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どうすれば心の悩みが解決できるのか カウンセリングや心理療法や禅から見えてくる心

個別の心理面接から見えてくる心の悩み解決の核心

 人の心の悩みは千差万別です。もちろんその解決に至る道も、人それぞれに千差万別です。しかしカウンセリングや心理療法の現場で個々のクライアントと悩みの解決に取り組んでいると、あるパターンのようなものが見えてきます。個々人の症状や問題は千差万別でもその背景に、人の心のあり方に共通した動きがあるのです。今回はそんな共通項目を取り上げて、心理的な問題の解決に至るための核心部分について述べてみます。それは大きくまとめると(心理的な側面において)人が生命体として元々生まれ持った(生命体としての)働きと、生まれ育っていく中で身につけたものとの関係性の問題となります。

 心の悩みを解決するためはどうすれば良いか。ということの答えとして一言で先に言ってしまうと「自分自身との関係をよりよいものに作り直す」ことです。心理的な問題の解決策はこれにつきると言って良いでしょう。自分との関係というと奇妙に聞こえるかもしれません。確かに自分は自分なのだから関係の持ちようがないと言えます。でも実際のところはよく「私の身体、私の感情」などと言い方をしますね。そんなふうに言えるということはすでに自分自身対身体や感情となっていてそことの関係がすでにあるということになります。

 自分自身との関係をよりよいものに作り直す。それは自己否定から自己肯定に変わる工夫ということもできます。これは既存にある単純なプラス思考とは大きく異なるものです。既存のプラス思考のテクニックにはすぐには気づけないマイナス思考が秘かに盲点となって含まれているので、本当の意味でのプラス思考になれません。ところで自己肯定には条件付きの肯定と、根拠のない(無条件の)の肯定があります。心の問題を乗り越えるにはこの無条件の肯定感を強める必要があるのです。

 自分と良い関係ができて、うまく付き合えるようになると他人ともうまく付き合えるようになるので一挙両得でもあります。精神科医中井久夫氏はフランスの文筆家ポール・ヴァレリーの言葉からこのあたりのことを「私は、このアフォリズムを広く解して、私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度であるというふうにした。ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない」などと言っています。しかしこれは意外に至難の技で、既存のプラス思考を当てはめたくらいでは歯が立ちません。目には見えない心には思い込みや勘違いが多発します。盲点に陥らないための注意とコツが必要なのです。

 このブログの最後の章には自分とよりよく通じ合うための心理テクニックを紹介してあります。これらの心理テクニックの中には心の悩みや問題を抱えていてもそれをちょっと横に置いて自分に向き合える人なら自分一人でできるものもあります。けれども、心が深く傷ついている場合や、自分が受け止めかねるトラウマなどの問題がある場合にはそれを一人で乗り越えることは至難の業です。そんな場合はやはり信頼できるカウンセラーや心理療法家に手伝ってもらう必要があります。

 まず、どうして無条件の自己肯定に取り組まなければならないのか、その理由を知って納得できなければはじまりませんね。そのために今の自分が一体どうなっているか、目には見えない心を解明して、そこからなぜ自分と通じあう必要があるかを理解していきましょう。

自分を知る!なぜ心の悩みは解決が難しいのか

 まず、人間関係の問題などが出てきたときに、人はそれを自分で考えて何とか解決しようとします。けれどもそれがうまくいかないことが多々あります。なぜ問題を乗り越えられないかといえば、それはストレスや神経症的な障害、また対人関係の悩みなどのような、心からくる問題を「自分でよく考えて答えを出そうとすること自体」がすでに間違った取り組みのきっかけになっているからです。実は人は自分で思っている以上に、自分の心に対して無知で、勘違いや間違った思い込みをしているのです。そんな立ち位置からでは、いくら良い考えを思いついたとしても、元が間違っているのですから必ず的外れに終わります。まずは目には見えない心がどうなっているか自分をよく知り、勘違いを正す必要があります。

 心は非常に早く動きます。例えば「癖になっている」とか「無意識的にやってしまった」などというような素早さです。特に「今」のありようについては、始まりもわからなければ「今」と言ったときには、もうその今は跡形もない。というくらいに素早いわけです。また微細でもあるので見逃しやすくもあります。おまけに、目に見えないことも重なるので、対処が適切にできないだけでなく、大きな勘違いをもってそれをとらえてしまいがちなのです。

よく考えて答えを出すという方法の弊害2つ!

 大前提としていえるのですが、この世界は人工的な都市やその他の建造物は別にして、宇宙が作り出したものであって、人間が作り出したものではありません。よって人間ではどうしようもないことがあって当然なのです。2500年前にお釈迦さんが悟りを開いた時に、最初に説いた「四諦ーしたい」という説法の中に「四苦ーしく」というのがあります。生まれる、年をとる、病気になる、死んでしまうことは人の思うようにならない(苦)のだと明言しています。

 ところで人間は古代から知恵をもって言葉の伝達機能を発達させたり、道具を作り出すなど、いろいろな工夫によって生き延びてきました。人間には過酷な地球環境を支配、コントロールしてきた歴史があります。特に西洋から発した近代科学を駆使した便利な人間社会の発達には目を見張るものがあります。病気やケガを治したりする医療も驚くほどの発達をとげてきました。それらによって平均寿命は格段に高くなってきました。先に述べた人間の思うようにならない生老病死を多少なりとも克服なしえたともいえるでしょう。

 その素晴らしい人間の英知を基礎に人間を教育する学校において私たちは「よく考えて答えを出しましょう」と言われて育ってきました。そのせいで何事に関してもまず頭を使ってうまくやろうとする癖があたりまえとなっています。要するに人は何かあったら人間の知恵で何とかしようとするのです。お釈迦さんが説いたのとは真逆に、この世に人間の理性を持ってすれば解決できないことはないとまで思い込んでいる人も数多くいます。確かに科学の未来には、もしかしたら生老病死もすべてコントロールできるようになりそうな勢いさえうかがえます。しかしこのような情勢の過程で人類は大きな勘違いをするようになったのです。

 その勘違いのなかで特に間違ってしまったのは、機械を取り扱うようなロジックや思考方法を機械ではない人間の心の問題を解決するために用いようとしたことです。法律や約束などを守る話とは別に、科学的合理的な手法で自分の心をコントロールしようとするのは間違っています。自分の頭で生命体としての心身を、意識的にコントロールしようとすることは、例えれば、放っておいても勝手に自動車運転(生命活動)をしている車に乗っていることに気づかずに、ハンドルを切ったりブレーキを踏んだりして自分で運転しているつもりでいる状態です。生命体が元々もっている運転手と意識的な自分との二人の運転手が一つの身体という車を運転していることになっているのです。「船頭多くして船山に上る」ということわざと同じです。

 もちろん「よく考えてものごとを解決しようとする」ことはとても大切なことです。ここはぜひ科学的手法にこだわらないで、もっともっとよく考えて知性を洗練させて、生命体としての自分自身とより良い関係が持てるように工夫せねばなりません。

