対の自己否定感とはどのようなものか。それが心の内面でどのように働き、個人のあり方や生き方に影響を与えるかなどをよく見抜けるようになるために書いてみました。

 カウンセリングや心理面接の場面では自分に自信がないことがよく話題になります。自信とは自分の能力や自分を信じることですが。これは自己を肯定的にみる感覚(自己肯定感)のひとつと言えます。そこでそのような話題になった時に「自己肯定感と自己否定感をパーセントで比べてみたらどれくらいですか」と聞いてみると多くの人が、自己肯定感は2、3割で自己否定感の方が7割か8割。時には肯定感は1割くらいと答えるのです。

 自分をどのように見ているか、受け止めているかはその人の生き方に大きな影響を与えます。もちろん自信があるなしにかかわらず、人が行動しようとする時、やり遂げられるか、成し遂げられるかどうかが心配になるのは当然のことです。でも元々自分に自信がない場合には、必要以上に「どうせ失敗するだろう」などと(達成)出来ない方を強く思い浮かべがちになります。また自己否定が強く自信のない場合には「こんな頼りない自分では失敗してしまった時に、どうしようもなくなってしまうだろう」とも思えてしまいます。それらによって当人の実行力はずいぶんと萎んでしまうのです。

 また「元の、ありのままの自分には価値がない」と思っている人もとてもしんどい生き方になってしまいます。ありのままのダメな自分を出せるところなどないわけですから、常に頑張って自分を引き上げていなくてはなりません。いつも自分をコントロールしておかねばならないので、心底ほっとしたり息抜きしたりもできません。自分をのびのびと解放したことがなくて、常に心身のどこかに緊張がある生き方を続けている人もいるのです。

 このような自己否定のループから抜け出すためにはどのようにすればよいのでしょうか。答えは理屈上では簡単です。自分が過去にどのようにしてそう思いこむようになったのかを思いだして、そのような思い込みを取り払えば、それだけで自己否定の枠から抜けだし、楽で自由な生き方ができるようになります。しかし実際に取り組むとなると、一時的にせよ自分のアイデンティティが揺らぐような体験なので「言うは易し、行うは難し」となります。

 そもそも人は生まれた時には自分に自信があるとか、ないとかいう価値観など全ありません。自信のあるなしは生まれて育っていく中で芽生えて来るものです。ただ、長い期間を経てそうなっているためにその価値観は自己に同一化されてしまっています。いつそうなったかもハッキリしない無意識的な癖となって、あたかもそれが生まれつきの性質のもののよう思い込んでしまっているのです。カウンセリング場面などで、自分に向き合いはじめた最初のうちは、それは全く変化しようのないものとして認識されます。そこが見直せねばならない肝心な所だとは露ほどにも思えないのです。

 このような心理的な課題に自分一人で向き合い、内省していくことはもちろん可能です。自分の過去を振り返ることも、自分だけでも掘り下げていくこともできなくはありません。でも先に述べたように、それまでの生き方あり方に同一化が強くて客観視できない場合や、また等身大のありのままの自分を受け止める無条件の自己肯定感が弱い場合は、自分一人では容易には乗り越えがたくなります。やはり自己内省には、共感的に付き合ってくれる協力者がいてくれるとずっと助かります。

 自己を肯定したり否定したりする時に、二つのタイプというかスタイルがあることは意外に知られていません。ひとつは条件付きの肯定感です。もうひとつは無条件の肯定感です。条件付きの肯定感(自信)とは、頭がよい。仕事が出来る。など、人より優れた能力を持っていることです。その極みはみんなの憧れであるアスリートやスターなどのようなヒーローやヒロインです。

 さて無条件の肯定感とはどのようなものでしょう。それは良いも悪いも、優れているとかいないとか関係なく、ただの長所も欠点も含んだ限界ある自分。そんなありのままの自分でもOKと思える感覚です。子供の頃親や家族から、居るだけで大切にされている感じを持てるほどに無条件の肯定感は強く育ちます。「根拠のない自信」などというのもそれにあたります。

 カウンセリング場面では、子供時代に自分がどう育ったか振り返ることがよくあります。そこで思い出されるのは、親の持つ条件付きの価値観を押しつけられて、それにそぐわない自分に自己否定感を持ってしまった体験です。

 親としては子供に対して「居るだけでよい」などとの愛情は内心にはちゃんと持っている場合でも、子供が生きていく上で、社会の中でより良くあってもらいたいという願いから「良い子になれ」「ちゃんとしなさい」と子供に言います。この言葉(価値観)が強調されすぎると子供の方では「良い子でないと愛されない。ちゃんとしてない自分はダメなのだ」などと条件付きの価値観(枠)として当人の内面に植え付けられます。そしてそれに合致しない思いが浮かんだときや行動をとってしまったときなどに、ダメな自分であったと認識してしまうようになるのです。

 息子が不登校になったある母親は子供が学校に行けるようにと、いろいろ手を尽くしましたがうまくいきませんでした。そしてさんざん悩んだあげくに不登校のままの息子でも「居るだけでも良いか」と思えるようになったのでした。この「居るだけで良い」という親の愛情がそれを受け取る子供の無条件の肯定感になるわけです。

