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宮沢賢治の『なめとこ山の熊』のことならおもしろい

宮沢賢治の物語

 宮沢賢治は数多くの物語を紡ぎだしました。でも生前に発刊されたのは一冊の童話集だけです。その貴重な『注文の多い料理店』の序文には「・・・わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」とあります。

 実は私は、この言葉通りに、宮沢賢治が作った透き通った食べものがたりである『なめとこ山の熊』をしょっちゅう美味しくいただいています。一人でぶつぶつまるでお経のように唱えていただくのです。賢治の物語は私にとって、おもしろくておいしくて、おまけに生きるパワーが出てくる「すきとおったほんとうのたべもの」です。そんなことはもうあなたも既にご存知かもしれませんね。賢治の物語がどんなに味わい深くて栄養価の高いものか。

 私は宮沢賢治の物語のほとんどがすきです。とくに『なめとこ山の熊』に関しては、誰よりも私が一番好きでいる者ではないかと思ったりします。ですから『なめとこ山の熊』がどんなにおもしろくて、でもそれがただおもしろいだけに終わらず、どうして生きるパワーになるほどに栄養価の高いものかを、より詳しく云わずにはいられないのです。
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数あるなかでもこの彦一彦さんの絵本が宮沢賢治「なめとこ山の熊」に最高にピッタリだと思います。

残念なことに廃版のようです。

なぜ『なめとこ山の熊』がお経なのか

 『なめとこ山の熊』は文章に独特のリズム感を持っています。物語は『なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日は・・・』といくども、なめとこ山、なめとこ山と繰り返されてはじまります。それを声に出して読んでみると、多くの人がなんか身体がワクワク調子にのって感情が入ってくるのがわかるはずです。たぶん。

 この物語をほんとうに気に入ったものだから、空で語ることができるまで覚えて時々独り言でぶつぶつ物語ってました。「チャンスがあったら誰かに物語って聞かせたい、子供たちに聞かせられたらいいな」と思ったりもしました。でもそんな機会もなく「せっかく覚えたけど聞いてくれるのは公園の木々と私だけか」と少々寂しくありました。そのうちなめとこ山の熊から遠のいて、空で覚えていた物語のあちこち忘れかけていきました。

 近年ブックオフで『ブッダの方舟』という中沢新一、夢枕獏、宮崎信也の三氏による対談本を中古で買いました。その中で三氏は宮沢賢治を傑出の仏教者だと認め合っています。そして宮崎信也さんは「宮沢賢治作の銀河鉄道の夜はお経のようなものだから毎朝読経するってのはいいなあ」と言っています。彼はお寺の住職さんやっているようなので、その対談以後は「銀河鉄道の夜」を毎朝唱えておられると思います。というのは冗談です。

 私はそれ読んだ時に、私がお経にするのなら「銀河鉄道の夜」より「なめとこ山の熊」だなと思ったのです。その後に「よしちょうどいいや、なめとこ山の熊を私のお経にしよう」と思ってそれからは、それまで唱えていた『般若心経』の代わりにしました。お経だったら物語のように他の人に語って聞かせなくとも、一人で唱えて自己完結で終わりです。だから寂しがる必要ないですしね。

 『銀河鉄道の夜』も大好きな物語ではあります。河合隼雄先生が銀河鉄道の夜は臨死体験を書いたようである、と対談本のどこかで言われてました。確かに物語の中では死んでから行く世界のように表現されています。私は銀河鉄道の夜の物語全体は好きなんですが、でもどうも、あの銀河列車の窓から見える世界には馴染めません。死んでないからかしらね。素敵に感じないんです。

 それに比べて『なめとこ山の熊』の、渓谷の描写にはほんとに感動します。これは私が高知の山村の生まれでその田舎と自然が恋しいからです。私の田舎の周りの山々はこじんまりとしていて、なめとこ山みたく「冷たい霧か雲かを吸ったり吐いたり」していたり「まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ」というほどのスケール感はありませんが。(それに私の田舎ではお盆に、山に居るという先祖の霊を迎えるのための儀式を行います。四国の愛媛出身の大江健三郎は「村に生まれた者は・・中略・・森の高みに定められた自分の樹木の根方におちついてすごす」と彼の小説ので度々言っています。そんな死生観の影響もあって余計に『なめとこ山の熊』の方がシックリくるのかもしれません)

 お経については、昔から綿々と続く素晴らしいものが、ほんとにいろいろあるわけです。それらが大切なものであるのはもちろんですね。そして、例えば短いお経で私にも唱えやすい「般若心経」を唱えていると、確かに何かありがたみがあるようだし、格好いいです。悟った人の至り得た、理想のあり方が語られています。でも私は悟りに程遠い人のせいか、正直なところ昔からあるお経はイマイチ面白みを感じないのです。それとも古い言葉遣いのせいでしょうか。すぐに飽きてしまいます。でも『なめとこ山の熊』は違います。とにかく物語としても面白いですから飽きません。それでいて、昔からあるお経と同じく「悟りの世界」「法の世界」が備わっているので二度美味しいわけです。