 なぜ科学的(合理的)思考方法を心に当てはめると良くないのか。細かい心理分析が続くので疲れるかもしれませんが、人の心身の動きに沿ってより詳しくたどっておきましょう。まず、考えるということは悩みの中に入り込むことなので、悩み自体が膨らみがちです。その結果、問題に圧倒されたり振り回されたりするようにもなります。それを抱え続ける分、リラックスすることができなくなって自然治癒力がうまく働かなくなります。また頭がいろいろ考えて動く分、相反する考えを思いつくので、それらが対立して葛藤が増えてしまいます。身体は常に一つのことしかできませんから葛藤がおこると身動きとれなくなります。

 身体は疲れていても頭だけは動き続けたりします。また頭でイメージしたことは大なり小なり身体にすぐ影響します。だから身体も大変です。一方では休息したいのに、頭の思いに準じて活動せねばならないからです。眠るに眠れなくもなります。身体のペースとズレてしまったのです。このように「なぜリラックス出来ないかの根本的な理由は、頭(思考)が止まらない(心の切り替えができない)からです」さまざまな神経症的な症状や心理的な問題の背景に、このような、休みたいけど心の思うように頑張らなければならない身体と、動きまわる頭という引き裂かれた構図があるのです。

 頭脳中心のあり方にはもう一つ大きな欠点があります。それは「こうあるべきと考えた理想的なあり方が一番大事とされるために、ありのままの部分に対して否定的となることです」人は生まれた環境に適応して生きていかねばなりません。環境に適応するようにと、ありのままのあり方を自己コントロールによって変じていこうとします。物心がつくとまず家庭内のあり方(価値観)に適応せねばならず、自分自身内で理想の自分と、それに届かないダメな自分を比べて自己否定が生まれます。また自分と他人も比べて評価し、そこでも自己否定が生まれます。学校や社会の枠組みは条件付きのことがほとんどのために、それにはまりきれない自分はダメとなるのです。 心の悩みで苦しんでいる人の多くが社会の枠組みに適応できなかった自分に価値がないと思い込んでしまうのです。時にそれは自分を責める動きとなります。また、ありのままの自分にはまったく価値がないと結論するまでに至るのです。

 理性で考えコントロールすべきであるという価値観が強いほどに必然的に、ありのままの部分を否定することになりがちです。そうなると、良くないと思える自分を出さないように、常に自分を監視下においてコントロールしなくてはならなくなるのです。外に出たら常に緊張していなければならず、人間ならあって当たり前の、疲れや弱みを出すこともできなくなります。非常に疲れる生き方になります。

上記の二つを変化させるための具体的な心理技法

 まず「なぜリラックス出来ないかの根本的な理由は、頭(思考)が止まらない、心の切り替えができない」ということですから、まず、頭脳中心に動き回るを部分を止める(休ませる)工夫が必要です。そのとらわれから脱して全体を客観しできるようになって、自分の問題や内面のさまざまな局面と適切な間をとれるように再調整します。次に「ありのままの部分に対して否定的」となっているのを修復したり、今後、ありのままの部分を自己否定しないようになるためのあり方を会得します。その際に気をつけることは否定的な動きや考えが出てきてもそれを否定せず認めることです。

 以下に具体的な心理技法とその特徴を簡単に解説してみました。興味のある技法など、より詳しく知りたい方はリンク先をご覧ください。

 フォーカシングは、自分の内面や身体を深く信頼して見守ったり、寄り添ったりできるようになる心理技法です。「見守る、寄り添う」は良い関係を保つためのの理想的あり方のひとつです。またフォーカシングには、心の一部分だけに一体化せず、そこから出て距離をもって見守ったり、さまざまな要素や側面のすべてを、そのままにときには肯定的に見るようになるためのトレーニングもあります。自分のどんな要素にも臨機応変に、それぞれ適切な距離感をとることができるようになるので、偏った考えや一時的な感情に振り回されなくなります。

 インナーセルフ療法はいろんな思いや感情をイメージ化、人格化して自分の内面と対話形式をとることで、今まで否定していたり、無視していたり、生きてこなかった側面と通じ合えるようになります。また、インナーセルフ療法の技法によって自分で自分を癒やせるようにもなります。

 カウンセリングで信頼できるカウンセラーに肯定的に聞いてもらうことで深い自己否定からも抜け出せます。カウンセラーがクライアントの気持ちをわかってブレずに寄り添って話を聞いていると、その支えの中でクライアントは、それまで否定したり無視していたり、今まで生きてこなかった側面を再検討できます。カウンセリングで話をするだけというのはちょっと地味な感じもします。はたしてそれだけで良くなるのかと疑問を持つ人もいます。けれども本当に力量のあるカウンセラーに話を聞いてもらっていると最終的には驚くほどの素敵な変化が起こったりするのです。カウンセリングは心理療法において「カウンセリングにはじまってカウンセリングに終わる」と言えるくらいに奥が深いのです。

 催眠療法で自己解放したあり方を体感することで、理性でコントロールしなくとも身体がいかに上手に何事にも対処できるかがわかります。また、催眠療法の中でそんなあり方のトレーニングを重ねれば、楽でいてうまくいくやり方が会得できます。そのようにして自分の心身を信頼できるようになると、フォーカシングの、距離感を持って見守るあり方とは正反対であるけれど、ものごとを成し遂げるには必須な能力といえる「我を忘れて物事に没頭する」コツも会得できます。

 マインドフルネスがテーマとしている「今この瞬間の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れる」というあり方を、瞑想などでトレーニングしていると、フォーカシングを同じく、思考のループを止めることができます。また問題へのとらわれもなくなっていきます。

 坐禅瞑想を重ねることで事実と想像や観念との区別をつけられるようになると、マイナス思考に振り回されなくなります。曹洞禅宗の只管打坐といわれる坐法を続けることによって、肩の力の抜けた等身大の楽な生き方が深まっていきます。また自我へのこだわりを抜けて、あるがままのあり方を体得することで、悩みことが極端に少なくなります。

★参考ページ:『心理療法


カウンセリングで本当に良くなるの?

話をするだけでなぜ良くなるのか

 話をするだけでは悩みは解決しないのでは、と思われる方は少なくはありません。でもそんな人でも、友達や誰かに自分の話をピッタリわかってもらった時、思わず自分の声が弾み、その後の話に勢いがついてくることを、それと知らずにでも経験したことがあるはずです。その時に心が解放されて、のびのびエネルギーが動きはじめたのです。

 信頼できるカウンセラーにだと話を聞いてもらった時『なるほど』と言ってもらうだけで、今まで不安定だった心がスッとおさまり、落ちついて来たり楽になったりします。このような事からも、カウンセリングがかなり役に立ちそうに思えてきます。

 人にわかって(共感して)もらうことはとても心地よく良いものです。安心感で包まれホッとします。そして立ち向かう勇気が出てきたりもします。共感はすごいパワーを秘めているのです。それが常に基本にあるのがほんとうのカウンセリングといえるでしょう。

 もちろん人の心はなかなか、わからないものです。でもクライエントの身になって、なんとかそれをわかろうと努めるのがカウンセラーの役目です。かといって心あるカウンセラーなら無理矢理人の心に入り込もうとはしません。クライエントの方も話したくないことを無理に話す必要もありません。わかってもらったからこそ、そこで自然に次へと話したくなったり、深まっていったりします。そうして心の整理が進むのです。