 無条件の自己肯定感を例えで言えば、建物を建てる時の地盤下の基礎部のようなものです。基礎がしっかりしていないと、いくら立派な家を建てたとしてもちょっとしたことで家はグラグラと不安定になったり崩壊しやすくなりますね。それと同じに無条件の自己肯定感が弱いと、脆く柔軟性のない自我が育つしかありません。極端な場合には挫折によって条件付きの自己肯定感が役立たなくなった時、もう自分には価値がないと感じて自死を選ぶ人も出てくるのです。

 例えば、自分は頭が良い。優秀であるとの思いから勉学で身を立てようと頑張ってきた学生が、優秀な者が集まるという大学に入学したまでは良かったのですが、大学に行ってみると自分より優秀な人はいっぱいいて、自分がそれほどでなかった事に気がつきます。すると「僕は勉学以外はダメだしもう生きていく望みはない」となって、はては死ぬしかないとなったりするのです。

 無条件の自己肯定感があれば自分を全てをなくする必要はありません。上記の学生がそれがしっかりあればどうなるでしょう。やはり勉学で身を立てる部分は挫折によって死ぬというか諦めることになるかも知れません。一時期は途方に暮れることになるかも知れません。でも根底においては、勉学で身を立てるという価値より、元のありのままの自分が大切なわけですから、その自分まで捨てる気持ちにはなりません。挫折感は味わうにしても「生きてるだけで凄いのだから、まあ良いか」等と思えて自分をゆっくり休めることもできます。そして立ち直りが早いというか、勉学の道に再挑戦をしたり、また新たな生き方や価値観に向かって挑戦していけるようにもなるのです。

 世の中にはある時期、ヒーローに祭り上げられたためにその条件に合致しなくなった時、等身大の自分に戻ることができずに死を選んだ人の話が時々あります。

 1940年の東京オリンピックのマラソンに出場した円谷選手は、大活躍をして銅メダルを獲得しました。彼は一躍日本のヒーローとなったのです。でもその後、結果を出せず様々な裏事情も重なって最後は自死を選んでしまいました。公開された家族への遺書には家族とともに食べた食べ物の美味しさがいくつも述べられているとともに、最後の方には疲れ切って走れません。とあります。円谷選手の遺書には様々な解釈があるようです。でも私には、最後にやっと等身大の自分に戻ったその時、素直な心に浮かんだ思い出が家族とともにした楽しい会食だったのだろうと思えてなりません。

 ある大学教授が話していたのですが、ピースボードの船旅に乗り合わせた時、ある熟年男性が挨拶に出した名刺には、大手会社の元部長と書かれてあったそうです。ここまであからさまな人は珍しいでしょうけれど、でも今現在のありのままの自分に無条件の肯定感がない場合には、常に無理して頑張っていなくてはならなかったり、どこかで格好つけていなければならなくなる。というお手本のような話しですね。

 例えば職場では仕事ができるという条件を満たさなければ会社に居ることはできなくなります。これは会社(仕事をする場所)にあっては当然のことです。けれども家庭内や個人にあっては(もちろんその家庭内で共同生活するに当たってのルールはあるにしても)根底には無条件の肯定感が必要なのです。家族同士が極端な理想像や特定の価値観を押しつけることなく、無条件で大切に思いあっていることが感じ取れるようでなければならないのです。

 このことは個人の内界でも同様です。自分の内に、自分に批判的だったり厳しい部分があっても良いのですが、それと同等かそれ以上に「失敗もすればダメな部分もある」そんな限界ある自分でも大切で可愛く思えるようでなければなりません。

 この条件付きと無条件との違いは「する」というあり方と「ある」というあり方との違いとなります。~することによって何かを成し遂げるという社会的(条件付き)価値観と、ただある(存在している)という生命体的(無条件の)価値観との違いです。職場内だけでなく社会の中でもやはり「する、結果を出す」という条件が尊ばれます。でもそれと相反する「ある」というあり方もとても大切なのです。

 「ただある」とは、無条件の肯定感のあり方のところで言った「あるがままで」ということです。そしてこれはある特定(条件付き)の価値観を持った自我を否定した所で成立する仏陀の悟りとも重なっていきます。仏陀の悟りが尊ばれるのは何も特別な意識状態を獲得したからではなくて、人間が宇宙生命体として元々持っている本性を再認識したからなのです。悟りまで行かなくとも、人は植物と違って移動ができるために勘違いしやすいのですが、元々生命体として宇宙と繋がっているからこそ生きていけているのですから、こちらの方のことも、もっとしっかりと意識化してわかっていかなくてはならないわけです。

 自己肯定感についてはここに述べてきたようなカウンセリング場面で学んだこととはちょっと違った、私自身の心理的な体験学習や禅の修行体験を元にしたところから述べたものもあります。個人的なブログの方に「悟りと無条件の自己肯定感」というテーマでそれを書いてありますので、興味がありましたらこちらも参考にしてみてください。心身一如-臨床心理学から禅仏教まで-:悟りと無条件の自己肯定感

参照ページ

個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法
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