 こんな経過から「なめとこ山の熊」はお経となったのです。「私だけの」という但し書きが付きますけど(^_^;)。

諸法実相を見事に知らしめる『なめとこ山の熊』

 諸法実相とは『この現実世界において様々な姿形をとって現れているすべての現象(諸法)はそのままで真実のあり方(実相)を現している』という大乗仏教の根本にある考え方です。禅宗では『森羅万象本来の面目』ともいいます。

 私は禅の修行をやってきました。そんな私にとって『なめとこ山の熊』は禅の修行で用いられる『十牛図』の代わりでもあるのです。禅の修行の道程を表した『十牛図』には修行者が悟りに至る様子が十枚の絵で表わされています。その中では七番目と八番目になる絵が、悟り体験のピークとして描かれています。ところが私はいつまでたっても二番目か三番目でうろうろしてるばかりです。煩悩だらけの私の修行では到底『十牛図』にはついていけません。

 宮沢賢治の物語『なめとこ山の熊』には厳しくも美しい山の自然が描かれています。それは禅の悟りの道程を現した『十牛図』に描かれた自然と相通ずるものです。『なめとこ山の熊』の主人公の淵沢小十郎は、もちろん私などより何倍も立派な人物です。でも悟ってはいません。淵沢小十郎という誠実で逞しいけれども弱点も持っている猟師が、それと知らずして仏界である、なめとこ山に包まれて生き抜いた物語です。

 『山では豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒』なくらいになってしまう淵沢小十郎の生き様を見ると「なんだよ情けないな」と思います。でもヒーローし過ぎていないので親しみが持てます。そんなところからも『十牛図』よりこちらの方がお手本にしやすかったのです。

 殺生しなければ生きていけない年老いたマタギ(猟師)渕沢小十郎のその生き様と、彼が獲物とする熊とのやり取りが、なめとこ山という自然の中で進み深まっていきます。そしてその全てが仏法の世界に包まれているできごとであってそのままに救われている。と物語っているように私には思えるのです。

 悟っているわけでもない淵沢小十郎は『般若心経』や『十牛図』の境地には程遠いかもしれません。でも『なめとこ山の熊』には、この現実(娑婆世界)の殺生や苦悩がより詳しく描かれています。そしてそれが即、涅槃の世界であることが物語られているのです。

 これは、他の生命を奪わなければ生きていけないという人間の業と悲しさを乗り越えようとする大テーマに賢治が挑戦した物語でもあるのです。この世の『生なるものは他を殺さなければ生きていけない』という一大命題を乗り越えていくことができるのか。賢治はこの、熊とそれを殺して生きているマタギ(熊捕り)との物語でそれについて素晴らしい決着を見せています。

 賢治はこの物語で、先に述べた『諸法実相』と云われる『元来この世はそのままで法の世界なのだ』という救いを物語によって法話したのではないでしょうか。『なめとこ山の熊』の物語が進行するに従ってそこに現れる山々の自然は、宮沢賢治のその鮮やかな語り描写によって、より鮮やかに仏法の世界であることがハッキリしてきます。いえ、物語の始まりから終わりまで、全てが法の世界の出来事なのでしょう。

物語『なめとこ山の熊』の五つのプロット

 第一幕は導入部です。一年のうちたいていの日は、冷たい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている神秘性をおびたような、なめとこ山と、その近辺の紹介。そしてその山に棲息する熊どもと、熊取の名人の「淵沢小十郎」の紹介。彼が黄色なたくましい犬を連れて『木がいっぱいに生えているまるで青黒いトンネルの中のような谷』を遡って行くところ。その渓谷の中を登る小十郎と犬を高いところから見守っている熊ども。そしてマタギ「淵沢小十郎」が熊を鉄砲で撃って猟をするところなどが物語られます。

 第二幕は、淵沢小十郎が珍しくも道に迷って山で一夜を過ごすことになります。その時、月明かりの中にまるで後光がさしているかのような熊の母子の愛情あふれるやり取りに遭遇する話しです。
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大きな月が見守るなかに、母子の熊が向こうの谷の白い雪のような花について話し合っています。

私の一番好きなシーン。

 背後の見えない所で、熊とりの名人淵沢小十郎が二人を見守っています。二人に気づかれないようにこっそりこっそり笹小屋に戻っていく小十郎。『くろもじの木の匂いが月のあかりといっしょにスーッとさした』とあります。くろもじの木を知らなかったので、そのことを友だちに話したらその友だちが高級楊枝を持ってきて「コレを作る木だよ」と教えてくれました。くろもじの木の匂いって凄く良いです。

 さて第三幕は、山では主のような熊獲りの名人の淵沢小十郎が、まちに熊の皮と胆を売りに行く時のまったく気の毒な話です。街の中の荒物屋の主人にうまく買い叩かれたうえに、それでも遠慮がちにお酒をごちそうになる場面などが物語られます。でもこのプロットがあることで、只のヒーローでないまことに人間らしい淵沢小十郎であることがよりクローズアップされます。彼が身近になって親しみを覚えてしまうのです。