 このようにわかってもらえる人(信頼できるカウンセラー)とともに一緒に取り組んでいくところから、心的パワーも強まり、悩みや問題を解決することができるようになっていきます。

 現代ではさまざまな心理技法がありすぎる位にあります。でもそのどれもが治療者側のクライアントへの共感しようとする態度を強調しています。それがあってこそ、その技法の持つ治癒力を最大限発揮できるからなのです。

 心の専門家にカウンセリングで話しを聞いてもらうということは慣れないうちはかなり勇気のいることです。実際にはそんなことはないのですが、面接の前には自分のことが見抜かれてしまうのでは。などと不安になる場合もあります。実際に会って話してみたらそんな心配はどこかに行ってしまって楽に話せるものです。

カウンセリングといっても色々あるそのやり方

 カウンセリングという言葉は、心理療法とは直接に関係のないような、例えば美容関係の案内文の中にも「カウンセリングを行ってから・・・」などと使われていたりします。ですから一口に「カウンセリング」といっても中身は全然違っています。 心の治療分野に限っても様々な派があって、同じカウンセリングといっても、その手法はずいぶんと違っているのです。

 霊感的なものをクライアントの問題解決に用いるというスピリチュアル・カウンセラーもいますね。 また同じ派内においても心理療法家個人個人でそのやり方はかなり違ってきたりもします。

 当相談室で用いている「カウンセリング」は、米国のC.R.ロジャーズの始めた「来談者中心療法とか、パーソンセンタードアプローチ」などと呼ばれる、援助技法を手本としたものです。カール・ロジャーズを手本としたカウンセリングではカウンセラーは聞き役一方になることはかなり多いです。それはカールロジャーズの提唱したテクニック上からそうなる場合もあれば、よくよくクライアントの話を聞いているとそうそう簡単にアドバイスができなくなることも多くなるので、そうなるのもあるわけです。

 でもカウンセラーが聞き役一方でも、本当に気持ちをわかってないで上辺だけで聞いているなら、真剣に話してるクライアントは直感で、あ、この先生はわかってないな、と感じられたり、自然にもう話す気持ちが失われてしまいます。

身体から変化していく

 普通はクライアントはしばらく話しをすれば治療者の良いアドバイスを聞きたくなります。ロジャーズの提唱したやり方にのっとっていない治療者だとそれに対してアドバイスをしてくるか、またはその治療者の依拠している心理技法を用いて解決することを勧めてくることが多いでしょう。

 でもアドバイスというものはどうしても知的になりがちです。カウンセラーから良いアドバイスを聞いてクライアントがそれを用いて良くなったとすれば、それはよほどクライアントに現状を変えていく力があったからか、かなり簡単な問題だったからです。アドバイスが役に立たないからこそカウンセリングをするのだといえそうですよ。

 機械を動かすのなら正しい取り扱い方の載っているマニュアルがあります。でも心の問題はそのような頭で操作するところとは別にあって、その解決も不思議に頭で思い描いていたのとは別の所からもたらされるのです。そのようなハウツウ的なものでないカウンセリングや心理療法での本当の効果は頭(理性)より身体から先に現れてくると言えます。意識で治った!などと思っていても身体は全く変わっていない場合があるのです。

 例えば良くあるのは、カウンセリングを受けていたら、本人はそれほど自覚がないままに前より周りに積極的に働きかけることが多くなっていたりすることです。良い意味でお喋りになったりしている場合もあります。もっと話しするようしましょうなどと、意識してそうなっていったのではありません。自然に身体から変化してそうなっていくのです。

頭で学ぶのではないカウンセリング

 カウンセリングでは話し合いの中でクライアントが自分の感情をより正直に率直に出せるようになることが良くなっていくための基本の作業となります。もちろんその感情や情動は無理やりにでも出せば良いというものではなくて、それはクライアントとカウンセラーの二人で受け止め消化できる範囲でなくてはなりません。

 そのような点から、一番シンプルなカウンセリングの効果としてよくあるのが「話を聞いてもらいたくて来た。そして話してわかってもらったらスッキリしました」とサッパリすることです。自分の内面を深く掘り下げることなどはそれほどしないでも当面の心の苦しさが解消することでスッキリして「また困ったら来ます」などと一回の面接だけで済む人もいるのです。

 ところがそうでなくて「どうしたら良いか・・」などと問題を解決しようとして「頭で考える」方向に話しが向かってしまう場合があります。頭で考える作業も必要でとても大切なものです。でもそれはカウンセリングの本流とは違います。もちろんカウンセリング場面でも理性でシッカリと考え理解することがとても役立つ場合はたくさんあります。でも頭ばかりで考えてしまうと「~すべきだが、わかってもできない」などと感情や体感と離れて堂々巡りになってしまいがちです。

 他の心理療法機関で心理療法を受けていたというクライアントがよく来談されます。その中で私もよく知らないような難しい心理学用語を使って話しをされる方がいます。心理学用語は心の状態を表すのにピッタリの場合も確かにあるわけで、その言葉によって気づきが促進される場合もあります。けれどもそれとは違って知識だけが一人歩きしているふうな、実際の体験や感情とはほど遠いような話しっぷりなのです。

 これはその方の相手をしたカウンセラーに問題があります。カウンセリングや心理面接で話し合うさいに、理屈中心で直そうとしたのでしょう。頭だけが治ってしまったといえるかも。

 心理面接場面では、クライアントの本音や、シックリくるこないなどの「体感的な納得感」を大切にします。それによって上滑りにならない心理療法が進められるからです。それを怠ったのでしょうね。たぶん治療者が頭で学んだだけで心理療法を行っているのかも。または元々頭でっかちで生きている人だったのかも知れません。

 カウンセラーが、豊富な心理学の知識でクライアントの相手を(例えば心理分析や解釈などを)することがカウンセラーの主な仕事であると勘違いしている危険性が考えられます。心理面接場面でカウンセラーがそのような接し方を中心としていいると、熱心なクライアントほど同じように知的になろうとしてしまいます。その結果、こころとからだとがそれまで以上に複雑に乖離してしまうのです。

 またカウンセラーが「こうすればよい」とアドバイスをした場合でもクライアントが腹から納得できるものでなければ、実行する気になりませんから無駄なアドバイスに終わります。しかしもっと良くないのは、アドバイスされた言葉のようにしなければと自分のペースを無視してまで頑張ってしまうことです。

 この危険性の本質は、元々人が苦悩してしまう根本の原因でもある『心とからだがバラバラになって一体になれなくなってしまっている』こと。言いかえると知性で学習したことと、からだや心の深いところとが切れてしまって引き起こされる問題と同じなのです。

 とても皮肉なことですが、実は心と身体がバラバラになってしまっているがために悩み苦しんでいたわけなのに、その治療に行ったら、それに上乗せしてより複雑に心と身体をバラバラにされてしまう場合があるということです。

 悩んでいる人が今後をより良く生きていくようになるために、本物のカウンセリング(心理療法)ではクライアントが今まで顧みなかった自身の「こころやからだ」と良い関係が持てるように、そこと繋がることを目標にします。そのためには、すぐに治そうなどと、自分をコントロールしようとすることは一旦置きます。そして自分の心と身体をもっとよくわかろう、感じとろうとするのです。不思議なことにその方が急がば回れで、かえって早く良くなるのです。

