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どうすれば心の悩みが解決できるのか カウンセリングや心理療法や禅から見えてくる心

個別の心理面接から見えてくる心の悩み解決の核心

 人の心の悩みは千差万別です。もちろんその解決に至る道も、人それぞれに千差万別です。しかしカウンセリングや心理療法の現場で個々のクライアントと悩みの解決に取り組んでいると、あるパターンのようなものが見えてきます。個々人の症状や問題は千差万別でもその背景に、人の心のあり方に共通した動きがあるのです。今回はそんな共通項目を取り上げて、心理的な問題の解決に至るための核心部分について述べてみます。それは大きくまとめると(心理的な側面において)人が生命体として元々生まれ持った(生命体としての)働きと、生まれ育っていく中で身につけたものとの関係性の問題となります。

 心の悩みを解決するためはどうすれば良いか。ということの答えとして一言で先に言ってしまうと「自分自身との関係をよりよいものに作り直す」ことです。心理的な問題の解決策はこれにつきると言って良いでしょう。自分との関係というと奇妙に聞こえるかもしれません。確かに自分は自分なのだから関係の持ちようがないと言えます。でも実際のところはよく「私の身体、私の感情」などと言い方をしますね。そんなふうに言えるということはすでに自分自身対身体や感情となっていてそことの関係がすでにあるということになります。

 自分自身との関係をよりよいものに作り直す。それは自己否定から自己肯定に変わる工夫ということもできます。これは既存にある単純なプラス思考とは大きく異なるものです。既存のプラス思考のテクニックにはすぐには気づけないマイナス思考が秘かに盲点となって含まれているので、本当の意味でのプラス思考になれません。ところで自己肯定には条件付きの肯定と、根拠のない(無条件の)の肯定があります。心の問題を乗り越えるにはこの無条件の肯定感を強める必要があるのです。

 自分と良い関係ができて、うまく付き合えるようになると他人ともうまく付き合えるようになるので一挙両得でもあります。精神科医中井久夫氏はフランスの文筆家ポール・ヴァレリーの言葉からこのあたりのことを「私は、このアフォリズムを広く解して、私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度であるというふうにした。ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない」などと言っています。しかしこれは意外に至難の技で、既存のプラス思考を当てはめたくらいでは歯が立ちません。目には見えない心には思い込みや勘違いが多発します。盲点に陥らないための注意とコツが必要なのです。

 このブログの最後の章には自分とよりよく通じ合うための心理テクニックを紹介してあります。これらの心理テクニックの中には心の悩みや問題を抱えていてもそれをちょっと横に置いて自分に向き合える人なら自分一人でできるものもあります。けれども、心が深く傷ついている場合や、自分が受け止めかねるトラウマなどの問題がある場合にはそれを一人で乗り越えることは至難の業です。そんな場合はやはり信頼できるカウンセラーや心理療法家に手伝ってもらう必要があります。

 まず、どうして無条件の自己肯定に取り組まなければならないのか、その理由を知って納得できなければはじまりませんね。そのために今の自分が一体どうなっているか、目には見えない心を解明して、そこからなぜ自分と通じあう必要があるかを理解していきましょう。

自分を知る!なぜ心の悩みは解決が難しいのか

 まず、人間関係の問題などが出てきたときに、人はそれを自分で考えて何とか解決しようとします。けれどもそれがうまくいかないことが多々あります。なぜ問題を乗り越えられないかといえば、それはストレスや神経症的な障害、また対人関係の悩みなどのような、心からくる問題を「自分でよく考えて答えを出そうとすること自体」がすでに間違った取り組みのきっかけになっているからです。実は人は自分で思っている以上に、自分の心に対して無知で、勘違いや間違った思い込みをしているのです。そんな立ち位置からでは、いくら良い考えを思いついたとしても、元が間違っているのですから必ず的外れに終わります。まずは目には見えない心がどうなっているか自分をよく知り、勘違いを正す必要があります。

 心は非常に早く動きます。例えば「癖になっている」とか「無意識的にやってしまった」などというような素早さです。特に「今」のありようについては、始まりもわからなければ「今」と言ったときには、もうその今は跡形もない。というくらいに素早いわけです。また微細でもあるので見逃しやすくもあります。おまけに、目に見えないことも重なるので、対処が適切にできないだけでなく、大きな勘違いをもってそれをとらえてしまいがちなのです。

よく考えて答えを出すという方法の弊害2つ!

 大前提としていえるのですが、この世界は人工的な都市やその他の建造物は別にして、宇宙が作り出したものであって、人間が作り出したものではありません。よって人間ではどうしようもないことがあって当然なのです。2500年前にお釈迦さんが悟りを開いた時に、最初に説いた「四諦ーしたい」という説法の中に「四苦ーしく」というのがあります。生まれる、年をとる、病気になる、死んでしまうことは人の思うようにならない(苦)のだと明言しています。

 ところで人間は古代から知恵をもって言葉の伝達機能を発達させたり、道具を作り出すなど、いろいろな工夫によって生き延びてきました。人間には過酷な地球環境を支配、コントロールしてきた歴史があります。特に西洋から発した近代科学を駆使した便利な人間社会の発達には目を見張るものがあります。病気やケガを治したりする医療も驚くほどの発達をとげてきました。それらによって平均寿命は格段に高くなってきました。先に述べた人間の思うようにならない生老病死を多少なりとも克服なしえたともいえるでしょう。

 その素晴らしい人間の英知を基礎に人間を教育する学校において私たちは「よく考えて答えを出しましょう」と言われて育ってきました。そのせいで何事に関してもまず頭を使ってうまくやろうとする癖があたりまえとなっています。要するに人は何かあったら人間の知恵で何とかしようとするのです。お釈迦さんが説いたのとは真逆に、この世に人間の理性を持ってすれば解決できないことはないとまで思い込んでいる人も数多くいます。確かに科学の未来には、もしかしたら生老病死もすべてコントロールできるようになりそうな勢いさえうかがえます。しかしこのような情勢の過程で人類は大きな勘違いをするようになったのです。

 その勘違いのなかで特に間違ってしまったのは、機械を取り扱うようなロジックや思考方法を機械ではない人間の心の問題を解決するために用いようとしたことです。法律や約束などを守る話とは別に、科学的合理的な手法で自分の心をコントロールしようとするのは間違っています。自分の頭で生命体としての心身を、意識的にコントロールしようとすることは、例えれば、放っておいても勝手に自動車運転(生命活動)をしている車に乗っていることに気づかずに、ハンドルを切ったりブレーキを踏んだりして自分で運転しているつもりでいる状態です。生命体が元々もっている運転手と意識的な自分との二人の運転手が一つの身体という車を運転していることになっているのです。「船頭多くして船山に上る」ということわざと同じです。

 もちろん「よく考えてものごとを解決しようとする」ことはとても大切なことです。ここはぜひ科学的手法にこだわらないで、もっともっとよく考えて知性を洗練させて、生命体としての自分自身とより良い関係が持てるように工夫せねばなりません。

 なぜ科学的(合理的)思考方法を心に当てはめると良くないのか。細かい心理分析が続くので疲れるかもしれませんが、人の心身の動きに沿ってより詳しくたどっておきましょう。まず、考えるということは悩みの中に入り込むことなので、悩み自体が膨らみがちです。その結果、問題に圧倒されたり振り回されたりするようにもなります。それを抱え続ける分、リラックスすることができなくなって自然治癒力がうまく働かなくなります。また頭がいろいろ考えて動く分、相反する考えを思いつくので、それらが対立して葛藤が増えてしまいます。身体は常に一つのことしかできませんから葛藤がおこると身動きとれなくなります。

 身体は疲れていても頭だけは動き続けたりします。また頭でイメージしたことは大なり小なり身体にすぐ影響します。だから身体も大変です。一方では休息したいのに、頭の思いに準じて活動せねばならないからです。眠るに眠れなくもなります。身体のペースとズレてしまったのです。このように「なぜリラックス出来ないかの根本的な理由は、頭(思考)が止まらない(心の切り替えができない)からです」さまざまな神経症的な症状や心理的な問題の背景に、このような、休みたいけど心の思うように頑張らなければならない身体と、動きまわる頭という引き裂かれた構図があるのです。

 頭脳中心のあり方にはもう一つ大きな欠点があります。それは「こうあるべきと考えた理想的なあり方が一番大事とされるために、ありのままの部分に対して否定的となることです」人は生まれた環境に適応して生きていかねばなりません。環境に適応するようにと、ありのままのあり方を自己コントロールによって変じていこうとします。物心がつくとまず家庭内のあり方(価値観)に適応せねばならず、自分自身内で理想の自分と、それに届かないダメな自分を比べて自己否定が生まれます。また自分と他人も比べて評価し、そこでも自己否定が生まれます。学校や社会の枠組みは条件付きのことがほとんどのために、それにはまりきれない自分はダメとなるのです。 心の悩みで苦しんでいる人の多くが社会の枠組みに適応できなかった自分に価値がないと思い込んでしまうのです。時にそれは自分を責める動きとなります。また、ありのままの自分にはまったく価値がないと結論するまでに至るのです。

 理性で考えコントロールすべきであるという価値観が強いほどに必然的に、ありのままの部分を否定することになりがちです。そうなると、良くないと思える自分を出さないように、常に自分を監視下においてコントロールしなくてはならなくなるのです。外に出たら常に緊張していなければならず、人間ならあって当たり前の、疲れや弱みを出すこともできなくなります。非常に疲れる生き方になります。

上記の二つを変化させるための具体的な心理技法

 まず「なぜリラックス出来ないかの根本的な理由は、頭(思考)が止まらない、心の切り替えができない」ということですから、まず、頭脳中心に動き回るを部分を止める(休ませる)工夫が必要です。そのとらわれから脱して全体を客観しできるようになって、自分の問題や内面のさまざまな局面と適切な間をとれるように再調整します。次に「ありのままの部分に対して否定的」となっているのを修復したり、今後、ありのままの部分を自己否定しないようになるためのあり方を会得します。その際に気をつけることは否定的な動きや考えが出てきてもそれを否定せず認めることです。

 以下に具体的な心理技法とその特徴を簡単に解説してみました。興味のある技法など、より詳しく知りたい方はリンク先をご覧ください。

 フォーカシングは、自分の内面や身体を深く信頼して見守ったり、寄り添ったりできるようになる心理技法です。「見守る、寄り添う」は良い関係を保つためのの理想的あり方のひとつです。またフォーカシングには、心の一部分だけに一体化せず、そこから出て距離をもって見守ったり、さまざまな要素や側面のすべてを、そのままにときには肯定的に見るようになるためのトレーニングもあります。自分のどんな要素にも臨機応変に、それぞれ適切な距離感をとることができるようになるので、偏った考えや一時的な感情に振り回されなくなります。

 インナーセルフ療法はいろんな思いや感情をイメージ化、人格化して自分の内面と対話形式をとることで、今まで否定していたり、無視していたり、生きてこなかった側面と通じ合えるようになります。また、インナーセルフ療法の技法によって自分で自分を癒やせるようにもなります。

 カウンセリングで信頼できるカウンセラーに肯定的に聞いてもらうことで深い自己否定からも抜け出せます。カウンセラーがクライアントの気持ちをわかってブレずに寄り添って話を聞いていると、その支えの中でクライアントは、それまで否定したり無視していたり、今まで生きてこなかった側面を再検討できます。カウンセリングで話をするだけというのはちょっと地味な感じもします。はたしてそれだけで良くなるのかと疑問を持つ人もいます。けれども本当に力量のあるカウンセラーに話を聞いてもらっていると最終的には驚くほどの素敵な変化が起こったりするのです。カウンセリングは心理療法において「カウンセリングにはじまってカウンセリングに終わる」と言えるくらいに奥が深いのです。

 催眠療法で自己解放したあり方を体感することで、理性でコントロールしなくとも身体がいかに上手に何事にも対処できるかがわかります。また、催眠療法の中でそんなあり方のトレーニングを重ねれば、楽でいてうまくいくやり方が会得できます。そのようにして自分の心身を信頼できるようになると、フォーカシングの、距離感を持って見守るあり方とは正反対であるけれど、ものごとを成し遂げるには必須な能力といえる「我を忘れて物事に没頭する」コツも会得できます。

 マインドフルネスがテーマとしている「今この瞬間の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れる」というあり方を、瞑想などでトレーニングしていると、フォーカシングを同じく、思考のループを止めることができます。また問題へのとらわれもなくなっていきます。

 坐禅瞑想を重ねることで事実と想像や観念との区別をつけられるようになると、マイナス思考に振り回されなくなります。曹洞禅宗の只管打坐といわれる坐法を続けることによって、肩の力の抜けた等身大の楽な生き方が深まっていきます。また自我へのこだわりを抜けて、あるがままのあり方を体得することで、悩みことが極端に少なくなります。

★参考ページ:『心理療法


心全体の構造図 フロイト・ユング・マインドフルネス・禅

西洋の自我を中心にした心理図

 心の構造図として一般的なのは「意識は氷山の海面に出ている一角であって潜在意識は海中にある氷山のように大きい」という説明でよく知られる、フロイト・ユングの意識・無意識を元にした図です。19世紀後半にフロイトが無意識という考え方を提唱して以来、発展してきた(深層)心理学の基本にもこれがあるわけです。それは「人は素晴らしい思考力・理性を持っている。だから客観的になって考え(科学する)れば答えを出せる。そのようにして心を研究してわかったのは、人間には無意識というものがあると言うことである。そしてその無意識に抑圧した ものを自我意識に統合することによって悩みや症状が解決する」という科学的な論理です。