 第四幕は、ある年の夏に遭遇した熊との不思議なやり取りです。その時、銃を撃つばかりにしながら小十郎は熊と対話するのです。小十郎はぼんやり立っているばかりになって熊を撃てません。そしてその時熊が約束していったように、二年後にはちゃんと小十郎の家の庭でその熊が死んでいます。小十郎は思わず手をあわせて拝みます。

 最後の第五幕は淵沢小十郎の死出の旅です。夏のうちに目をつけておいた熊を獲るために、冬の雪に埋もれた山に、黄色なたくましい犬と出かけますが、山の頂上で休んでいる時にその熊に殺されてしまうのです。それから三日目の晩に雪と月のかりの中の見えたのは、熊どもがたくさん集まってする淵沢小十郎のお葬式の場面です。
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絵本の物語の終わりのページにあるなめとこ山の絵。

 実は物語の中では小十郎が死んで三日目の晩のなめとこ山は、月のあかりに照らしだされる青白く明るい雪に覆われたものなのです。でもこの彦一彦さんの絵は月の代わりに太陽がのぞいていますね。たぶん、物語がおしまいになった後(一晩が過ぎて)の朝日が登るなめとこ山でしょう。空は金色です。

 この絵をあらためて眺めていたら、折口信夫の『山越しの阿弥陀像の画因』という文中に挿入されている阿弥陀像の絵がほうふつとされてきました。うーむ、、でも、なめとこ山の熊の物語からすると、こちらの阿弥陀像のない方の絵でちょうどシックリです。

 ところで、山では淵沢小十郎と常に連れ添っていたたくましい黄色な犬は、淵沢小十郎が熊に殺された後どうなったでしょう。気になりますよね。でも私が思うにきっと一人でいや一匹で家まで帰り着いて、皆に撫でられながらお祖父ちゃんが亡くなってしまったことをそれとなく伝えたんじゃないでしょうかね。

 ほんとにこの素敵な『なめとこ山の熊』の物語、ぜひあなたにも読んでいただきたいものです。

★参考文献:『青空文庫:なめとこ山の熊』『ブログ norimingbook 人々のざわめき、結実するもの-折口信夫 山越し阿弥陀像の画因-』『Twitter:なめとこ山の熊豆辞典



本格的な心理療法は自分の物語を見出すこと

 世の中、まじめに生きていればいい(うまくいく)と、しつけられたり教育されますが、そう簡単にはいきません。まじめに真摯に生きようとすればするほど理不尽なことは多くなり、悩みは増え壁は高くそびえます。でも昔に「みいーんな悩んで大きくなった」というちょっと冗談めかした言葉が流行ったことがありましたが確かにその通りです。人は「我思うゆえに我あり」というように自分を振り返ることができます。それによって内省をして心を成長、成熟させていくこともできるわけです。

 内省的な言い回しに「自分に向き合あう」という言葉がありますが、カウンセリングなどの対話を中心にした心理面接を望む方で「いつまでも誤魔化したりしていないで、自分と向き合わねばならないと思って来ました」などと自ら決心して来談される、ほんとに凄い方もいます。また、問題を抱えてもがき苦しみながらも心理面接で真摯に自分と向き合い、心の成長を成し遂げた後に「あのことがあったそのおかげで、私は人の気持ちが前よりよく分かるようになりました。ちょっと成長しました」という人がいて、ほんとうに感動させられます。

 河合隼雄先生は『物語の意義について』の中で『私は、このクリエイティブ・イルネスという考え方がすごく好きになって、これを拡大解釈することにしました。エレンベルガーはイルネスを心の病に限っていましたが、漱石のように体の病もあるじゃないかということです。実際に調べてみると、体の病になった後にクリエイティブになっている方は多いのです。病というものを、もう少し拡大解釈していくうちに、病のなかには事故や不幸や災害も含めていいのではないか。人間が非常に不幸で災害だと思っていることが、次のクリエイションにつながっていることは案外多いのではないか、ということに気が付いたわけです。

 《・・・中略・・・》ですから、どのような方が来られても、この方の病はクリエイティブ・イルネスの始まりだと思うのです。病院に病気の人が来られて病を治して健康になるという考え方ではなく、そのマイナスを、その方がどうクリエイティブに自分の物語を生きることに活かされるかということに注目して、私は来談者と会うようになりました』と述べられています。

 クライアントのしんどい話やギリギリな話を聞いていく時に、カウンセラーがこのような視点を持っていることは、暗中模索の中に、新しい可能性の光を見ようとすることです。でも、このようなカウンセラーの態度は目の前の悩んでいる人を本当に大切にしていて、かつその人を深く信頼していないとできることではありません。河合先生は、ほんとうに情が深くて心の器の大きい人ですから、皆が手助けをあきらめたような大変な人にさえも可能性の光を見ることができ、それを信じて辛抱強く接することができたようです。