カウンセラーはなぜ聴くばかりになるのか

 もう30年以上前の話ですが、催眠教室に勤め始めて催眠療法士としてクライアントに接するようになった私は、催眠療法だけでは心理療法として不十分なところがあるのがわかったのです。そこをなんとか克服しなければ、と模索する中でこれだ!と見つけたのがユング分析心理学派の河合隼雄氏の著書でした。

 その『カウンセリングの実際問題』という河合先生の本はその内容のどれもが素晴らしくて、その後私が本格的な心理療法の世界に入っていくきっかけになったのです。タイトルに、カウンセリングの実際問題とあるようにこの本は理論について書かれたものではありません。そしておもしろいことに日本で最初のユング派分析家であった河合隼雄氏のおはこであるユング心理学については全く触れていないのです。

 その当時ロジャーズ派のカウンセリングは全国規模で流行り、様々な人が学んでカウンセリングを実践するようになっていました。でも、カウンセリングを学ぶにあたって、形や理屈から入って学んでいくためか、実践でなかなか役立たないカウンセリングに終始してしまう人が多かったのでしょう。たぶん河合先生はそんな人たちにもっと実力をつけてもらいたいためもあってこの本を書いたように思えます。心理療法の先駆けとして、とにかく実際にクライアントに役立つことを一番に書かれた本です。

 私は河合隼雄氏の『カウンセリング実際問題』という著書に接して、二律背反の考え方(ものの見方)を学びました。そして物事をハッキリ断定できないで、弱いと思いこんでいた自分をかなり救えたと同時に、それまでより広い視野から物事を見れるようになったのでした。

 一面的な考え方やステレオタイプ的なものの見方に対して、うまく言葉にできませんでした。でも、どうもシックリこないなぁ、などと感じていたのです。例えば「テレビなどでは曖昧な言い方は視聴者受けしないので良くない。コメントは断定的に言う方が良い」という意見を聞いたことがあります。確かに時間の制限の中で場面を切り取っていくテレビ的には、ジックリ話しを煮詰めていく時間がないので単純なハッキリ断定した物言いが一見わかりやすいし、そのように表現する人物がまかり通ってもいますね。

 ところが『カウンセリングの実際問題』には、再三再四、二律背反性に関して書かれてあって「カウンセリングは二律背反性が多いのだから単純に物事を割り切って考えてしまうと失敗することが多い」といっているのです。そうなんです、カウンセリングでは断定的にものが言えない方が普通だったのです。

 傾聴などというように、正当なカウンセリングではカウンセラーは話を聞くだけに終始することが多く、断定的なことはほとんど言わないわけです。それには「本当にクライアントの気持ちが分かれば分かるほどに簡単にはものが言えなくなる」という深い理由があったのです。また可能性をより多く考えられるほどに、ひとつにハッキリ決めることもできなくなるのでさらに言えなくなるわけです。これは葛藤だらけ状態の中に身を置くということです。

 河合先生は他の本の中で「その子(クライアント)のいる世界の内側にとどまるということが大切」とも言っています。そこからすると、例えば沈黙に耐えられなくなった時など、クライアントの世界に寄り添うためにカウンセラーが話しをすることは必要なことではあります。でも下手なカウンセラーほど自分が早く了解して安心したいために自ら考えをつくり出してそれを話してしまうのです。

 同じ話をするにしてもそこには大きな違いがあります。クライアントの世界にとどまるための話は端的で短い場合がほとんどです。カウンセラー側が早く安心したくなっている場合の話は、理屈中心だったり、お説教ぽくなったりなど、話が長くなる傾向があります。

★参照ページ:『心理療法』『心の悩みや問題を乗り越えて行く道の地図と心理療法の実際


心の悩みや問題を解決する道の地図と心理療法の実際

はじめに

 このページは心理療法やカウンセリングに興味はあっても、まだ実際に体験したことがない方や、カウンセリングや心理療法に通ってはいるが、今一つシックリこない方。また過去にカウンセリングやその他の心理療法を受けたがあまり良い結果が得られなかった方などに読んでもらえたら、と思って書き出しました。でもかなり長文になってしまったので目次をつけました。

 目次をクリックすればその項目に飛びますので、良かったら興味があるテーマからすぐ読むこともできます。

1,心理療法と心が旅する道の地図
2,心の問題や心からくる症状はどのようにしてよくなって行くのか
3,一面的な解決策の問題点
4,理性で自分をコントロールするというやり方の問題点
5,あちらも立てて、こちらも立てる 多面的なあり方

1,心理療法と心が旅する道の地図

 心理的な症状や問題に悩まされている状況は、知らない土地で道に迷ってしまっている場合と似ています。道に迷った時に地図があれば大いに助かります。そこで心からくる悩みや問題を乗り越えたいと願っている方に、参考になる地図のようなものを作ってみようと思いつきました。目的地にたどり着くために地図を参考にするのと同じように、自分がどのように変化していけばよいかを把握できれば、心からくる問題解決の一助となるはずです。

 心からくる悩みや問題に苦しむ時、そのどうしてよいかわからない大変さは、知らない土地で道に迷うよりさらに大変かもしれません。なぜかというと、心が目に見えないものであることで道に迷った上に、暗闇の中を暗中模索で歩いているのに等しくなるからです。うつで苦しんでいたクライアントで「包帯を巻いている人がうらやましい」と語った人がいました。包帯を巻いていれば一目瞭然でその大変さが他の人にも伝わります。けれども心理的なものは、とても苦しく不安ではあっても自分自身でいったいどうなっているかよくわかりません。そのため、それを家族や親しい人にさえ、伝えたり解ってもらうことが至難のこととなるのです。何事も、解決に向かう道のりは、常に暗中模索から始まるものであることには違いないでしょうけれども。

 どうしてよいかわからくて行き詰ってカウンセリングに来談されたクライアントが、その解決の道を歩まれる過程は、それぞれに独特で一つとして同じものはありません。それもあってか、他の人が、こうしてうまく悩みを乗り越えたというやり方が、他の人の解決策としては役立たない場合が多いのです。おまけにこのテーマの後半で述べることになりますが、心の問題には二律背反が常に付きまとうためにハウツウ的な解決策がなかなか通用しないのです。

 アドバイスが役立たない理由は他にもあります。例えばよくあるのが親が子にするアドバイスがほとんど役立だたないことです。 時代の変化の影響で昔との価値観のギャップは大きく違っているのでほとんど役立たないといっていいでしょう。他にも友達や会社の先輩などに悩みを相談して「そんな場合は私だったらこうするな」とか「私はこうして解決したよ」などとアドバイスをもらっても、なかなかその通りには行かないし、役立たない場合が多いものです。それは人それぞれ、その人を支えとする価値観を持って生きているために、その価値観をなくしかねないものは簡単に取り入れるわけにはいかないからです。