従来の精神面に限定された心の構造図

 フロイト・ユングの心の構造図は自我意識と無意識に分かれています。そこには身体や環境は含まれていません。あくまでも理性を中心とする考えを背景に持つ西欧で生まれた心理学だからなのです。

禅仏教のあるがままのあり方を主体にした心理図

 ところで東洋では2500年前にインドで仏陀を始祖とした仏教が発展しました。仏教には開祖となる仏陀の教えにとどまらずに発展したものまで含めると、数千に及ぶ経典があります。仏教経典には戒律から修行法や行住坐臥までいろいろ含まれています。しかしその基本とするところは観相から得た心理学的なものです。それらは仏陀の説法を元にしています。あいにく仏陀自身が書き残したものは残っていません。さまざまな宗派がそれぞれに釈迦はこう言ったああ言った、といって伝説化したものを掲げているのです。

 そんな数多い宗派の中で、中国と日本で発展した禅宗は「仏陀が苦行をやめ菩提樹の下で結跏趺坐をして瞑想に入ってそれによって悟った」というそのこと自体を追体験していこうとする実践に重きを置くものです。スポーツや武道、芸事と同じに体現学習をメインとしているのです。他の宗派では、経典の教えを第一と掲げ守っていこうとする経典中心のものから、実践修行はあっても、例えば有名な千日回峰行や念仏・題目をあげるなどに見られるような、お釈迦さんが悟りに至った修行方法とは直接繋がらないような修行法を用いている宗派もあるのです。

 何事にもいえますが、マニュアル(教義)を読んでその教えをそのまま実践するだけでは、ともすると頭だけで知的に理解して心身はそうなっていない場合が多々あります。禅仏教の掲げる最初の物語に、拈華微笑(ねんげみしょう)というのがあります。仏陀がある説法の時、ただ黙って花をかざしてひねって見せました。それを見た弟子たちは何だろうと頭を巡らすばかりでしたが、そんな中において摩訶迦葉だけが微笑したのです。仏陀の伝えたいことが言葉を超えた今の事実そのものであることがわかった摩訶迦葉。その故事によって仏法の奥義が伝授されたとされているのです。そんな禅には、お経本を焼いてしまった僧や、悟った後に、それまで一生懸命唱えていた観音経の教本をお尻に敷いていた女性がいたりと、常識外れの行動が逸話として残っています。それは理屈よりも実践中心の手法が極端化して出た行動といえるでしょう。

 ここで、仏陀が坐禅瞑想に入って悟りを開いて後に、仏陀が最初に以前の修行仲間に説いた「四諦(したい)=苦・集・滅・道」というのがあります。それを私のかってな解釈ですが現代語訳的に意訳して述べてみます。

 ・・・もともと人間が作ったのではないこの世で起こる出来事の多くは、人間ではどうしようもない事が多くて当然である(苦)。しかし、人はよくそれをわきまえないままに、何とか自分の良いようにしたいと思い解決策を考えてしまう。それから、逃れよう、乗り越えよう、良くしよう、解決しようなどのような動きがたち起こる。そうすると必ずこだわりが発生するので、それによって逆に苦悩が作られ膨らんでしまうのである(集)。苦悩の解決策としてはまず、この世のことは宇宙の法則として、人が知恵を働かせる以前に人知を越えて、今に生滅して完遂しながら流転しているのが真実であることに気づかねばならない。そしてだから、私たちは何事があっても、あるがままに居れば悩んだり苦悩が起こることはなくなるのである(滅)。そうなるためには坐禅を実践してそれを理屈でなく体得すれば良い(道)。・・・「あるがまま」という言葉。それは図らずもビートルズが歌っている、マリア様がくれた言葉「Let It Be」とほとんど同じ言葉ですね・・・

 禅修行で「まず坐れ」とか「ただ坐れ」「無心に作務をしろ」などと指導されるのは、先にのべたように、理屈に走らないで事実や行為そのものを重要視しているからなのです。そのためフロイト・ユングの心の構造理論に関しては、真っ向から理屈っぽいと対立することになります。確かに西洋人は心の悩みについても逐一言語化して理論づけないと気が済まないようです。日本人として初めてのユング派の心理療法家となった河合隼雄氏は、その著書ユング心理学と仏教の中で「仏教では根本的に言語に対する不信感を持つ傾向がある。西洋に生まれた心理療法においては言語が重要視されます。とか(箱庭療法の)指導をしていていつも感じるのは、欧米人はわれわれ日本人に比して、明確な理解を急ぎすぎることである」などと述べています。

 また戦後の日本の催眠界をリードしてこられて、後年は動作療法を提唱されている成瀬悟作先生は、ある雑誌社のインタビューで「ヨーロッパやアメリカで発展した精神分析や心理療法は、結局意識的にわかること、知る事、理解することが大事だと思っている。それは伝統的に、考えたり、知ったりすることが人間として生きている証だと考えていたからじゃないですか。〈・・・中略・・・〉でも、そういうことと全く関係なしに、身体のバランスを変えるだけで心の病が取れてしまうことがある」などと言って身体の動きをメインにした治療法を提唱しています。

 禅には不立文字という言葉もあるくらいに理屈っぽさの排除が徹底しています。もう言葉を使うこと自体がマニュアル化や地図するという作業であって、実体から離れる危険性があると否定して、前半に述べた「拈華微笑、以心伝心」を強調するのです。それは、キリスト教における、聖書の教えを学んでそれによって自分をコントロールしていこうとするのとは真逆のあり方といえるでしょう。

 例えばパソコンなど機械類ならマニュアルを読んでその通りの手順をふめばちゃんと操作できます。そんな科学的操作法があまりにも有効だったために人は自分の心身もマニュアル通りに操作しようとしてしまうのです。スポーツや芸事なら、すぐにはマニュアル通りには行かないことはだれでも承知しています。けれども目に見えない心の事に関しては、直ぐにマニュアル通りにできるような気がしたり、まねている内に本物になるような気がしてしまうのです。キリスト教の牧師さんに偽善者が多いという話題になるのは聖書を読んで記憶してしまえば外見だけは格好がつくからです。けれどもキリスト教だけでなく仏教徒にも教義だけを鵜呑みにして格好だけの人も多いのです。さらにはカウンセラーや心理療法家の中にも理屈だけを学んで、それだけで他の人を治療しようとしている勘違いな人もいるのです。

 理論と実際との違いといえば、地図についてはそれを実際の地形と間違う人はまず居ません。けれども私たちは言葉を使い始めた時点で概念(心の地図、観念)と事実や実体とを混同してしまったのです。確かに「木」と言ってもそれは「木」を指し示す概念であって「木」そのものではありませんね。でも自分の内で勝手に「木」を想像しておいて、わかったつもりになったりします。

禅の考え方を元にした心身相関図

 これまで事実が大事と言いながら矛盾してしまいますが今回私は不遜にも、そんな地図を否定するような禅仏教的なあり方をあえて地図化してみました。

 ケン・ウィルバーの意識のスペクトルの考え方によると。人は物心ついてからまず自分の皮膚と外界を区別します。図でいえば②の楕円の点線の部分です。次には意識③と身体②を区別します。図でいえば③の外にある円に当たります。そして最後は自我(網線の部位)と自我でないもの(自分の性格にそぐわないもの・影)を区別したのです。これは人間が勝手に作った境界線なので事実ではありません。けれども私たちはそれが事実であると教え込まれ頭の中に自分という実体があるのだと知らぬ間に思い込んでしまったのです。

 禅仏教からするとフロイト・ユングの心理構造は仏教で六識といわれる眼、耳、鼻、舌、身、意の6種の認識器官の中の「意」に当たる部分に過ぎなくなるのです。禅仏教では自我は実体としては元々ないのだとまでいい切ります。そして先に四諦(したい) の説明でも述べたように、思考し分別することによって悩みや問題がたち起こり苦悩するのだから、理性にこだわらないあり方を会得しなければならないというのです。

 禅宗派の一つである臨済宗では公案(禅問答)によって、つい働きがちな理性・分別の動きを手放さずをえなくなるような修行をします。例えば隻手の音声という公案があります。両手を打ち鳴らせばパンと音がする。では片手の音を聞いてこい老師は言います。このように理屈に合わない文言になっていて、その答えを出すのに真剣になればなるほど、考えが行き詰まるように仕組まれているのが公案なのです。理性で考えている範囲ではこれについての答えを見いだすことはできないようになっているわけです。

フロイト・ユングの心理図と禅仏教の心理図を合わせた図

 禅の手法とフロイト・ユングの心理療法との問題解決の違いに関して、ここであらためて対比してると。フロイト・ユングの心理学では、自我意識が行き詰まったときには人間の持つ素晴らしい能力である理性を使って、潜在意識のものを自我意識に統合すれば乗り越えられる」と言うことになります。禅仏教の方では理性をすべて否定はしませんが「宇宙意識からしたら取るに足らないような人間の理性であれこれ考えたり、何でもコントロールしようとするから苦悩がはじまるのである。自我意識は元々実態はなく観念的なものであることに気づいたりして、自我中心主義をやめるのがよい」ということで両者相反したあり方になります。

 近年は西欧でもヨガの流行などによって身体面も重要視され、その次にはマインドフルネスも流行ってきて、西洋で生まれた心理学と禅仏教の考え方の歩み寄り、統合がはじまったといえそうです。西洋でのヨガの流行は、あまりに自我意識中心に精神面に重点を置いて、身体的な側面を下位に見てきた西洋人が身体との関係を見直してきたためであると言われています。そんな身体の再生の次の潮流がマインドフルネスでしょう。ヨガが浸透したと同等くらいに広まるかもしれません。

 マインドフルネスのいう「今に注目する」ということは、自我中心主義で心と体をコントロールするのでなく、今という自我意識が働き出す以前に、すでにある様子に目を向ける(委ねる)ことになるのです。自我中心の西洋人がそうでないあり方を会得しようとし始めたのです。もちろんこの課題は西洋人だけではありません。良いも悪いも科学の恩恵を受けている日本人の内面においても同じ課題となっています。そんな日本でもマインドフルネスは逆輸入的におおいに流行ることでしょう。

 マインドフルネスは禅仏教の教えを元に「今この瞬間の自分の体験に注意を向ける。現実をあるがままに受け入れる」というあり方を目標に呼吸瞑想などいくつかの瞑想を実践していくものです。その効果としてはストレスの軽減からはじめ、心理的問題の解決や集中力の向上他さまざまな効果があると言われています。欧米では近年ヨガの流行によって身体側面の復権が行われてきました。次にマインドフルネスという言葉によってさらに禅仏教的なありかたが浸透しようとしているのです。しかしその内実は、まだまだ「注意を向ける」というような自我意識から向かおうとする行為が残っています。ですからそれはまだ自我意識寄りの考え方なのです。

 逆に言うと、マインドフルネスレベルだとまだ自我意識中心なのでとっつきやすいですが、禅仏教の自我を認めない徹底したあり方はなかなか受け入れがたいのではないでしょうか。禅仏教のあり方(悟ってみれば)からするとフロイト・ユングの心理図は余計なものとなるのです。しかし河合先生は、自分の心理療法が、気がついてみれば仏教的あり方に即したものであったと言いながらも、科学の恩恵を受けて生きている現代においては西洋的あり方も無視できないのではと言っています。私自身は悟りに至ってないからかフロイト・ユングの心理図が気になります。また河合先生が「言語化は必要である」と言われていたので、それを捨て去りがたいのもあります。そこでフロイト・ユングの心の図に禅仏教的なあり方を図式化したものを無理やり合体させて両者の合体図を作成してみました。また実際問題として、自我意識が抑圧したものが(横軸の)現実世界を見るときにどうしても投影されて見えてくるという問題点があるので、その点でも両者をひっくるめて考えていきたいのです。

西洋と東洋の考え方を合体させた全体の構造図

 禅仏教の六識といわれる眼、耳、鼻、舌、身、意の6種の身体機能や、現実や環境、その今あるがままの様子を含めた方面を図式化した和風心身相関図を横軸に、精神面を図式化したフロイトやユングの心の構造図を縦軸にして重ね合わせてみました。しかしこの図はとりあえずまとめてみたというレベルです。矛盾もあれば、相対立する部分もあるので、きちんと統合されているとはいえません。けれどもこの図によって旧来からあるフロイト・ユングの精神面に限った心の構造図に限定しないでこの現象界の全体図を概観できます。

 この図には書き込んでいませんが、ユング心理学では心の構造図においては自我に対するセルフ(自己)を心の深層の中心に位置づけて現した図(考え方 )が広まりました。そのためにセルフは心の深層にあるのだと勘違いしやすいのです。河合隼雄先生はその著書「ユング心理学と仏教」の中で・・・私はユングが「自己」とは何か具体的に示して欲しいという質問に対して、「すべての皆さん」(all of you)と答えたという逸話が好きであります。・・・・と言っています。この河合先生が賛同するユングの考え方は縦軸であるフロイト・ユングの心の構造図だけでは現せられませんが、私が禅の考え方に即して作成して付け加えた横軸の図に現れるものすべてが自己だということで位置づけができます。

★参考ページ:『自分を知るための心身相関図 催眠・禅・意識の勘違い


あがり症克服のコツ(1~9)