 また人は、ある価値観を持って頑張って生きてきた場合、必ずその価値観の器では受け止めかねるような、ギリギリの感情や情動を体験したり、それらを受け止めかねて、心の奥にしまいこんでおかねばならなかったりします。そんな時には、いくら他に良い考え方や価値観があっても、それを新たに受け入れる余地はないのです。今までの自分の生きざまにまつわるさまざまな感情や、受け止めかねていた、不安や、怒り、悲しみなどの感情が表出され、それらを他者にちゃんと受け止められて、整理、解消がなされることによってはじめて新たなものを取り入れらるようになるのです。

 そんな自分の存在を根底から揺るがしかねない変化は、人によって、またタイミングによっても違ってきます。カウンセリングの場においてさへも、かなりの大仕事です。信頼できるカウンセラーとの協力体制によってようやくそれが可能になる場合も少なくありません。そんな心の作業が本格的な心理療法といえるでしょう。

 ところで先に価値観の器と述べましたが、物事を受け止めるさいに、受け止める側に強い思い込みや観念の偏りがあると、柔軟に物事を受け止めにくくなります。これの一番大きいのが先に述べてきた、人それぞれが持つ価値観です。この部分が変化すると、今まで認めることができなかったり受け止めきれなかった様々な感情や価値観を統合していくことが可能となったりもします。

 今回私のお勧めしたい心の地図はこの辺りを切り口にしています。そのキーワードは「価値観の変容」「心の成長」「一面的な思考から多面的な思考への転換」です。近年ビジネス界で言われ始めているマインドセット的な思考への転換です。マインドセットというのは「人の意識や心理状態は一面的なとらえ方はできず、多面的に見てセットしたものがマインドの全体像を表している」というところから来ているようです。

 この地図は実は最近流行ってきた認知行動療法の認知に当たる部分と重なります。ただ実際の認知行動療法のように、思考の方から考え方を指示的に変えようとはしません。もちろんクライアントがそこに気づき、自ずから思考が変化して解決に向かうことは大歓迎ですが。

 地図はあくまでも地図なので、それを見ているだけではいつまでたっても目的地に着きません。目的地に達するには地図ではない、山あり谷あり雨、風ありの、実際の地を歩んでいかねばなりませんね。それと似ていると思うのですが、心理療法の実際では心の奥にしまってあった不安や怒りや悲しみなどの感情を解放することによって、一時的に心身の大きな揺らぎが起こる場合があるのです。それに取り組むのは慎重にも慎重でなければなりません。またそのエネルギーを受け止め象徴化していくという作業は根気もいるものです。そんなふうな理屈通りにはいかない実体験の中を、問題解決という目的地まで歩んでいかねばならないのです。

 旅をするさいには地図を見て、目的地までの道のりをまず頭で理解し目安をつけてから出発します。また、旅の途中で方向喪失感に至った時には、自分のいる所と目的地を再確認するために地図を役立たせます。それと同じに、目に見えないことから倍増する心の不安や、暗中模索の状態から少しでも抜け出て、心の旅(本格的な心理療法)を歩んでいけるように。そんなふうに、この心の歩む道の地図を役立たせてもらえたら、と願っています。

2,心の問題や心からくる症状はどのようにしてよくなって行くのか

 心からくる問題や症状が解消する過程をまず大枠から見ていくと「環境を変える」か「自分を変える」かの二つに大別できます。劣悪な環境にあることで心の悩みや症状が立ち起こってくるのは間違いありません。例えば、うつ病で休職していて、良くなったので仕事に復帰したらまた再発してしまった。という場合は、職場という環境にうつにさせる要素が大きくあることは確かで、職場を変わったらスッキリ良くなったという人はもちろん多いわけです。

 けれどもそれだけでなく、当人の職場などでの人間関係の築き方に無理がある場合もあって、そんな場合は部署を変えたり、仕事自体を変えてもまたうつになる可能性があります。うつは再発を繰り返しやすくて、良くはなってはまたひどく落ち込んで、と悪循環に嵌ってしまって抜け出せないで苦労している人が多い症状でもあります。うつ状態は心と身体が度を越して疲れた様子ですから、心身共に深く休息すれば必ず回復します。投薬も心身の深い休息を誘うきっかけのためのものといえるでしょう。けれども、無理な人間関係の築き方などのような、そうなりやすい癖というか、そうなりやすい心のあり方の部分が変化していないままだと再発してしまう可能性は高いのです。そこで「自分を変える」必要が出てきます。

 うつ以外の症状を持った方でも同じに、薬だけでは本当の解決にならないと考えて心理相談室に来談される方がいます。カウンセリングなどで、投薬とはまた別に「自分を変える」ことに取り組むわけです。その取り組み方は、個々人でそれぞれに違っていて千差万別ですが、あえて分けてみると、これも二つになります。一つはできるだけ「心身ともに深く休息できるようになる」ことともう一つは「そうなりやすい自分のあり方の部分を変える」ことです。この二つができれば再発は繰り返さないでやって行けるようになります。…心理療法は自分を変えるためにあるわけですが、その中にはもちろん自ら環境を変えていく力である、交渉力を育てることも含まれています…

 良くなっていく順番からいけば、まずは「前より深く眠れる」とか「心もホッと休まるようになってきた」などというようになる必要があります。悩んでいる最中は「とにかく、この問題が解決したらゆっくり休める」と、休むより先に問題解決をと思っているのが普通です。でも疲れが強すぎると、身体も脳も十分働かないので、空回りや悪循環から抜け出せることに取り組む力がでませんね。それに、より悪化しないためにも、いったん身体をリセット、リフレッシュすることは必要です。深い安らぎやリラクゼーションは心身の健康にとって必須のものです。ここでは割愛しますが、もう一つの方のホムペに『リラクゼーションと自然治癒力』というテーマのページがありますのでよかったら参考になさってみてください。

 そして休息して余裕ができてから、どのようにあれば、そうならないで良い感じでやっていけるようになるのかを、考えたり工夫していけば良いでしょう。しかし事はそれほどスムースにはいきません。まずちょっと休憩することができたなら、そこからあえて今ある自分の存在の根幹を揺るがしかねないような心の大仕事には、取り組む気がなくなる場合もあるのです。カウンセリングの中で、この問題は根が深すぎることに気づいて、とりあえず安定したところで終了された方もいます。基本的にはクライアントの自己治癒力の働きと「時が熟する」などというような流れに沿うことが大切ですから、それはそれで良いのかもしれません。

 けれども「窮すれば変ず、変ずれば通ず」という言葉があるように、今の自分が、問題や症状に切羽詰まって必死だからこそ、今までの在り方を変えようと動きやすいのです。いよいよ追いつまって来談されたクライアントで、カウンセリングの中でそれまでの逃げの気持から「やるだけはやってみよう」などと、立ち向かう気持ちに切り替わって何とかなった人は意外に多いです。

 自分に向き合い、本格的に変化させようとする時には、ユング心理学などで「死と再生」ともいわれるような象徴的な心の体験をする場合もあります。しかし本格的な心理療法にはやはり、それを受け止め処理できるだけの器がなくてははじまりません。それは心理療法の場では、カウンセラーとクライアントの相性にもよりますが、基本的には心理療法家やカウンセラーの力量いかんにかかってくるところが大きいのです。

 実際の心理面接やカウンセリングの場では逐一このように型にはめて取り組むものでもありません。どんな良いと言われる方法でも、それによって当人の自然治癒力が良く働くようにならなければそれは役立たないからです。 時には初回の心理面接をしただけで、その後に眠気がどっと出て一日中寝ていた。などと、身体がかってに深い休息に入るようなこともあります。また、カウンセラーに話を聞いてもらうとスッキリするので、只それだけを続けていたら、いつの間にか良くなっていた。ということもあります。 カウンセラーにわかってもらったことによって今までの緊張が急にほぐれたり、心が次第に開放的になっていくことなどで、知らぬ間に自然治癒力が良く働くようになって良くなっていったといえるでしょう。

3,一面的な解決策の問題点

 実際にカウンセリングや心理療法などを受けようとする時に気をつけねばならないのは、レベルの高いカウンセリングとレベルの低いカウンセリングがあることです。例えば「~すればよい」などのアドバイス的な解決策は、一見わかりやすく、専門家の意見だと思えば説得力がありそうに見えます。でもこれは低レベルの解決策となる場合が多いのです。「もっと自己主張をした方が良い」とのアドバイスを指示されたクライアントがそれを実行するとします。もちろんそれでうまくいく場合もあります。けれどもかえって反発を招いて、当人の人間関係をこじらしてしまう場合も起こりえますね。

 また素直なクライアントの中には、常にアドバイスされたやり方でやり通さねばと頑張ってしまう人もいます。すると柔軟性がなくなるために自分自身のペースとズレが生じてきて、ここでもうまくいかなくなります。このように書き出してみるとよくわかる話ですが、カウンセラーにアドバイスされてそれでしばらくやってみるが結局はうまくいかなくて、また他のアドバイスをもらって、などというようなパターンを繰り返しているカウンセリングも実際あるのです。特にカリスマ性のある権威的な心理療法家や治療者との関係において、本当には役立っていないこのような悪循環がよく起こりがちです。

 極端化した例えですが、今までは人に合わせる方でやってきていた人が、自己主張をした方が良いということで、今度は自分の方ばかりを優先しようとしてしまうというような、一面的な変化では本当の解決にはならないのです。一面的なやり方の失敗例はたくさんあります。例えばよくあるのが、親に厳しくされたから「ああはなりたくない、自分の子供にはとにかく優しくしよう」とし過ぎて時に厳しくせねばならない時にもそれができずに結局は子育てに失敗する場合などです。

 そのような一面的な解決策が通用しなくて行き詰っているからこそ、それを打破するためにカウンセリングや心理療法があるといえるのです。この一面的解決策の問題点と、それを乗り越えるための解決策は後半に詳しく検討します。

 カウンセリングや心理療法の成否は、カウンセラーや心理療法家の力量のあるなしにかかっているのです(もちろん時にはクライアント自身に力量があるので下手なカウンセラーでも何とかなったという場合もかなりあるようですが)。それはそうなのですが、他に知っておいた方がよいのは、心理療法の中で用いられる様々な心理技法は、そのどれもが必ず限界があるので、その影響も否めないというところです。いくら良い方法でも、その時々の心身のあり方に則したやり方でなくては役立ちません。

 私は心理療法は「カウンセリングに始まりカウンセリングに終わる」といえるくらいに話を聴くことをが一番大切と思っています。でも例えば、ボクシングの試合において選手が戦いにしり込みしているので、セコンドのコーチが彼を立ち直らせようとするとします。そのさいには、カウンセリングなどのように内省によって「いったいどうしてこんなに気弱になったのかふり返ってみよう。何か思いつくこと話してごらん」などと悠長なことをやっている暇はありません。それよりも「何を弱気になっているのだ、お前はすごい奴なんだ!私が言うから間違いない!」などと強く支持する言葉をかける方がずっと適切ですね。このような場面ではカウンセリング的な手法は全く役立たないのです。この例えでわかるように一番重要なカウンセリングさへ限界があります。

 その他の良いとされる心理技法もやはり万能ではありません。また、しばらく自分にマッチしたやり方(心理技法)であっても、心の方が変化したために、その心理技法のやり方はもう卒業となってしまうことも起こります。心の変化・成長過程によってその人に必要なものが違ってくるのです。

 最初はうまくいっていたカウンセリングなのに、堂々巡りになって深まらずマンネリ化したり、またカウンセリングに長く通っているのに、途中で収拾できない不安や混乱などが生じて、他のカウンセリング所を探すはめになったりする場合があります。それはまず、クライアントとカウンセラーで、心の問題を受け止め消化する器が充分でない場合が考えられます。そして最初うまくいっていたカウンセリングだったのにそうなった場合などには、先に述べたような、心の成長過程に沿った次へのステップアップが滞ってしまっている場合が意外に多いものです。クライアント(の自然治癒力)の方は(それと知らずして)次へのより良い変化に取り組みたい時期が来ているのに、カウンセラーの力量の足りなさと、その時用いている心理技法の持つ限界によって、深まりや進展が生じずにいるのです。

 話は変わりますが「心の成長」などというと何かおもはゆいですね。でも「自分が未熟だからこのようになるのかもしれない。何とか少しでも自分を成長させることで、この問題を乗り越えられるのではないか」と、今ぶつかっている問題を自分への試練として受け止めることは良い解決への第一歩です。もちろんこの場合の、自分が未熟というのは自分に価値がないと否定することとは全く違います。そのように思って自分自身に目を向けてみると、思った以上に偏った思い込みがあったり、狭い価値観にとらわれていたことなどに気づけたりします。するとそれらから解放されるとともに、楽になって等身大の自分でのびのびやっていけるようになります。

4,「理性で自分をコントロールする」というやり方の問題点

 一面的な解決策の問題点の所で述べたところと重なるのですが、ここでは少し視点を変えて、自分自身との関わり方を中心に考えてみましょう。

 学校では「よく考えて答えを出しましょう」と、それが人間の用いることのできる、最上の手法であることを強調します。確かによく考えて答えを出すというやり方の最たるものである科学技術の恩恵によって、人は昔に比べてずっと便利に、安全に暮らせるようになりました。そこで人は、科学によって地球の自然をコントロールしてきたのと同じように、自然の一部である自分の心と身をも科学的にコントロールできると思いこんでしまうのです。

 けれどもはたしてそうでしょうか。よりよくコントロールしてきたはずの地球環境をかえりみても、加速度を増す温暖化の兆候に伺われるように、自然破壊はすでに後戻りできないゾーンに入っているやもしれないのです。それと同時進行で、デジタル化による心身への浸食も進み続けています。いやしかし、人間は科学がそれほど発達していなかった古代においても、突き詰めると言葉と想像力というものを持った時点で、自然の一部である心身とは矛盾する生物となったのです。言葉のもつそんな二律背反性の理解は現代においても未熟なままです。人はそんな盲点などつゆとも知らずに言葉を使い続けています。そして時には言葉や想像したことの方こそが、あたかも大切であるかのように勘違いしてしまうのです。

 「よく考えて答えを出す」のはとても大切なことに違いはないのです。違いないのですから更に、よく考えて良い答えが出るように知性を洗練させていく必要があります。そこでまず「よく考えて答えを出す」という手法自体を、よく考えてもっと洗練させていくことを以下に試みてみましょう。