 このブログページには、電子書籍として作成した「あがり症克服のコツ 1~17」の前半部「その1~9」までを無料でアップしてあります。 1ページ内にまとめてありますが、読みたいところだけ読むこともできるように、目次にリンクを貼りました。興味ある目次をクリックして、そこを読んで頂いたりしながら入り込んでいただければ取っ付きやすいかと思います。

その1 はじめに
その2 なぜあがってしまうのか
その3 どうすれば良いかを先に言うと
その4 具体的な葛藤事例
その5 慢性化したあがり症の場合
その6 よいアドバイスが全く役立たない場合も
その7 真面目で正直な人ほどあがる
その8 本来の目的を見失ってしまう 1
その9 本来の目的を見失ってしまう 2

その1 はじめに

 私の営んでいる横浜心身健康センター心理療法室には心から来るさまざまな問題で悩んでいる方がその解決のために来談されています。そしてその中にはあがり症やスピーチ恐怖症で悩んでいる方もかなりの数にのぼります。

 人前であらたまってスピーチをしたりすると、ひどく緊張して動悸が強くなり、赤面したり体が震えたり、頭が真っ白になったりして、人前でこうありたいと思う理想の半分くらいもできない。そして終わった後は人目が辛くて穴があったら入りたいような恥ずかしさにおそわれてしまう。そのために人前で何かすることが苦手意識や恐怖にさへなってしまって、その場面を想像するだけでも動悸がしてくるというまでになっている人もいます。その苦手意識の強さの程度は違えども、このようなあがり症、対人恐怖症の問題で悩んでいる人はとても多いのです。

 こんな悩みを他人や家族にさえも相談できずに一人で長年悩んできたという人も少なくありません。学校の授業で本を読まされた際にあがってしまって、スムーズに読めずにクラスのみんなに笑われてしまった。その後も似たような経験をしてそれらが大きなトラウマとなってしまった人もいます。また、電車の中や家の近所の人の目も気になるので気軽に外に出かけられない。夜みんなが寝静まった頃に外に出たら、誰もいなくてとても楽な感じがしたことがあると言った青年もいました。

 私はそのような問題で悩んでいる方々と個別の心理面接でその解決に長年取り組んできました。その内容や解決に向かう道はひとりひとり千差万別です。でも、そんな個別の作業を地道に積み重ねていくうちに次第に他の人にも通底するような、あがり症やスピーチ恐怖に共通の心のパターンやその特徴というものが見えてきたのです。実は、この見えてきたものは、あがり症やスピーチ恐怖症に限らず、人が行為、行動するときには全てにおいて陥りやすい問題でもあるのです。それは心とからだがバラバラになってしまったがために起こってくる問題であるのです。

その2 なぜあがってしまうのか

 こころとからだがバラバラになってしまっているからあがってしまう。というのをより詳しくいうと『人前に出ていざスピーチしようという段階に至っているにもかかわらず、心はまだ葛藤し迷っている。そこでそれに連れてからだも迷うままになり身動きが取れなくなっている』つまりあがった状態にあるといえます。この所をよくふまえた上で対策を立てていくことで真に適切なあがり症の克服方法が必ず見いだせるのです。

 人前に出たということは行為すべき時がきているのです。それなのに、いろいろ相反する考えが思い浮かび、心と身体がバラバラになり一丸となって事に当たれなくなってしまっているのです。このような状態を競泳で例えてみましょう。もし泳ぎがあまり上手でない人でも、競泳に参加して「用意ドン」とプールに飛び込んだら後はもうゴール目指して一生懸命泳ぐしかありませんね。ところでプールに飛び込んだ後に「・・・自分は上手に泳げるんだったっけ。泳ぐの止めたいな、でも泳がないと、どうすれば上手く泳げるかしら、、」などと考え葛藤してしまったとしたら、手足はまともには動きません。 悪くすれば水中にズブズブと沈んで溺れてしまいます。このように競泳に例えるとあり得ないようなおかしな状態が、実は人前に立ったとき、あがってしまっている人の内面で、それと知らぬ間に起こっているのです。

 水の中なら、とにかく手足を動かさないことにはおぼれてしまいますから一生懸命泳ぐことひとつ(心身一如)になるしか手はありません。でも人前では溺れて死にそうになるまでいかないからでしょうか、心身一如でない葛藤したままのあがり状態に終始してしまうのです。

その3 どうすれば良いかを先に言うと

 あるやり方を他にも役立てようとマニュアル化するときには表面的なものを見ていくのではなくて、その根本(本質)を見抜いてそこから普遍化、一般化しなければ万全ではありません。ここでは、個別のあがり症や対人恐怖症に関する心理臨床を重ねる中からわかってきた『あがりとは、心の葛藤によって心とからだが一体でなくなっている状態である』というのをその根本にしてそこからどうすればよいかを探っていきます。

 繰り返しになりますが、この根本にある状態をきちんと把握しないままに、自分がこれであがり症を解決できたので他の人にも役立つだろうなどと、そのテクニックだけを紹介しても、それは表面的なものであるために、ある人には役立つけれども他の人には通用しないというようなものになってしまうのです。そうならないためにもまず基本の『人前に出るとはどういうことなのか』を再確認しておかねばなりません。これが第一のテーマです。

 あがり症の人は人前が怖いために、嫌々、中途半端な気持や思いで人前に出てしまいがちです。人前に立ったばかりなのにもう「早く終わりたいな」などと思ったりしてしまうのです。また逃げの気持から、人前で何をやるかを明確に持っていません。またありのままの自分に自信がないせいで、人前に立ってから「みんなの反応がおかしい、私の話をしょうもない話と思っているのではないか」などと思えて焦ってきます。そうなればもし準備してきたものがあっても、他のやり方が良いのではないか、などと迷ってもきます。頭があれこれ考えはじめいそがしくなってくるのです。

 この状態を今度はファミレスで食事を注文するときに例えてみましょう。人前に立ってから、頭があれこれ考えてしまう。それはファミレスで食事を頼むさいに呼び出しチャイムを押して、ウェイターやウェイトレスを目の前に呼んでから、食事を何にしようかとメニューを見はじめるのと同じようなことなのです。場にそぐわない、おかしなことをやってしまっているのがわかるでしょうか。よほどの図々しい人でない限りはそんなことできませんね。ウェイターやウェイトレスを呼んだら選んだ食事を注文という行為をする時がきているのですから。そこで実際には食事を注文する時はウェイターやウェイトレスを呼ぶ前に今日はカレーにしようなどと決めておくわけです。

 それと同じに人前に立ったさいにも、すぐ行動に移れるように前もって心を一つにまとめておかねばならないのです。よほど人前が慣れている人でない限りは人前に立ってからいろいろ思考をめぐらしてそこで何をしようかなどと考えているゆとりはありません。けれども多くの人が思考を巡らす時と、心を一つにして行為、行動する時との区別をハッキリと自覚していないがために人前に立ってからも、頭がいろいろ考えはじめてしまうのです。

 あがり症の原因(本質)は心が葛藤して心身が一体になって物事に向かう状態(心身一如)になっていないということですから、それを克服するには人前に出たときに『心身一如になるように工夫』すればよい。ということになります。これが第二のテーマです。このための工夫として一番効果的なのは『人前で表現したいもの伝えたいと自分の気持のこもるハッキリしたものを持っておく』ということです。このことはまた後の章で詳しく具体的に取りあげます。

 例えばイメージトレーニング技法やプラス思考などは、それによってより強い心身一如の状態になることをねらっているから、それができた人には役立つのです。また例えば自信がつけばあがらない、というのも自信があれば迷ったり葛藤しないからあがらないということです。また時には、今から大事な試合に臨む直前にコーチから強い言葉で叱咤激励されて、それで迷いが吹っ切れ心身がひとつになったために、あがらないで試合がやれた、ということも起こるわけです。これら以外にも様々なあがり症克服の手法があるわけですが、それら全てが心身一如の状態に持って行くための工夫であるとみてよいでしょう。逆に言えばどんなに良いといわれる方法でも心身一如になれないとしたら役立たないのです。

その4 具体的な葛藤事例

 ある青年は絵を習っていましたが、絵の教室の少々厳しいその先生が見ている前だと手が震えて絵が描きづらくなってしまいました。カウンセリングしたりイメージ面接をしてみて解ったことは、自分はまだ先生の期待するほど充分な絵は描けないなぁ、と思っている部分と、でも先生の前ではその自分の実力以上にうまく描かないと怒られるのでは。と思っている部分があるということでした。 先生の前だとその二つの心が「怒られるのでは、、そんなに上手には描けないし、、な んとかうまく描けないものか、、でも無理だ、、」と葛藤してしまい手はそれに連れて震えるしかなくなってしまうというわけです。

 そこで彼と二人で考えたことは、絵の先生の期待通りに上手く絵を描くという、今の自分にできそうもない所はあきらめよう。自分のできる範囲で精一杯描けばよいのだ。と心を決めることでした。そして催眠療法でも、それを自分に強く言い聞かせるように暗示したのです。彼には他にも対人恐怖症などの課題がありましたが、それによってとりあえず絵の先生の前で手は震えないで絵が描けるようになったのでした。

 また、ある壮年男性は研修会においてふと皆の前で発言してみようと思いつき、手を挙げて発言をはじめたのでした。ところがすぐに自分が意見を明確にまとめていないことに気付いてしまったのです。「自分の考え意見を早くまとめなければ、でもすぐにはできない、もう発言を止めようか、いやなんかまとまったことを言わなければ、」などと葛藤し、焦り、口がこわばり中途半端なままに発言を終えたのでした。

 この壮年男性の人前での心の葛藤状態はまさに、その2の章のところで述べた水泳競技の例えと同じです。すでにプールに飛び込んでいるにもかかわらず、泳ごうか止めようか考え込んで溺 れてしまう人と全く同じ状態であるのがわかりますね。

その5 慢性化したあがり症の場合

 あがり症で長年悩んでいる人は「私は話し下手だ」との苦手意識が強くなっていて、人前であがってしまうことが劣等感となっています。また過去に人前でとても苦しかったり恥ずかしい思いをしたトラウマがそのつどよみがえり、それを思い出すだけでも、体がこわばり心臓の鼓動が早くなったりすることも起こってきます。このような場合には、その4の章で述べたようないうような葛藤は隅に追いやられてしまいます。それよりも人前に出ることが怖くて大嫌いになっているので「なんとか人前に立たないで済ませられないか、なるべく早く終わらせたい、でもちゃんとやらねばならないし」などの葛藤が前面に出てきて悩んでしまいます。

 人前であがっている時に当人の内面でたち起こっている心の動きをちょっと振り返ってみましょう。あがり症の大変さは、あがって緊張してしまう苦しさだけではありません。それを人に知られたくないので隠さねばならず、ますます緊張がエスカレート悪循環してしまう大変さです。そんなあがり症で悩むすべての人がこの通りとはいえませんが、まず人前であがることが劣等感となり、早く逃げ出したい思いと、そうはいかないという葛藤に心は支配されます。それがために人前に出てからみんなに伝えたいものを用意することをうっかり見過ごしてしまいがちなのです。人前で行為するさいの一番のかなめが盲点となってしまったのです。これだというはっきりした伝えたいものを持たないで、そちらを忘れたまま人前に出てしまって、その点でもどうして良いかわからず、全くのお手上げ状態に陥ってしまうのです。

 人前に出るということは、そこで何かを表現したり伝えたり訴えたりするということです。それは前にその2の章で述べたように、ヨーイドンでプールに飛び込んだらとにかく手足を動かしてゴールまで泳ぎ切ることと同じなわけです。まず人前に立つということは何かを表現したり伝えようとするという(プールに飛び込んだらとにかく手足を動かしてゴールを目指す)ことだと、再確認して良くわかっていなくてはなりません。その心構えをまず持って、逃げないでそれに前向きになるというような基本の所から立て直して行く必要があるのです。それがないままに中途半端な心持ちで人前に立てば、あがってしまうのが当然なのです。逃げたい気持ちが強いなら人前に立つことは諦めるべきでしょう。そうでないと必ず、逃げたい気持とやらねばならないという思いとの間で葛藤してしまうのですから。

その6 よいアドバイスが役立たない場合も

 あがり症でも症状が重い対人恐怖症を伴うようだったりする場合には個別の心理療法でその克服に取り組むべきです。何事もですが、問題が難しくなればなるほど簡単なアドバイスや「こうすれば良くなる」というようなハウツウ的な解決策は通用しなくなります。なぜかというと頭に知識を得て、それで外界や自分の心身をコントロールするという事ができないレベルにあるからです。神経症でも重くなればなるほど心と身体の亀裂が強く複雑になっているといえます。心と身体がうまく繋がっていなければ、いくら良い知識を頭に入れたとしても頭で思うことと心身のエネルギーやその動きとが噛み合わないので「努力逆転の法則」などと言われるような空回りに終始します。時にはそれでより心が複雑になって、ますます心と身体の繋がりが遠のいてしまう場合さえあるのです。

 この本では心理療法の説明が主ではないので詳しくは述べませんが、気持ちをよく解ってくれる信頼できるカウンセラーに共に歩んでもらい支えられることではじめて心身まるごとが変化していける場ができあがります。その中で次第に心と身体が繋がる事を体験し、治癒が起こり、その個人の個性にあった心身一如を会得できるわけです。

その7 真面目で正直な人ほどあがる

 真面目で正直であればあるほど自分に厳しくもなりますから、人前に出たと きにも「自分の内面にはみんなに表現するほどのものや自信を持って見せるようなたいしたものがないなぁ、、」と弱気にならずにはいられません。

 そのうえに、日本ではその場での一体感を優先しますから、みんなの前にひとりで立つ時にさえ、その場の一体感を壊さないようにしようと気をつかいます。冠婚葬祭などは粗相のないようにふるまわねばなりません。また個人的にも「恥をかきたくない、みんなに良く見られたいしそこまでいかなくても普通くらいには見られたい」などとと思えば、ありのままの自分とはかけはなれた理想的な言動か、または常識的な無難な発言をしなければならないとプレッシャーがかかります。

 でも真面目で正直で誠実だと、嘘がつけませんから格好だけうまくやらねばならないとか本音や自然体と違うところを見せなければならないという状況に耐えられなくなったりして、その葛藤であがってしまうのです。逆に他人がどう見ているかは関係なく「自分は凄いんだ、天才なんだ」などと思いこんで反省することのない人はあがらないわけです。極端な例えですが、どこかの政治家やプレイボーイのように、自分は口がうまくて何とでも誤魔化せる、などと思っている人は自分の内面がどうあろうとそこの反省はしないので、葛藤も起こらずあがりもしないのです。

その8 本来の目的を見失ってしまう 1

 その5の章で「人前に出るということは、そこで何かを表現したり伝えたり訴えたりするということです」と言いましたが人前であがっている時にはこの基本の部分がどこかに行ってしまいがちです。

 それは例えばラブレターを書くときに時に陥ることのある心理状態と同じなのです。ラブレターは好きになった人への自分の愛する思いや、気持ち伝えるのが本来の目的です。ところが「その手紙を読んだ時相手にガッカリされたくない。嫌われないようにしたい。できればこの手紙を読んで自分を好きになってもらいたい、、」などと思いが膨らんでくるとします。すると次には「相手が自分を好きになるように書くにはどうしたら良いだろう、、」などと考えます。この時にはもう元にあった自分の素直な思いや愛情とは分離したところで文章を考えるようになっています。そしてもちろん恋愛小説家ではないのだし、ましてや相手が自分を好きになるような文章なんてわかるわけないので筆はいっこうに進まず、行き詰まってしまいます。

 これと全く同じに、人前で「みんなに変に思われたくない、良く見られたいし認められたい、最低限普通に見られたい」などと思えば、見た目の格好がどうなのか気になりだします。またより緊張が強くなってくると今度は焦りの中であがっていることを知られたくない、バレないようにしなければとそちらが気になってきたりさえしてしまうのです。

その9 本来の目的を見失ってしまう 2

 その7や8の章で述べたことと重なるのですが、ここでは少し違った側面から考えてみます。

 あがり症が癖となってしまって長引いたり、その症状が強くなったりしてくるとそれが劣等感となります。そして人前を避けるようにもなってきます。そうなると自分自身に自信がないことが悩みとしてクローズアップされてきます。そこで見過ごされがちになるのが第二のテーマの方である『表現したり伝えたり訴えたりするその内容の方に自信がない』という点です。

 考えてみれば人前で何かやる時、伝えたいもの(内容)に自信がなければ、よほど嘘が上手で誤魔化すことに自信があるか、逆に自信がないことを正直に告白するのでなければどうして良いか分からなくなってしまうでしょう。そんな時には葛藤して身動き取れなくなったり、焦ってしまって当然なのです。この側面から考えてみても、人前に出たらそこで自分が何を表現するのか、みんなに何を伝えたいのかなどをハッキリ持っていなければなりません。そしてその中身を人に伝えたい!と逃げの気持でなく前向きになっていることが最低限必要なのです。人前に出た時には、まずもって人に聞いてもらいたい見てもらいたい!と思えるような伝えたい気持ちがこもった中身がなければ始まらないのです。

★紙の本:『あがり症克服のコツ:980円+送料:300円
★電子書籍版:『あがり症克服のコツ:Kindle本:500円
★参照ページ:『当相談室の心理療法


電子書籍/小冊子『あがり症克服のコツ』

 あがり症で悩む方々の心理面接から導き出されたノウハウ本です。多くの心理面接の積み重ねによって、あがり症に共通する心理構造が解明されました。この本を読むことで、どうしてあがり症に陥ってしまうのかがよく理解できます。また、だれでも取り組める「あがり症克服」のための実践方法についてもわかりやすく述べています。

 既存のあがり症克服本は、その根本原因を明確にしないままにさまざまなテクニックを述べているに過ぎないように見えます。例えば、足が腫れて歩けなくなったという症状が出た時に、骨折なのか筋を痛めているのかそれとも筋肉を痛めているのか、またそれら以外の原因なのかで対処の仕方がそれぞれに違ってきます。ところが既存のあがり症克服本は、ただ冷やせば良いとか、温めれば良いとか言っているのと同じことになってしまっているのです。ですから、今までのあがり症対策のノウハウは、あの人には役立ってもこの人には役立たない。時に、まぐれで役に立つ。という位のものがほとんどだったのです。

 私は細々ですが、30年以上にかけて心の問題で悩んでいる人の個別のカウンセリングに取り組んできました。その中には、あがり症や今でいう社会不安障害で悩んでいる方もたくさん居ました。その方々と心理面接の中で、問題の克服に向かって取り組むなかで、多くの人に共通するあがり症の本質といえるものが見えてきたのです。個別のあがり症の原因や、その克服の容易さ困難さは人それぞれに違ってはいます。けれどもなぜあがり症になるのかの本質(根本原因)は意外に共通しているのです。それらをベースに他のあがり症で悩んでいる方に、読むだけでも、あがり症克服に役立つようにと、このマニュアル本を書き上げました。

 目次内容は以下の通りです。

  1. はじめに
  2.  なぜあがってしまうのか
  3.  どうすれば良いかを先に言うと
  4. 具体的な葛藤事例
  5. 慢性化したあがり症の場合
  6. よいアドバイスが全く役立たない場合も
  7. 真面目で正直な人ほどあがる
  8. 本来の目的を見失ってしまう 1
  9. 本来の目的を見失ってしまう 2
  10. 人前(壇上)に立つ前にしておくこと
  11. 伝えたい気持ちを強く持つ
  12. 実際場面での対処法 できることできないこと
  13. あがり症や社会不安障害の深層心理 1
  14. あがり症や社会不安障害の深層心理 2
  15. あがっている時の心境から
  16. まずあがり症の自分を救う
  17. 逃げの気持ちや上手くやりたい気持を乗り越える

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★参照ページ:『当相談室の心理療法


個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法

 心理的な症状や悩みで行き詰ってカウンセリングに来談された方が、話しを進めていく中で、おしなべて行き着くのが「自分に自信がない」ということです。「集団に溶け込めなくて自分だけいつも浮いているような疎外されているような感じです」とか「職場で人に気を遣ったり遠慮してしまって、自分の行動や話すことは後回しになります」「周りや世間がどう思うか気になって外に出るのも辛いです」などと自分に自信がないことからくる人間関係での大変さが話題となるのです。

 自分に自信が持てないと人とのかかわりが重荷となって疲れるばかりで、次第に人の中に入ることが嫌になってきます。引きこもりになっている人の多くが、事情はそれぞれに違っていても自分に自信がないがために人の中に入っていくことができなくなっています。さまざまな問題や困難を乗り越えたり、自分の成し遂げたいことに挑戦するなどして、充実した人生を生きていくためには、まずもって自分に自信を持っていることが必須といえるでしょう。

 心理面接やカウンセリングでは、何らかの形でなくしたこの自信を取り戻したり、新たな自信を育てたりすることが課題となります。けれども「自分に自信を持てばよい」と言うほどに簡単にはいきません。自信とは自分を信じるということですが、中身が具体的ではありません。自信を持つためにどのようにしていけばよいのかがわかりにくいのです。また自信の持ち方自体にもいろいろあって、例えば自分の実力もわきまえずに自信過剰になったとしたら、はた迷惑ばかりで人間関係はかえってうまくいきません。

 そこでまず「自分に自信を持つ」ということがいったいどのようなことなのかを、より具体的に整理しなおしてみました。それによって自分の場合はどのように取り組んでいけば本当に役立つ自信を得ることができるのかがわかってくるはずです。今回の内容は個別の心理面接でこの問題に取り組むことを共にしたクライアントから学んだものが中心となっています。(やはり自分に自信を持てなくなった事情の根が深い分だけその再生は困難を極めます。そんな場合はやはり個人の心理面接でカウンセラーなどに支えられながら根気よく取り組んでいくのがベストでしょう)

条件付きの自信

 「自信」は二つに大別できます。わかりやすいのは仕事が人よりできるとか、頭が良いとか運動能力が高い、などというように他と比較して自分の方が優れているところからくる自信です。よほどの障害や才能がない限り、その道で努力工夫していれば次第に上達するので自信は強まります。でも上には上があってきりがないので、自分より下位の者が多い中にいる時は良いのですが、優秀な人が多く集まる中に入ってしまうと途端に自信喪失しかねません。また自分の到達したい理想を高く持ちすぎると、いつまでたっても自信が持てないことになります。

 この自信は何々が優れているからというように条件付きのもので、その条件から外れてしまえば役立たなくなるというもろいものなのです。でも社会の中で活躍するには、物事を成し遂げるまで努力する力が欠かせません。そのためには、自分は人より優れた能力があるのだとの自信がある方がずっとやる気が出ます。

 逆に、自分は今までちゃんと物事を成し遂げたことがない。どうせまたうまくいかないだろう。などというような自信のなさでは、できるかどうか試してみることさえ諦めてしまうでしょう。こんな時一番良いのは「好きこそものの上手なれ」というように、自分の好きなことに夢中になっているうちに自然とそれに上達していく体験をすることです。その体験によって自分もやればできるのだと自分の可能性自体に拡大した自信が持てる場合もあります。

無条件の自信(基本的信頼感)

 自信にはもうひとつ無条件の自信というのがあります。それは他人との比較するものでない無条件のありのままの自分に対するものです。根拠のない自信ともいえるでしょう。これは先に述べた条件付きのように他と比較してのものではないので一見わかりにくくて目立ちません。けれども例えば家を建てる際に一番重要な基礎工事に相当するもので人がより良く生きていくためにはより重要なものです。

 心理学で乳幼児期に育つといわれている基本的信頼感というのがこれに相当します。乳幼児がより快適に安全に育っていくための要求を親や養育者がよくわかって、できるかぎり叶えてあげられるほどに、周りや自分に対する基本的信頼感が強くなると考えられています。他者にも自分にも、世の中に対しても強い肯定感を持つことができるのです。そのため社会の中においても意欲と信頼を持って前向きに活躍していけます。

 かといって、完璧を目指して乳幼児を養育するのでは神経質さが伝わるので逆効果です。赤ちゃんに対する深い愛情と理解がありながらも肩の力が抜けた感じで、ゆとりを持って接する方が基本的信頼感がよりよく育つはずです。これがあれば条件付きの自信が全てなくなっても、自分の存在をすべて否定しなくて済みます。

 逆に基本的信頼感を育むことができなかった子供は、自他ともに信頼しにくく安心できなくなるでしょう。この世に生まれ出てから、充分守られている感じが持てないで育った子供は、失敗を恐れて何事にも消極的で他人を信頼できず情緒的な人間関係が築きにくいといった傾向があるといわれています。その後に来るしつけに対して、怖さや否定されたという思いを強めがちになるともいわれています。また、夫婦喧嘩や離婚など不安定な家庭で乳児期を過ごすと、基本的信頼感が育まれにくいという指摘もあります。不安が多くて落ち着く暇がなければ信頼どころではありませんね。

 さらには、物心ついてからのしつけにおいて、この無条件の自信(基本的信頼感)を脅かす事態が加わるのです。しつけにおいて良い行動、悪い行動などと条件がつき始めるために、無条件の愛情の方が隅に押しやられてしまいがちです。カウンセリング場面では、子供時代に親の期待が大きすぎたり、虐待までいかない場合でも、無条件に大切にされた感覚を持てないような家庭に育ったという辛い話がよく語られます。自信が持てなくなった事情として、当人が育ってきた家庭や環境において乳幼児以後にも、ありのままの自分を認めてもらった感じがしなかった体験が見えてきます。

 親としては、ちゃんと無条件の愛情を子供に持っているにしても、例えば両親ともに忙しくて子供と接する機会が少なかったりすれば子供は見捨てられているように感じたりもします。そしてその理由として「私に価値がないのだろう。愛されるためにもっと良い子にならなければ」と健気にも思い込むのです。

 余裕がない親に育てられた場合は、ちょっとのことでも怒られたりするために自己否定感が強くなります。子供によりよく育ってもらいたい、社会で活躍する人になってもらいたいと期待して頑張る方ばかりを強調してしつけていると、それを受け止める子供は親の無条件の愛情の方が見えなくなります。そして「ありのままの自分ではダメだから叱られるのだ」と思ってしまいます。

 また、しつけ体験と同時並行して子供の内面には、覚え始めた言葉による自己評価が始まります。そこで、それらの体験は(良いも悪いもですが)観念の地図となって、ずっと残ってしまいます。それは思いの癖として、何かの折には登場して当人をそこに決めつけてしまうのです。

 ありのままの自分が認められなくて基本的信頼感が充分得られなかった人は、どこかもろい部分があります。また、常にこうあるべき理想像に向かって努力をしていなければならず気を抜けません。深い休息も少なくなるので常に疲れが残っています。例えば一旗揚げようとして都会に出た若者が挫折して実家に帰ってきた時に、優しい家族のその無条件の抱え環境があれば傷ついた心を癒すことができます。そしてまた新たな人生を歩むことが可能となります。このような心の作業が簡単に進みにくくなるのです。