 例えば、何々すれば良い、と決めて自分をコントロールしようとして、一面的なやり方で頑張りすぎると、体のリズムやペースとのズレが必ず起こってきます。非常にまじめな人で、夜ベッドに入ってから明日の仕事などの計画をする人がいます。そして朝早くに仕事が入った場合には「明朝は早く起きなければいけないな」などと思います。そのさいに自分(の心身)が信じられないと目覚まし時計をかけるくらいでは安心できなくなります。身体に委ねられないぶん眠りが浅くなったり、寝過ごさないようにとどこかで頑張ってしまいます。心底休めなかった心身の疲れは蓄積して心身の不調となっていきます。

 自分を理性でもってコントロールすることは人として時に必要です。でもそれが極端になると「からだに任せきると、怠けてしまう」などと自分の心身を信用できない、性悪説や自己否定感が潜んできます。すると、まるでいつも一緒にいる友人なのに実は嫌い、というのと同じに、本当の意味で自分自身と良い関係を持てなくなります。それが高じて疲れた馬に鞭打って倒れるまで走り続けるのと同じような生き方になってしまう場合もあります。

 身体にはからだのリズムやペースがあります。その身体を信じて任せておけばスムースに行くものを、うまくやろうと意識しすぎると、からだが本来身につけている実力の発揮をさえぎって努力逆転します。また理性による思考は、アナログ対デジタルで分ければデジタル(合理的思考)になりますが。そこでは効率よく結果を出すことが全てとなります。途中はなるべく省いてでも目標に到達すればよいという、情や遊びのない手法を自分自身にも当てはめて、よい結果が出せなければ全てが駄目、無駄という救いがないものになるのです。

 レベルの低い解決策の説明のところで述べた「こうすれば良い」というアドバイスは、この理屈(理性や頭)でもって自分の心身をコントロールしていく手法に属するわけです。そのため、アドバイスというものはその根底に、ここに述べてきたような、自分の心身との不調和という問題もはらんでいるわけです。確かにアドバイスをもらってそれでうまく解決する時もあります。しかしそれば一時的な解決にとどまりがちで、根底からの解決にはなりえなかったりするのです。

 「よく考えて答えを出す。という手法自体をより洗練させていく」というのはどんなことなのか。今度はそれを具体例をあげながら試みてみましょう。

 「自分は話が下手で会話が続かず、人と話すのが苦手です」という人がいます。当人は「他の人のように会話をうまく進められない自分は人より劣っている」と劣等感を抱いています。けれども話し下手なのは事実としても、そんな自分が他人より劣っているというのは勘違いなことが多いのです。むしろ逆に人より頭がよくて良くいえば思慮深かったりします。

 例えば子供が大勢遊んでいる中に一つのボールにさまざまなお菓子を一緒に入れて「皆で食べてね」と大人が置いて行ったとします。すると、周りに気を使わない自分中心な子供は、さっさと自分の好きなお菓子を取って食べます。けれども、周りに気を使ったりなどと、いろいろ考えが回る子供はそんなことはできません。「幾つくらい取れば多すぎず、少なすぎず平均になるかな…大きさとかいろいろあるから他の人と取り合いになったらまずいな…」などといろいろ考えてしまいます。いろいろ考えている分、迷って、言葉にしたり行動することは遅くなります。その結果、それほどの考えのない子供たちが自分の欲しいものを我先にと取った後の、残りのお菓子から自分の分を選ぶことになってしまうのです。

 よくよく考えてみると、いろいろ考える「能力」があるからこそ迷ったり悩んだりが多くなるのは確かなのです。話が苦手な人や人の中で気を使って楽に動けないで悩んでいる人は、ハッキリ物を言ったりする人や、すぐ行動できる人の方が賢くて、自分は劣っていると思い込んでいます。しかし本当は逆だったりもするのです。そうでなくても自分のことを優先するか、他を優先するかの違いだけだったりします。…この「能力がある」というのは、精神療法に精通した精神科医である神田橋條治先生が、一見否定的なことがらでも「~能力がある」と付け加えると肯定的なものに変化させることができるよと提唱したものです…

 この辺りのことがよくわかってくると「なんだ、自分は他人より劣っているわけではないんだ。自分はいろいろ考えているから迷うし、言葉にするまでに時間がかかるんだな」と思えてきます。「話をするにしても行動するにしても、早くしないと、と思うのはいろいろよく考える自分のペースに合ってないのだな。これからはそんなふうに、いろいろ考える自分の持ち味にあった会話術を身につけていこう」と思えれば、自分の持ち味を積極的に生かしていけるでしょう。

5,あちらも立てて、こちらも立てる 多面的なあり方

 さてここで先ほど、子供たちが大勢いる所へ大人がお菓子を置いて行った時、自分の気に入ったお菓子を取り損ねてしまう子供の例え話しをしました。次に、その子供がどうあれば良い感じでやれるようになるかを考えてみます。子供のことに例えてはいますが、このテーマは心理面接でクライアントが行き詰った壁を乗り越えよとする場合のテーマと同じです。人間関係に絞っていえば、心の問題の内容や症状の違いに関係なく、ほとんどの人がこれと同じテーマ苦しんでいるといえるでしょう。

 子供たちが大勢遊んでいる所へ大人が、一つのボールに盛ったお菓子を持ってきて、みんなで食べなさいと言った。そこにいた子供の中で、いろいろ気づかったり考えすぎて行動が遅れてしまい、残り物のお菓子から自分の分を選ぶはめになりがちな子供。彼はどのように変わればよいのか。そのさい「自分一人でお菓子を独占してしまう」その逆に「もう自分は残り物で良いと諦めきる」という手もなくはないです。でもこの二つの方法は現実的でないので除外します。

 わかりやすい解決策としては、自分も他の子供と同じように積極的にお菓子を取るようなれば良い、というのがあります。確かに現実にたくましく生きて行くには弱肉強食ではないですが、自分中心のやり方を身につけるのも必要かもしれません。でもせっかくいろいろ考えられる人なのだから、より思慮深く考えて、より良い解決策を身につけたいものです。それに自分中心のやり方は「一面的なやり方の問題点」のところで取り上げて検討したのと同様の問題をはらんでいてベストな解決策とはいえません。

 「あちらを立てればこちらが立たず」という言葉がありますが、やはり「あちらも立てて、こちらも立てる」のでなければ本当に良い解決とはいえないのではないでしょうか。けれども二者択一の方が解りやすいために心理療法の場面でさえ、先の章で述べたように、ただ自己主張すればよい。などとレベルの低い一面的な意見がまかり通ったりしています。

 理想的な解決策として思いつくのが、勇気のいることですが皆を制して「みんなで平等に分けるようにしようよ」などと発言して自分の考えをアピールすることです。それが通れば、全員に平等に行き渡るようにお菓子を分けるとかできて自分も満足できます。こちらの方はリーダーシップ能力まで発揮した素晴らしい解決策です。一人では発言できなくとも傍にいる友人に自分の考えを話して協力し合って、そうなるように工夫する手もあります。