ありのままの自分を愛することが自信に

 かといって基本的信頼感が得られていなければもうダメというものではありません。乳幼児のころに得られなかった基本的信頼感をその後に獲得することは充分可能です。この側面を育てていく過程が本格的な心理療法やカウンセリングの仕事といえるでしょう。

 逆にいえば、子供時代に基本的信頼感を充分得られなかった人は無意識裏にそれを求めて生きていきます。例えば、プチ家出をして親が必死になって探しに来る姿を見ることでようやく自分が心底大切にされているのだと確認できて安定する子供がいます。時には離婚して実家に戻ってきてから、この無条件の自信(愛情)を家族とのやり取りで獲得しようと再挑戦している動きがうかがえる成人女性もいます。

 自殺未遂をすることの裏に、自分では全く無価値に思える自分の存在が家族にどう受け止められるか、命を賭して確かめようとしている動きが見える場合もあります。古い話ですが、自分のベッドの下に剃刀の刃を隠していたのを母親が見つけて、慌ててご両親で心理相談室に連れてきた不登校の中学生を思い出します。彼女は心理療法を受ける以前に、それを重大事と受け止めたご両親の態度でもう半分以上立ち直っていたといえるでしょう。

 重度のうつ病の中年女性は来談してカウンセリングを積み重ねていく中で少しづつ回復に向かっていました。そのころ、同年代の女性で不登校の子供のことで悩んだことのある友人と電話で話している際に「居るだけでいいのよ」と言われました。それが心に響いた彼女はそのことを夫に言いました。すると夫も「そうだよ」とそれに賛同してくれたのです。それをきっかけにして彼女の回復に一段と弾みがついたのでした。「居るだけでいい」これこそが無条件の愛情(自信)といえるでしょう。

 心理的な症状や悩みがない人の中にも無条件の自信については充分持ちえていない人が多くいます。人間社会にはさまざまな条件があります。学校では成績の優秀な子供が高く評価されます。プロスポーツ界でトップクラスの選手には莫大な契約金が支払われます。仕事で結果を出すことができなければ会社を辞めねばなりません。結果がすべて。条件付き(の自信)がまかり通っているのが人間社会なのです。

 そこで一生懸命に頑張って仕事をした結果、例えば定年退職をした男性で、過去の会社での肩書や活躍などの自慢話にふける人がいます。悲しいことに年老いてしまった今の自分に価値を見出せないのです。だからついそんな過去の話を持ち出して、自分を支えなおそうとしてしまうのでしょう。

人間の理性(科学的思考力)と自然(生命体)の知恵との比較

 自信があるなしについてさらに深く探っていくと、学校で学ぶ「よく考えて答えを出す」というやり方や、理性で自分をコントロールするのがベストであるとの価値観の弊害が見えてきます。例えば、素直で感受性が強くて頭の回転が良い子供ほど、人の言うことを真に受けるので、周りに振り回されやすくなります。またいろいろ考えられる分、葛藤が増えたり、こだわりができたりします。悪い方にも強く想像力が働くので強い不安に襲われます。そして次第にそんな自分の心身に否定的となります。知らないうちに性悪説の上に立ってしまったのです。そして常に自分を監視してコントロールしなければならなくなるのです。

 「ありのままの私は怠け者だから」とか「手放しにしたらどうなるか心配で」「ありのままの自分は全く無価値です」などと言います。これらは事実ではなくて思い込みなのです。でも常に気が抜けないのでこのままでは心底楽にはなれません。

 …他に、理性偏重が極端化してしまって、しんどい生き方になっている例をちょっと紹介しておきます。元々まじめで理性の働きが強い人で、何事もきちんとやらねば気が済まない完全主義となり、それが高じて強迫性障害的にまでなる場合があります。ちょっとしたミスもダメだと、常に意識を強く持って几帳面に成し遂げようと頑張ります。疲れは倍増します。伸び伸びできず、感情発散もできなくなってしまいます。また、理性で物事を「良い悪い」「白か黒か、0か100か」のどちらかに割り切って区別、判断する癖がついている人がいます。そのぶん極端から極端に、心や行動が揺れ動いてしまうので、とても不安定な生き方となります。当人はとても一生懸命なのですが事実や他人とのズレが大きくなるので、なかなか他とわかり合えないで苦労します…

 科学万能時代の私たちは、その近代科学最大の発明といえる自動車の運転と同じに、理性でもって自分の心身をコントロールしていくのがベストだと思っています。けれども人間の身体はスイッチを入れなければ稼働がはじまらない自動車と同じではありません。身体は生まれてからずっと環境と連携して死ぬ時がくるまで終始自動運転し続けているのです。道を歩く際に考え事をしながらでも、身体はちゃんと目的地に向かってくれます。

 ほとんどのことを身体の機能がかってに自動運転してくれているからこそ、人はいろいろ自分の考えを膨らます暇があるのです。身体は自動車のように他と切れた個体ではありません。けれども近代科学の下に生きてきた私たちは、身体に任せっきりにするのは手放しで暴走する自動車に乗っているのと同じに、あまりに無謀なことだと思えるのです。これがありのままの自分に自信が持てない理由の根底にあるものです。

 自分で獲得しなくても生まれた時にはすでに備わっている心身の機能や知恵は計り知れません。例えば失敗したり挫折や病気になったことが、実は心身の知恵によるもので、より大きな災難を守るためのものだったという場合さえあります。

 かなり昔に来談した戦争体験のある老年の方の話を思い出します。彼は東南アジアに遠征した際に上官から明日偵察に行って来いと命令を受けたのでした。ところが次の朝目覚めてみると足がパンパンに腫れあがって歩けないほどの急病になっていたのです。そこで急きょ代わりの人が偵察に行かされたのでした。でもその人は帰ってこなかったのです。代わりに偵察に行った人が水死体となっていることが、彼には事前に分かったそうです。彼の身体が急病になることで彼の命を守ったのだとしか思えません。

 このような典型例でなくても私たちが気づけないところで心身がとり行っている人知を超えた働きは無数にあるでしょう。私たちのちっぽけな頭で良い悪いを判断したり、全てを取り仕切ろうとするのは思い上がりもいいとこかもしれませんね。

 子供時代に様々な事情から充分な自信を持ちえなかった事情はあるにしても、大人になった今、自分だけでそれを回復する道もちゃんとあります。まずは今まで見てきたように、より正しく自分を知ることです。自分が自分の心身をどう思っているかを見直して、そして自分の勘違いや思い込みを剥がしていきましょう。すると、ありのままの自分が素敵にいきいきしてきます。あるがままの事実と、自分が想像で作ったり思い込んだりしたことの区別がつくようになるだけでも、かなり楽になります。

 実際のテクニックとして、ちょっと立ち止まって自己否定することは横に置いて、自分の内面をまるで親友を見守るように、優しく見守もってみましょう。内なる自分にあれこれ話しかけずに寄り添うつもりになってみましょう。すると、それまで否定してダメに見えていた自分がとても愛おしく大切に思えてきますよ。

★参考ページ:『当相談室の心理面接について』『心と身体の能力を最大限発揮するための本当のコツ



人間関係に働く自我の防衛機制の具体例

 人は自分のことが一番わからないといいます。確かにそうです。例えば他の人から見たら一目瞭然なその人の特徴でも、当人は全く気づいていないで盲点となっている場合が多々あるのです。

 例えば、とても繊細で心根が優しい人で、でもシャイなために人と接するときに緊張する人がいます。その緊張している硬い表情やしぐさは一見すると、ちょっと怒っていそうに見えます。近寄りがたく感じられ、それによって当人は人の中で孤立しがちとなります。その逆に、とても人が良い感じで、親しみを持たれやすい人がいます。何を言っても怒らないような人に見えるために、言いたいことをズバズバ言われたり、時にはなめられたりします。いじられキャラになりやすかったりします。でも内心とても傷ついていて、私は虐められやすい人間なんだ、とまで思ってしまっている場合もあります。

 どうして自分には人が寄ってこないのか、どうして自分は人に嫌なこといわれたりいじめられるのか、などとその原因を考えてみても先に述べたような盲点には気づけません。考えに考えた挙句に「私に価値がないからそうなるのだ」と勘違いしてしまうのです。

 私もあきれるくらいに自分自身のやっていることに気づいていませんでした。でも、エンカウンターグループの体験学習の際にグループの世話人から率直に言ってもらったことをきっかけにして、次第に自分が盲点としていた側面に気づくことができたのです。そんな体験談を述べながら、人の心が人間関係でどう働いているか(自我の防衛機制)を具体的に解明してみます。

 実は私は若いころ人と接する時、少しでも脅威を感じたりする人や集団の場で、極端なくらいに愛想笑いをしたりペコペコしたりして、相手に合わせうまくやっていこうとしていたのです。ところが自分がそんなことをやっているとはつゆにも知りませんでした。あきれることにその逆に内心では「私は男らしい」方であると思っていたのです。

 三十代に入ったころエンカウンターグループのワークショップに幾度か参加した私は、今度は少し遠出をして山梨大学関連の主催する三泊四日のワークショップに参加したのです。場所は富士山麓のなだらかな斜面の平地に緑が心地よい山荘でした。ファシリテーターは、それ以前に一度エンカウンターグループでお世話になった山梨大の古屋先生と、同じ大学の山口先生という男性二人が世話人でした。グループは少人数制ではじめから12名。会議室のような部屋で一人がけのソファーでみんなで輪になってセッションが始まったのです。

 私はそのころにはエンカウンターグループに少し慣れてきていました。それとも、そのグループの雰囲気のせいだったのか以前よりグループの中で行動しやすくて、他の人の話が長引いた時など、率直に話しを止めようとするような発言をしたりしました。でも基本的にはまだまだ初心者というか人間関係にも未熟で、人との関わりがよくわかってなかったのです。で、とにかく動けばよいのではないか、などと思って無理して頑張っていたのでした。そんな私はグループ全体からは少々浮き気味だったといえるでしょう。そのグループで何が起こっているかなどを充分にはわからないままに動いていたのですから。

 このエンカウンターグループで私はかなり酷い言われ方をしたのです。世話人の山口さんが「あなたは女々しい感じがする、太鼓持ちのようだ」と率直に言ってきたのです。それを言う時には私が傷つくのではとかなりの心配があったでしょう、少し言いよどむような感じもありましたから。

 その言葉に私がショックを受けてひどく落ち込んだりしたと思いきや、全くそんなことはありません。そんなにズバリ言ってもらっても、当の私はなんのことだかさっぱりピンときませんでした。内心では「こんな男らしい私に向かっては何でまたそんなことを言うのかしら」と思っていたのです。イヤほんとに。太鼓持ちだとか女々しいとか言われてもそれは私ではありません。だって私は空手もやっていた時期があるくらいに男らしい男のはずなのですから。人間あまりにもわかってないことはピンと来ないので傷つきようもないのですね。

 でも私の内心の思い込みとは裏はらに私はその時、ニコニコ、ペコペコ愛想振り撒き状態だったのです。

 後日、別個の通いのカウンセリング勉強会の時にメンバーの一人から「駅を出た所でNodaさんが一人で歩いているのを見かけたら、怖いような顔つきをしていた」と言われたことがありました。そのグループにいる時も愛想を振りまいていたのですね。不思議なものでその時の言われ方の方が「自分には人に対して裏と表があるのかぁ、、」とちょっとショックでした。

 私はそんなにまでも愛想したりしながら人と接していたなんておかしいなあ。と次第に内省しました。そういえば先輩のカウンセラーで、あんなにはなりたくないと思うタイプの人がいました。「何だかウンウンと直ぐに頷いてばかりで軽い人だなあ。ちょっとカウンセラーとしてどうかしら」などとその人を見てほんとにイヤーな感じになったりしました。でもあれは私自身を嫌っていたのですね。ごめんなさい。自分にある、でもそれと認めたくないところをその先輩カウンセラーに投影していました。

 投影という防衛機制は「実は私がそうだったんだ」などと投影の引き戻しがあってのちにはじめて、投影していた相手がそれまでとは違って見えてきます。でも、投影して見ている時は相手が持っている特徴として全く事実に見えるのです。そしてほんとに嫌に感じてしまうのです。人間関係においてこの心の防衛機制の作用によるトラブルにはとても多いのではないでしょうか。

 私ほどに自分に気づいていない人も少ないでしょう。でも、もしかしたらあなたも、自分の内面の認めがたい要素を抑圧したり、見ないようにしているうちに、いつの間にかそれを周りの誰かに投影しているかもしれませんよ。なんかあの人嫌だなあ、虫が好かない。などというような人がいる場合はちょっと気をつけて内省してみた方が良いかも。

 さて、ここが素敵なところなんですが。正直になって自分の認めがたいところを認め受け入れ投影を引戻すことができると、投影していた人が嫌でなくなりますね。またその否定し押さえつけていた部分を生かして、今後はよりいきいきと生きていけます。さらに、このような場合、ありのままの自分を受け入れ認められるようになることが同時進行しています。ですから自分の中に立てていた、かっこつけたり無理していた壁が取り払われてしまいます。その結果、生きていくこと自体がとても楽にもなるのです。

★参考文献:『ジョハリの窓』『人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制



人間関係の体験学習 エンカウンターグループ

エンカウンターグループとは

 私はエンカウンターグループが大好きです。過去にカウンセリングの学びの一助としてよく三泊四日や四泊五日で旅館などに泊まり込んで行う人間関係の体験学習をやるエンカウンターグループのワークショップに出かけたものです。2009年末には九州の九重エンカウンターグループでした。大分の山中、外は極寒の雪に囲まれた山荘でのワークショップでしたが暖かい雰囲気のメンバーグループで実に伸び伸び楽しかったです。

 近年はそうでもないですが、私がカウンセリングを学びはじめた30年以上前にエンカウンターグループはとても盛んに行われていた人間関係の体験学習法でした。 神奈川カウンセリング研究会のカウンセリング研修科目の中にエンカウンターグループがあり、年に数回、研究会の主催で泊まり込みのワークショップが開催されていたのです。

 エンカウンターグループはカウンセリングの創始者カール・ロジャーズとその仲間がシカゴ大学の学生達のカウンセラー養成に集中的なグループ勉強会が効果的なの見いだしたのがきっかけではじめたようです。ベーシック・エンカウンターグループ(Basic Encounter Group 非構成的出会いグループ)と呼ばれるこのグループは通常のグループアプローチとはかなり違った特徴を持っています。その最も特異な点は、主催者側に会をリードしていこうとする人が居ないところです。そんなことを何も知らないで参加すると、その常識外れにビックリします。

 私がはじめて参加した湯河原の温泉旅館でのワークショップでは50人くらいの大人数が集まっていました。まず大広間に全員が集まってグルーッと大きな輪になって座ってセッションが開始されます。その直後に世話人という人達が何人か自己紹介をするのですが後は何もしないのですです。それでどうなるかというと、50人の大沈黙が始まるわけです。

 しばらくするとせっかちな人か積極的な人かが「自己紹介でもしましょう」などと発言しますが、尻切れトンボに終わります。そしてまた沈黙。「私は引きこもりで居ました」とか自分の悩みなどを語ろうとする人が出てきますが「その話は今は受け止めかねるし、時期尚早の感じなのでまたに、、」と止めようとする意見が出てきます。そしてまた沈黙。沈黙が多いのです。

 私自身はエンカウンターグループとはどんなものかを本で下調べしていたのですが、それでもこの先どうなるのか、と心配になりましたね。何も予備知識がない場合はもう帰ろうかと思うくらいお先真っ暗な感じになるでしょう。私は人間関係の勉強に来たのに教えてもらえないなんて酷い!お金返せ!と思う人も居るかもしれませんね。

 でも、これが良いのです。世話人の基本ポリシーとして、グループにはグループとメンバーの実現傾向(成長・適応・健康へと向かう)の促進力があると信じているのです。それでメンバーを信じて任せているのでリードしないというわけです。私は上から教えられるような感じで学ぶのが嫌いというか、自分のことは自分で気づきたいし発見したいとの思いがあるからでしょうか。そんな私の性分に合っているのでしょうね。このような方法は自由でホントに良いなぁと思います。

 通常では、何か学ぼうとする集まり(集団)の場合には自主学習会でないかぎり、必ず講師が居たりトレーナーがいます。またどのように学んでいくかの予定やスケジュールが組まれているのが普通です。それらがないのですから当然面食らってしまうわけです。ベーシックエンカウンターグループではトレーナーや講師は居なくて代わりにファシリテーター(世話人)と呼ばれる人が居るわけですが、その役割はメンバー同士の人間関係を促進することが第一で後はグループメンバーの一員として行動しようとするのです。世話人は基本的にはリーダーシップを取ってグループを導いていこうとしないわけです。ですから時にはグループの誰かがリーダーシップをとる可能性もあり得るというわけです。

 ベーシックエンカウンターグループには大まかなセッション時間とかの枠組みなどは決まっていますがどのようなことをやるのかなどの内容は決まっていません。グループのメンバーで決めても良いわけです。通常はグループメンバー10人前後にファシリテーター2人くらいです。先に話した50人から始まった湯河原でのワークショップでも、この大グループのままで居たいという人もいましたが、次第に幾つかの小グループに分かれて、私も総勢10人くらいのグループに入ったのでした。

 大グループから別れた幾つかの小グループは最終日に皆で集まるまでは旅館の別々の小部屋でそれぞれに自由にセッションを重ねるのです。私は湯河原、山梨、長野、大分などで開催されたエンカウンターグループに幾度か参加しました。そこでおもしろくて楽しいだけでなく為にもなるホントによい経験をさせてもらったのです。

菩薩と鬼女がいた初めてのエンカウンターグループ

 私の初めてのエンカウンターグループ参加はとても刺激的なものでした。三泊四日の合宿が終わって下界に出たら、自分が何だか良い人間にでもなったような感じがしてかなりハイになっていました。それから一週間くらいは毎日、下手なギター片手にフォークソングを楽しく歌って過ごしたりしていたくらいの盛り上がりでした。開放されていたといえば聞こえは良いですが、足がふわついて地についてはいませんでした。今思うと恥ずかしいですが。

 しかしそんな一時的な感情の盛り上がりとは別に、私はその初回のエンカウンターグループのワークショップでかなりの体験学習をしていたのです。いや、その当時には全くそれと気づきませんでしたけど。それは『人がいかにそれぞれに色眼鏡で外界を(投影して)見ているか』ということです。

 湯河原温泉でのエンカウンターグループでは大部屋で50人くらいで話し合ううちに次第にそれぞれが希望する小グループに別れていったのです。私も10人くらいのメンバーグループに参加することにしてそのメンバーと小部屋に移りました。

 全く初めて出会う人達と畳の部屋で輪になって座って、ワクワクドキドキしながら本格的なセッションが始まったのです。そのグループには二人世話人がいて、一人はその当時山梨大学で教鞭をとっていた古屋先生という中年の男性でした。そしてもう一人は神奈川カウンセリング研究会のベテランの世話人で中年の女性でした。この女性の世話人の方がなんともステキで、私にはこれぞカウンセラーではないか!と映ったのです。どうしてかというと、見た目や雰囲気が「菩薩」のような感じだったのですから、そう思わずにはいられませんでした。

 私は当時カウンセラーに強くあこがれてワークショップに参加したのですから、ベテランのファシリテーター(世話人)は私の理想像となります。そして、まさにカウンセラーとしては最高レベルの人(菩薩)を見つけたのでした。初日のセッションを終えてから私は「こんなステキな世話人の居るグループに参加できて最高だ。よかったなぁ。明日からのセッションが楽しみだ」と思っていたのでした。

 初日のセッションが終わった後に待っているのは、慣れた先輩方が持ち込んだり買い出してきたものでの飲み会です。先輩方は長年エンカウンターグループを行ってきていて知り合いも多いし、日常を離れて開放されて楽しむために、それぞれに寄り集まって、もう初日の夜から飲み会が始まるのです。もちろん自由ですから参加しない人もいたりもします。これはどこのワークショップでもそんな感じですね。

 私も先輩方に誘われてその飲み会に行くと「こっち、こっち」などと皆に声をかけられて、それだけで何だか一員として認められたような嬉しい気持ちになりました。そんな時です。そこにベテランの、時には世話人もやったりするような中年女性が今にも踊り出しそうなくらいの勢いで伸び伸び元気に部屋に入ってきたのでした。そして近づいてきて私を見るなり「野田さんはぁ、、」と何か突っ込み入れそうな声を発したのです。

 幸いばかり長くは続かないもんですね。私は恐怖に固まりました。初めてのワークショップ参加は私にとって新入社員と同じ心持ちです。おまけに「カウンセリングの諸先輩達も大勢いる中に私のようなものが参加していいのだろうか、、」などと半分引け目も感じてましたし。でも図々しくも「ぜひみんなに受け入れてもらいたい!認められたら自信になるし、、」などとの下心もあって参加しているのです。その心はもうちょっとでも否定的なものを感じればすぐ傷つきかねない状態なわけです。

 ありがたいことに、その声をかけられた時は、他の先輩方が私の怯えや傷つきやすさを察知してその対決を流してくれたのです。「マァマァいいじゃない、、」などと言ってくれて。酒のおつまみをみんなで配る方に集中してその元気な中年女性の「野田さんはぁ」の続きは立ち消えとなったのでした。

 でもその後のワークショップの間中、私はそのおばさんに「野田さんはぁ」の次にどんな「酷い」こと言われるのだろうとビクビクものだったのです。全員が一堂に集まる食事の時間などは、できるだけそのおばさんの眼を逃れるように席を取って食事したものでした。そうなんです、私の中でその元気な明るいおばさんは鬼女になってしまったのです。でも私は小グループに行けば菩薩さまが居てくれるのですから大丈夫なんです。セッションでは私がたわいのない話しをしても、菩薩カウンセラーはウンウンと大きく頷いて私を支えてくれるのです。本当にどこかで見かけた菩薩像のような顔つきでした。

 私は皆が集まるところでは鬼が出現しないかビクビクしながらも、肝心の小グループでのセッションでは菩薩様と一緒に心地よく過ごして、そして晴れて三泊四日のエンカウンターグループを終えたのでした。

 下界の湯河原駅のプラットホームで周りを見回すと、気のせいか何だかワークショップ前よりも周りが違って見えるんです。本物とは言えませんがゆとりは出てたのですね。まるで自分がもうかなりのカウンセラーにでもなったくらいのハイテンションで「さあ良い人間になって帰るぞぉ」と電車に乗り込んだものでした。ところが私のエンカウンターはまだ終わってはいなかったのです。驚いたのは、ホームでは見かけなかったのに、同じ車両にその鬼女おばさんが偶然居合わせたのです。もう逃げられません。えぇ、ホントに万事窮しました。

 で、どうしたかというと私は意を決して正直に言ったのです。「実はあなたが怖かったのです・・・」と。たいして知らない人からそんなこと言われたのに、さすがカウンセリングはベテランの鬼女先輩でした「そう」とだけ言って聞いてくれました。私はもう心底ホッとしました。そのうちに目の前の席が一つ空いたので鬼女先輩は座りました。私はその座ってうつむき気味の鬼女を見たときにもう鬼には見えず何だか普通のおばさんが少し淋しげにしているような感じがしたのでした。私に怖がられていたことが悲しかったのかもしれませんね。その後の言葉が足りなくて悪いことしました。

 でもこの話には更に続きのオチがあったのです。その後のことです。神奈川カウンセリング研究会の他の先輩方二人と私とでお茶をしたときに「そういえば彼女(私にとっては菩薩カウンセラーだった中年女性が)この前のグループでボロボロになっていたよね」と先輩二人が話し合ったのです。私は内心「え?あの人(菩薩)がそんなになるの?」と全く信じられない思いで聞いたのでした。

 どうしたことか、鬼女が普通のおばさんになったとおもったら、おまけに菩薩までも只の人になってしまいました。ウーム。ウーム。それにしても、三泊四日逃げ回っていた小心者の私に、鬼との避けようのないエンカウンターを、それも最後の最後に持ってくるようにアレンジしたのは神か仏でしょうか。あんなことあるんですねぇ。

 この経験はその後しばらくしてから、やっとどのような体験だったのかわかってきたのでした。私は勝手に自分の内面の救済者イメージを全てその菩薩に似た女性カウンセラーに投影していたし、またその「野田さんはぁ」と言った先輩おばさんにはその反対の(私を傷つける)否定的イメージをまとめて映して見ていたのでした。でもね、人ごとですから笑っていられるでしょうけど、大なり小なり皆さんもそんな色眼鏡をかけて周りの人を見ているものなんですよ。

★参考ページ&サイト:『人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制』『人間関係に働く自我の防衛機制の具体例』『人間関係研究会 エンカウンターグループとは



夢と脳科学と物語の関係

夢は脳内モニターである

 近年脳科学の方から『寝不足を解消しないと脳内に毒素がたまる 神経科学者ジェフ・イリフ氏』との学説が発表されました。脳科学研究で注目されている老廃物アミロイドβの蓄積は、アルツハイマー病などの恐ろしい病気の始まりといわれています。

 カリフォルニア大学の脳科学者たちは、65歳から81歳の健康な人を対象とした実験をしました。その詳細は省きますがその結果、深い睡眠が不足すると脳の長期記憶に影響を及ぼしアルツハイマー病の引き金となるアミロイドβタンパク質が発生することを発見したのです。研究を行った脳科学者のWalker氏は「アミロイドβタンパク質がたくさん蓄積しているほど睡眠の質が低く、記憶力も低下します。さらに、深い睡眠が取れていないと、アミロイドβタンパク質などの有害物質を脳内から追い出すことが難しくなる、という悪循環に陥るのです」と語っています。

 脳内からの老廃物は脳脊髄液(CSF)に吸収され、他の排泄物とともに血液中に排出されます。CSFは目覚めているマウスの脳内ではほとんど動きません。でもマウスが眠ってしまうとCSFが脳内を駆け巡るのが見えるのです。眠ると脳細胞自身が縮み、脳細胞間の隙間動が広がることでCSFが流れやすくなってアミロイドβタンパク質をはじめとする脳内の有害物質を排出させるのです。ようするに睡眠中に脳の浄化作用が行われているわけですね。

 これらのことは心理学の分野では昔から周知のことでした。今から40年以上も前に、カナダの心理学者(生理心理学の研究者)であったW・ルーテは「自律性中和」と言う治療技法を発展させました。その技法の説明の中で彼は、ニューロンに蓄積された物質と機能妨害作用を減少及び段階的解消することを目的とすると言っています。そして睡眠でなく自律訓練法を応用した、より積極的に脳を調整する技法を開発していたのです。

 心の開放、浄化作用は睡眠中だけでなく、リラクゼーションや感情発散によっても起こります。というか守りのある中で、深いリラクゼーション状態になったり、泣いたり笑ったり怒ったりと情動発散したりする。その後に深い睡眠に入る。というのが浄化作業の順当な工程といえるのです。脳科学ではまだ解明されていませんが睡眠だけで浄化作業のすべてを賄うには充分でない場合が多々あります。

 思い出すのは、昔カウンセリングに来談していた若い男性が連れてきた友人女性の見た夢です。その男性クライアントはカウンセリングに興味を持った友達がいたので連れてきたと言って、彼の面接日に音楽仲間の女性を同伴してきました。そこでその回の心理面接は私とその男性クライアントで、彼女のことを中心に話し合いました。そして最後に、私のリードでイメージトレーニングによるリラクゼーションを彼女に体験してもらったのです。彼女はとても感激していました。その次の面接日に来談したその男性クライアントは「彼女は、この前ここに来た帰り道に涙が溢れてきて止まらず、それから4時間位ずっと泣き続けたらしいです」と言うのです。彼女はその夜に、おもしろい夢も見てそれを彼に話していました。それは、

 {夢:仙人とゴキブリ}

トンネルの中に居るとゴキブリがいっぱい出てきた。
そこで彼女が「助けてぇ~」と叫んだら仙人が登場した。
そしてゴキブリを2,3匹残してあとは全部壁に穴を開けて逃がしてくれた。

 というものです。この夢から、彼女の内でかなり大掛かりな浄化作業が行われたのは確かですね。私とその男性クライアントは、彼女を男性二人で相手してあげたから、それで仙人が登場したんだろうね。などと悦に入って頷きあったものでした。彼女が見た夢の中のゴキブリとは、脳科学でいうところの老廃物アミロイドβに相当するといえでしょうか。この彼女の体験からして、心が開放され、感情が発散される。深いリラックスに至る。睡眠も深くなりそこで最後の仕上げが行われる。そしてその工程が夢の物語となってモニターできる。という流れなのがよくわかります。

 脳科学の実験で、アミロイドβの除去速度を、目覚めている時と眠っている時の脳で比較して測定した結果、アミロイドβの排除は睡眠中の脳のほうが、ずっと速いということがわかったようです。でも泣くという行為を含めて心理臨床面ではすでに大切な浄化作用とされている感情発散は脳科学ではどのように位置づけされるでしょうか。そのうちには脳科学で涙の中にもアミロイドβが含まれていたり、また別の老廃物が含まれているのが発見されるでしょうか。他にも脳内物質にはセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどもあるようです。それなどとの関係もふくめたその全貌の複雑さを思うと、その解明は果てしないようにも思えますが。

夢は心の体験を物語にして見せてくれる

 夢分析の第一人者であった河合隼雄氏はある講演会の中で「意識と無意識の間で、さまざまな物語が生まれてくる。その典型的なものは夢だと思っています」と述べています。たぶん、その典型的な物語である夢が、世にある昔話から文学作品などのさまざまな物語のルーツなのでしょう。たしかに夢は現実の体験を不思議に象徴化してうまく物語ってくれてると思います。

 脳科学でいろいろわかってくることは脳の治療に関して非常に役立つ発見となるでしょう。しかし考えてみれば私たちは太古からそれを夢モニターの発する物語として見ていたのです。脳科学による説明や脳画像などはわかりやすいかもしれませんが、夢モニターでそれを知るほうが、自分一人でチェックできて便利です。そのうえ夢は物語形式なので、サスペンスからホラー、ファンタジーまで盛りだくさんでずっとおもしろみがありますね。

 次に紹介する夢も、自分の体験したことを物語ってくれたというばかりでなく夢が物語を紡ぎだすことによって心をまとめあげ、仕上げをしてくれたのがよく納得できるものです。それは「私の父親が息をつまらせて死ぬ」という私が見た夢です。今から12年くらいくらい前に私は「とにかく悟ってみたい!」と思って禅修行に打ち込み、日常ちょっとでも暇があれば坐禅していました。そして細切れでしたが、丸一日で約九時間あまり座禅した次の朝にとても印象的な夢を見たのです。目覚めて床の中でその夢を思いだした時、ちょっとした気づきと共に体感的にとても不思議な感じが起こりました。

 {夢:お披露目会 、父が息をつまらせ死ぬ}

私がプロ野球チームの監督のようになるらしい。
左隣にもう一人同じような立場の人も立っている。
その奥のテーブル席には野球チームのオーナーらしき年寄りもいる。
新任監督のお披露目の場のよう。
私の側に父がいて、私の周りを驚くほどに忙しくグルグルまわり廻って、私の身なり、格好などについてあれこれ世話を焼く。
父親は終いには勢い余って、みずから肩をいからせ息を詰まらせ、ぶっ倒れて死んでしまう。

 朝、目覚めて直ぐにこの夢を振り返っていた時、ふと呼吸に注目したのです。するとこの時だけでしたがいつもと違う不思議な感じで、出る息が長く長く天井の方に向けて空中をズーッと伸びていったのです。不思議な気持ちよさでした。同時に「ああ、ちゃんとやらねば、ちゃんとやらねば、とずっとやってきたんだなあ」との思いが浮かびました。

 この夢を見なくとも、坐禅修行だけでも同様の気づき体験ができたかどうか検証することはできないわけですが。でも私はこの夢で「あぁそうだったんだなぁ、、」と深く頷けたのです。夢は「お前のやったことはこうなんだよ、そしてこうなってるよ」と物語って教えてくれたのです。

 この時の禅修行とその最中に見た夢とで私の強迫性的なこだわりからずいぶん抜け出すことができたように思います。坐禅修行と夢によって私は治療されたのです。私は完全主義的な「キチンと整えたい」との強迫性障害的なところがありました。四国の山村で農業を営んでいた父は手先が器用で、趣味と実用から始まった大工仕事がプロ並みとなり田舎の小さな建設会社で採用され大工としても働いていました。

 そんな几帳面でキッチリとした仕事をする父親からそれを受け継いだようです。坐禅中に、もう極限まで「ちゃんとやらねば、うまくやらねば」とこだわってました。まるで夢の中で忙しくグルグルまわり廻って私の身なりを気づかう父のようにそれをやり続けていたわけです。ところが逆説的に、それをやり続けたために疲れ果て、夢の父のように息を詰まらせ、ぶっ倒れてしまうような形でそれを手放すことになったわけです。

 ところで私の参禅したことのある曹洞宗系の道場では「只管打坐」「ただ坐れ」などというように工夫や努力などの計らいは戒められています。それを何度も聞いている私は、もちろん意識では充分わかっているつもりでした。それなのに坐禅していると、いつの間にか「これでいいのか、間違っているのではないか、もっと良いやり方がほかにあるのではないか」などと頭を使って計らい続け「ただ坐る」というあり方から程遠いことをやり続けていたのです。

 なぜ素直になって計らいを止めることができなかったのか。その理由は「うまく要領よくやろうとする」あり方は私の信条とまでなっていて、一体化(同一化)していたからでしょう。長い間に無意識の癖となってそれが普通となり、おまけにそれが自分となってしまうので容易なことでは気づくことができません。このようなあり方は内省的な心理療法やカウンセリングがなかなか進展しない大きな要因のひとつとなります。というかそもそもそこに向き合ったり取り組む気になれないのです。それが自分であって、それをなくすることは自分をなくする(死ぬ)ことになりかねないのですから。

 おもしろいことに、この私のまぬけな禅修行は曹洞宗とは相反するやり方の、臨済宗系の公案(禅問答)を用いる修行過程に添っていたのでした。臨済宗では例えば「隻手音声」というのがあって「両手を打てば音がするだろ。では片手の音はどうかそれを聞いてこい」などと理屈に合わない問を老師に課せられるのです。そう言われた修行者は真摯に最大限考え尽くすわけです。考えるだけ考え、悩むだけ悩むと最後はその考え悩む機能が働かなくなって止まってしまう。するとそこに答えの方自ら立ち上がってきて解決に至る。見性する。という修行方法なのです。

 私は悟りにはほど遠かったですが、それと知らないででも同じ過程を歩んだのでした。心のことは逆説が多いですが、これも間違った修行だったのに、かえってそれで良い修行ができたというちょっと苦笑気味の逆説です。

 このブログに取り上げた夢は、説明の都合上もあって典型的な夢がほとんどです。全ての夢がこのようにわかりやすいとは限りませんね。でも、そんなわけのわからない夢なのに、なぜか気になる場合があります。そんな時はそれを否定したり、呆れたりするだけでなく「たぶん夢なりには上手に表現しているのだろうから、きっとなにか意味があるはず」と思ってみましょう。そしてもう少しあれこれ検討してみてください。すると、いつもとは限りませんが、時に「ああ、そういうことかぁ」などと眼から鱗で発見があったり、納得したり、心がのびのび解放されたりするようなことが起こったりします。

★参照ページ:『リラクゼーションと自然治癒力』『夢は心の掃除から整理、整頓までしている』『夢は教えてくれる』『夢は全てを知っている



夢は心の掃除から整理、整頓までしている

 今回は夢が教えてくれるというより、夢が私たちを、そくしてくるとでもいうような場合があることをテーマにしました。

 近年になってますます睡眠の重要性がわかってきていますが、脳を含めた心身は日々の睡眠中に自然治癒力の働きによって、心身の調整作業を活発におこなっています。私たちの自我意識にとって、夢はそんな心身(主に脳)の調整作業の働きを、私たちにただモニター的に見せてくれるだけではないようです。どこかで私達がそれを受けとめやすくするというか、川におけるダムのような機能も持っているようです。

 そしてそんな日々の活動以外に、ある時、時が熟するのでしょうか。夢は心身の奥に封じ込められていた「トラウマなどのちょっと大きなものを、そろそろ整理しましょうよ」とか「ちょっとした大掛かりな掃除をするから、ちゃんと準備して受けとめてね」などと言ってくるのです。でもそれは思わせぶりな物語形式の夢表現をしてくるので、なんのことだかすぐにはよくわからないものですが。

 ところで、精神科医の中井久夫氏は、統合失調症の急性精神病状態のはじまりと終わりには悪夢をみることが非常に多いと述べています。といって悪夢を見たからそく統合失調症かと心配する必要はありません。統合失調症の臨界期のはじめに見る悪夢は通常の悪夢レベルのものではありません。 中井先生によると、ついに夢そのものが破裂し、自律神経系を巻き込んで全身が動揺し、最後に睡眠そのものが不可能になってしまうのが悪夢である。と述べているように夢自体が壊れてしまって機能しなくなった状態のもののようですから。

 それにしてもやはり、子供の頃のことにせよトラウマなどは大人になった私たちでも、そうそう簡単には受けとめかねる場合も多いわけです。いきなりさっさと大掃除などとはできないのです。やはりそれなりに、大掃除をするための準備と同じく、心の深層にしまっておいたものを受け止めるだけの準備や器が必要のようです。

 ですから、もし夢に興味を持って夢日記をつけたり、夢の自己分析をする場合には、根を詰めすぎないことをお勧めします。私は場面やストーリーがかなりハッキリしているような印象的な夢だけを書きとめています。自然治癒力(夢)が無意識の内容を一つにまとめて、整理できえたものが印象的な夢となるのだと思います。そんな夢と反対のよくわからない、まとまりのない夢は、夢が心のなかを整理しようとしている途中経過の夢といえそうです。信頼できる夢分析家と共に夢分析に取り組んでいるのでない限り、そんな夢は無理して掘りおこさず、熟成するまで時がかかるのだなと思ってそっとしておきましょう。

 ・・・ここでは、秘密保持のためにごく簡単な事例を趣旨は曲げない程度に変えて紹介します・・・もうかなり古い話ですが、夢と自律訓練法から過去のトラウマを消化できた男性がいました。カウンセリングで、何か狭い所に押し込められるような夢を時々みるという話をした後日、自宅で自律訓練法を行っている時に、その夢の嫌な感じと同じような感覚になったようです。それで「この感じは夢と同じだな」と注意を向けていたら突然、学生時代の思い出が蘇って来たとのことでした。その自律訓練中の不思議な体験の話から続いて、その学生時代の辛かった体験も話してくれ「その時は感じませんでしたが、自分で思っていた以上に辛かった所があったようです」と語り終えたのです。そして「何だか肩が軽くなってスッキリしました」と言って肩をぐりぐり動かし気持ちよさげでした。トラウマが解消されると身体的にもスッキリするところがあるようです。

 座禅に取り組み始めたら、受けとめられず恐怖症的になってる、避け続けていた事柄を最近夢によくみるようになったと言う人がいました。この人は座禅によって心の浄化作業がかなり進んできたのでしょう。自律訓練法に限らずヨーガや瞑想などからくる深いリラクゼーションがそれを呼び覚ます場合もあるわけです。心身が開放的になり、それによって自己治癒力のはたらきが活発化するところに、その動きは登場しやすくなるといえるでしょう。

 先の男性の場合は自律訓練法による深いリラクゼーションと、また私と話し合ったことで、そのトラウマを受けとめる準備が全て整ったのかもしれません。時が熟するなどといいましたが、やはりそのトラウマなどが受けとめかねる程度が強いにしたがって、開放作用がスムースに行えるように体制もしっかり整う必要があるわけです。心理療法の場では、そのためのカウンセリングや催眠療法やフォーカシングやその他のトラウマやストレスの流れをスムースにそくするための、さまざまな心理技法があります。でも何よりも信頼できるカウンセラーの存在があることで、そこは守られ受けとめられるためのより大きな器となるのです。それで一人ではなかなか解消できないレベルのものまで対処できるわけです。

 ところで夢にではなくても身体的な違和感があってその奥にトラウマがひそんでいる場合もあります。急激な人格変化が起こって開放され、のびのびやっていけるようになったは良かったけれど、胸の辺りのなんだか苦しい感じがとれない人がいました。カウンセリングで「何か小さいころに辛いことでもありましたかね」「そういえば長い間・・・してましたが、それでしょうか」などと話し合ったのです。そんな面接の直後に、そのカウンセリングで話題に出た地元の思い出の場所を通っていたら突然いっぱい泣けていろいろ思い出し、それで胸の苦しい違和感も解消したのでした。時は熟してたわけですが、私とのカウンセリングがその流れをそくすようなきっかけになったようですね。

 夢分析に限らずいえることですが、こちら側からそれを分析(意識側から知的に分析)していくのでなくて、ゲシュタルトセラピーのドリームワークみたくそのもの自体になって(語って)みたり、またはフォーカシング的に寄り添いながらも、そのもの自体が語りだすのではないかというような姿勢でいたりしていると、向こう側(夢の方)が勝手に展開しやすくなるというのがこの場合のコツといえます。

 もっと詳しい具体例を見てみます。秘密保持のこともあるので今回も手前味噌でなんですが私の夢からです。

 私がエンカウンターグループやその他のさまざまな心理技法をあさるように体験学習していた遙か三十五年近く前に、通いで四日間の「ゲシュタルトセラピーセミナー」が開催されていました。ゲシュタルトセラピー体験学習にはドリームワークという夢のセッションがあるというので、夢を記憶しておいたのです。といっても、放っておいても忘れることはないくらいにとても印象的な夢でした。

 {夢 : 母、丸いフォルクスワーゲン車、別れ}

母親が前の席で私が後ろの席に乗って、
旧式の丸っこいフォルスワーゲンのような車で走っている。
私は、走っている車から降りようとする。
ドアの鍵の部分は通常のより大きくガッチリできていた。
私はそのドアを開けて半分転がり落ちるように道に投げ出る。
車は母親を乗せていき「ああ、行ってしまった」
という感じ。

 こんな夢でしたがこの夢が言いたかったこと。ゲシュタルトセラピーのドリームワークをやってみて発見したそれには我ながらビックリでしたよ。ドリームワークでは見た夢の一部になったつもりで思いつくまま喋ってみる。という技法があります。でもセミナーのみんなの前でこの夢のワークをした時にはうまくいきませんでした。かなり心残りだったのでセミナーが終わって自分のアパートに帰ってきて、もう一度同じワークを自分一人でやってみたのです。

 部屋にあったクッションを何気なしに抱えながら次第に夢の中に入り込んで少したつと驚いたことに、まるで赤ちゃんが唇をとがらせて「チューチュウ」と母親の乳房を吸っているようにしたくなってしまったのです。一人とはいえかなりの恥ずかしさがありましたが、思い切ってずっと「チューチュウ」と唇をとがらせてやっていると、突然両肩から両腕にかけてかなりの衝撃で電気が走るような感じとともに、幼い頃「もっと母親の乳房を自分のものとしたかった!」「いっぱい、気が済むまでおっぱいを吸いたかった」という思いとそれに絡んだ強い感情が蘇ってきたのです。

 いい大人が、クッションを強く抱きしめ「チューチュウ、チューチュウ」やりながら「誰にも渡さない!二つとも僕のオッパイだ!、、」とか強い口調で言ったりしました。それもかなりの時間。一人だからできたのですねぇ。

 そういえば。私には五歳下の弟がいます。その弟が生まれた頃かもっと上の年齢だったかもしれませんが「もう赤ちゃんじゃあないのだから母親の乳房をあきらめねばならないんだ、男の子だし、我慢しなければ」と思ってその、甘えたくてたまらない欲求を抑え込んだことを思い出しました。衝撃的だった肩から腕にかけての電気の走るような感じは、欲求を我慢することによって固まり滞っていた身体が急に開放されたからでしょう。自分で思っている以上に身体で押さえ込んでいるもののようですね。4~6才の頃のものが30才になっても強く残っていたわけでホントに不思議でした。

 その後数年たってから、同門の先輩にこのドリームワークの体験をおもしろおかしく話したのでしたが、その先輩から「そのフォルスワーゲン(旧型)の車って乳房に似てるじゃん」と鋭く突っ込まれて大笑いしながらも、確かにと納得したのでした。そういえば河合隼雄先生は箱庭療法の勉強会で、箱庭の中に作られた丸い砂の山を、あれは乳房に見えるねなどと幾度かいってましたが。

 それにしても夢って凄いですね。うーむ。あなたも夢の中に「丸くもっこりしたもの」が登場したときはよくよく気をつましょうね。

★参照ページ:『夢と脳科学と物語の関係』『夢は教えてくれる』『夢は全てを知っている



夢は全てを知っている

夢は知っている

 横浜の中区で心理相談室を営んで30年以上になりますが、それに先立つ30才の頃に私は「魂のことをずっとやっていこう」と決心したことがあります。「私の人生は心の修行者でいこう。やってやるぞ!」と意気軒昂でした。岡本太郎の「危険な道をとるか、安全な道をとるか。迷ったら、危険な道をとる」という有名な言葉がありますが、それにも後押しされてそう決めたのでした。無謀にも。自分の器もよく知らないままに。

 ちょうどその頃、河合隼雄先生の書いた深層心理学の本を読んでいました。その本には「無意識はすごい世界である。自己実現の道はとても素晴らしいものではあるが、生易しいものではない大変な道でもある」などと書いてありました。でもやる気満々の私はそれを読んでも「ホウそんなものかね、私なら大丈夫」などと高をくくっていたのです。

 ところがその夜に見た夢は、凄いしんどい夢でした。

台風で増水しすごい濁流となっている広い川。
私はその川の中を向こう岸に渡ろうと必死に泳いでいる。
激しい流れの勢いに私はどんどん川下に押し流される。

 というものだったのです!ビックリして、その夢を見た直後に目覚めました。

 夢は、あまりにも甘く考えている私に業を煮やして「お前はわかってないなぁ。こうなるんだぞ」とばかりに伝えてきたのでした。 その当時はそんな夢を見ても私の「心のことをやっていきたい」という欲求は止まりませんでした。でもその夢から35年近くたってみても、確かにその通りだなぁ、とつくづく思います。 この歳になっても未だに、川下に押し流されながら濁流を泳いで渡っている感があるのです。はたして死ぬまでに向こう岸に泳ぎ着けるかしら。向こう岸に泳ぎ着いたときは死んだ時なのかも。それとも向こう岸にはつかなくてもしぶとく生き伸びて大海に着くという手もありますが。

自律訓練法とヨーガと夢の活性化

 私が夢日記をつけはじめたきっかけは40年ほど前に、自律訓練法の記録をつけ始めたメモ帳に夢を書きとめたのがはじまりです。私はその当時、自分で自分に暗示をかけるという自律訓練法を会得しようとしていました。でもうまくいきませんでした。頭でっかちで思考に頼りすぎていて、 自分の心身が感じ取っていることや発していることに目を向けることができなくなっていたからです。でもなんとか会得したいと、挫折してはまた気を取り直して試してみるというのを繰り返していました。

 そんな工夫の中で、ヨーガのアーサナをやってから自律訓練法をやるという方法を試みてみたのです。すると、夜寝る前にヨーガと自律訓練法をやってから眠りに入って、おおよそ三十分から一時間くらいたたった頃、今までにないビックリするような強烈な夢を見て目覚めたのです。「アレレ~これはなんだ」と、手元にあった自律訓練法の記録帳にその夢をメモったのでした。

 そのはじめて夢の記録には、自律訓練法をやる前にフロイトの本で夢のところを読んだりして、その後に自律訓練法をやって眠ったと記してあります。なんという無意識のノリの良さでしょう。まるで判で押したように、夢の本を読んだらそれをきっかけに今までにないほどに強烈な夢を見たわけです。それは思わず書きとめずにはいられないほどに私の人生ではかつてない強烈な夢だったのです。

 フロイトの精神分析にはそれほど興味が持てなかったのでそれっきりだったと思いますがその後、自律訓練法をやりながら眠ると強烈な夢を見てはビックリして目覚めてしまうことが時々起こるようになりました。そのやり方が私の心身にはマッチしていたようで、私の自己治癒力は夢にも現れるくらいに強く活性化されたのです。何時も、というわけではなかったですが、ヨーガ+自律訓練法をやりながら眠り込んでおおよそ三十分くらいたつと強烈な夢を見て目覚める。という定番パターンです。

 その頃の夢で今でも良く覚えているひとつはこんなのです。

自分が今寝ているベッドで、身体がでんぐり返りはじめる。
それからどんどんどこまでも沈んでいく。死ぬ感じ。
からだがジーンとなって、両手の指先から放電する。
その指先には赤黒く焦げた放電穴ができている。

 面白いことに、どこまでも沈んで行くことが死ぬことなのでは、と不安に思いながらも、どこかで気持ち良さを感じてもいました。

 自律訓練法では、訓練を行っていると脳の放電を必要とする活動部位が活性化されその結果、各種の反応が出現するとみなしています。そのことが書かれていた自律訓練法の本をその当時私が読んだことがあるかどうかは定かではありません。でも私の見た夢はまるでこの「脳の放電」そのままの夢でした。おもしろいことに夢分析の方では、フロイト派の夢分析を受ければフロイト心理学的な夢を見るし、ユング派の分析家にかかればユング心理学的な夢を見ると言われています。私は自律訓練法にかかったので自律訓練法(自律性解放)的な夢を見たといえるのでしょうねぇ。夢って不思議です。

 その後は印象的な夢を見て目覚めた時にすぐに書きとめたり、反復しておいて後で書きとめたりしてきたのです。おかげで私の人生「こんなはずじゃなかった」というのはなくなりました。大事なことは夢なりに、こうだよと教えてくれているので「やっぱりそうだったか」などと納まりがつくのです。そうなんです、私が間抜けでも夢先生が賢いので助けられて何とかやれているわけです。

 ところでその後に知ったのですが、ユング心理学の創始者カール・G・ユングはその著書「ユング自伝1」の中の無意識との対決の章に、フロイトと決別した後に無意識からわき起こってくるイメージに昂奮し激情した際にはヨーガの行を行い、自分を静めたとあります。そして自分が静まったらまたそのイメージや内的な声が語りかけてくるのを許して受け止め観察・対決していったようです。日常に出現してくる統合失調症の幻覚、幻聴に匹敵するような無意識からのビジョンやイメージなどをヨーガの行によってコントロールしながらそれに対決していったとは、やはり天才ユングにしてできる凄いことです。

 ユングはその本でインドの人たちはヨーガの行を多くの心の内容やイメージを完全に抹消するために行うのである。とも書いてあります。でも私がヨーガ+自律訓練法をやった結果は一見、まったくその逆の活性化ですよね。

 凡人の私は幸か不幸かユングのような天才の持つイメージ力・想像力や、それを受け止める力は全くなくて、大げさにいうと無意識とは切り離れたところの頭の中だけで(強迫性障害的に)生きていたのでした。ですから私の場合は無意識と切れかかっている、そこをまず回復する必要があったのです。ということは無意識(自己治癒力)の働きを活発化するためにヨーガを取り入れたことになりますね。最終的にはユングも言うように抹消に向かうわけですが、ヨーガが沈静化にも活性化にもどちらにも役立つとても優れたものだということなのでしょう。

 催眠療法から派生した心理技法である自律訓練法にしても、身体の柔軟性を追求していくヨー ガのアーサナ(体位法)にしてもその基本は心身の深いリラクゼーションにあります。ヨーガや自律訓練法でなくとも、深くリラックスする(緩む)ことで、心身の偏りや滞りが緩和されて心的エネルギーが(例えば脳のシナプスの流れなど)正しい道をのびのびスムースに流れやすくなるのです。例えば、足のかかとを入念にマッサージ棒でホグしたり、また他には頭をマッサージ棒で入念にホグしたりして寝たときにもかなり強烈な夢を見て目覚めたことがあります。

 夢は脳内の放電作用のモニター役だけではありません。私の生きる道を濁流の中を泳ぐ大変さで的確に例えて見せてくれたのは、夢が教えてくれるというより叱るつもりだったかもしれませんが。でも夢先生はかなり親切です。何かに真摯に取り組んでいると、そんな人を健気に思うのか、夢先生の対応も顕著になってきます。

 私の知り合いは、高校生の頃に数学の問題が解けずに諦めて寝たら、その問題が解けた感じの夢を見たのでした。それですぐに起き出して、その問題に再度取り組んでみたら今度はすらすらときれいに解けたそうです。大助かりですよね。あなたもそうなれるかも。 ぜひ夢に教えてもらいましょう。慣れるまではちょっと取っつきにくい先生ではありますが、無料で相談に乗ってくれますよ。

★参照ページ:『夢と脳科学と物語の関係』『夢は心の掃除から整理、整頓までしている』『夢は教えてくれる