 このやり方は消極的な子供にはハードルが高いでしょう。この点からも「あちらを立てればこちらが立たず」というテーマがいかに難問であるかが見えてきます。でもそうはできなくても「相手のことや周りのことなどを、いろいろ考えられるのは良いことだし、それで行動が遅れるのは自然なことなんだ」などと、自分の持ち味を大事にできるようになったなら一歩前進ですね。そしてそんな自分の持ち味を生かした解決案を工夫していけるようになってほしいものです。

 ところで一面的なあり方を多面的なあり方に変えて行こうとするさいに、とても厄介な問題があります。それは同一化(一体化)などといわれている心の状態のことです。等身大の、長所も欠点もある人間としての自分と、こうあるべきという理想像との区別がつかなくなっているのです。生まれ育ってくる過程にあって、等身大の自分で居ることが許されなかったのか、それともあまりにもまじめに、人はこうあるのが良いのだと自分で思って、そうなろうと頑張り続けたのか。それがまるで自分の全てとまでなっている場合もよくあります。

 そうなるとその価値観から一歩でも外れるとか、その在り方に反してしまうと存在意義をなくすることになるので、それらをつゆとも認めることはできなくなります。また「私はこういう考えを持っているけど、あなたはどんな考えなの」などというような共存共栄的な態度も持てなくなります。自分も他人も含めてその理想像にそぐわなかったり、他の価値観をよしとすることは自分の死に値するのです。そこでどうしてもありのままの自分も、他者も否定せざるを得なくなります。また一体化しているので、それ以上客観的に見ることはできなくなり、カウンセリングなどで内省すること自体が困難となります。でもだからこそというか、自分がどのような価値観で生きてきたのか、それに縛られていたのかが明確になるだけでも、自分を救えたり楽になったりもするわけです。

 さて、どのような心のあり方が人として健康的なのか、神田橋條治先生は著書の中で「心の健康の理想形は混沌に酷似している」とか「葛藤能力を具えた健康な人格の育成…」などと多面的なあり方をよしとして述べています。冒頭でも述べましたが、ビジネス界で近年注目されいるマインドセットという考え方は、人の意識や心理状態は一面的なとらえ方はできず、多面的に見てセットしたものがマインドの全体像を表しているということから来ているようです。これは神田橋先生のいう混沌的あり方と同一のものといえるでしょう。

 また河合隼雄先生は、ある本の中で「人間性の中に必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。そのダイナミズムを通じてこそ、われわれは、そのれよりも高い次元のものを創り出すことができるのです。ひとつの状態に安閑としているのでしたら、これは別にカウンセリングを受けにくる必要はありません」と述べています。この意味をちょっと言い換えると「人が様々な問題にぶつかって悩んでいること自体に、すでに高い次元のものを創り出すための下地がある」と言っているように思います。河合先生はそののちに、人生で遭遇する様々な受け止めがたい災難なども含めて、それらをクリエイティブ・イルネス(創造の病)として受けとめることを提唱しています。それは、問題を抱えて悩んでいる一人ひとりが、その人の持ち味を発揮(創造)して問題を乗り越え心豊かに生きて行く可能性を持っているのだということのようです。

 心からくる悩みや問題を乗り越えたいと願っている方に、参考になる地図のようなものを作ってみようと思って書き出してみたら随分と長文になりました。その分、読み取りにくい地図になってしまったかもしれないですが。また、これはあくまでも地図なので、実際にこのように変化していくための心理療法は時に大作業となります。旅にあっては、たとえ順当な旅であっても山あり谷ありと、地図とは違う実際の地を行くことになりますね。

 一時的にですが自己主張がとても強くなった時期に、そんな自分を「私は今鬼です」と言って、怒りでいっぱいな自分を悲しげに語りながらも、しっかりと決着をつけて行かれた、純粋で心根の優しい女性を思い出します。心の問題解決までの旅では特に、感情の嵐などの悪天候に遭遇することも多々あります。でもそんな大作業に取り組んで、ほんとにのびのび爽やかになって行かれるの方もいて、何か、おごそかな気持ちになることさへあります。

★参考ページ:『当相談談室でおこなっている心理療法


個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法

 心理的な症状や悩みで行き詰ってカウンセリングに来談された方が、話しを進めていく中で、おしなべて行き着くのが「自分に自信がない」ということです。「集団に溶け込めなくて自分だけいつも浮いているような疎外されているような感じです」とか「職場で人に気を遣ったり遠慮してしまって、自分の行動や話すことは後回しになります」「周りや世間がどう思うか気になって外に出るのも辛いです」などと自分に自信がないことからくる人間関係での大変さが話題となるのです。

 自分に自信が持てないと人とのかかわりが重荷となって疲れるばかりで、次第に人の中に入ることが嫌になってきます。引きこもりになっている人の多くが、事情はそれぞれに違っていても自分に自信がないがために人の中に入っていくことができなくなっています。さまざまな問題や困難を乗り越えたり、自分の成し遂げたいことに挑戦するなどして、充実した人生を生きていくためには、まずもって自分に自信を持っていることが必須といえるでしょう。

 心理面接やカウンセリングでは、何らかの形でなくしたこの自信を取り戻したり、新たな自信を育てたりすることが課題となります。けれども「自分に自信を持てばよい」と言うほどに簡単にはいきません。自信とは自分を信じるということですが、中身が具体的ではありません。自信を持つためにどのようにしていけばよいのかがわかりにくいのです。また自信の持ち方自体にもいろいろあって、例えば自分の実力もわきまえずに自信過剰になったとしたら、はた迷惑ばかりで人間関係はかえってうまくいきません。

 そこでまず「自分に自信を持つ」ということがいったいどのようなことなのかを、より具体的に整理しなおしてみました。それによって自分の場合はどのように取り組んでいけば本当に役立つ自信を得ることができるのかがわかってくるはずです。今回の内容は個別の心理面接でこの問題に取り組むことを共にしたクライアントから学んだものが中心となっています。(やはり自分に自信を持てなくなった事情の根が深い分だけその再生は困難を極めます。そんな場合はやはり個人の心理面接でカウンセラーなどに支えられながら根気よく取り組んでいくのがベストでしょう)

条件付きの自信

 「自信」は二つに大別できます。わかりやすいのは仕事が人よりできるとか、頭が良いとか運動能力が高い、などというように他と比較して自分の方が優れているところからくる自信です。よほどの障害や才能がない限り、その道で努力工夫していれば次第に上達するので自信は強まります。でも上には上があってきりがないので、自分より下位の者が多い中にいる時は良いのですが、優秀な人が多く集まる中に入ってしまうと途端に自信喪失しかねません。また自分の到達したい理想を高く持ちすぎると、いつまでたっても自信が持てないことになります。

 この自信は何々が優れているからというように条件付きのもので、その条件から外れてしまえば役立たなくなるというもろいものなのです。でも社会の中で活躍するには、物事を成し遂げるまで努力する力が欠かせません。そのためには、自分は人より優れた能力があるのだとの自信がある方がずっとやる気が出ます。

 逆に、自分は今までちゃんと物事を成し遂げたことがない。どうせまたうまくいかないだろう。などというような自信のなさでは、できるかどうか試してみることさえ諦めてしまうでしょう。こんな時一番良いのは「好きこそものの上手なれ」というように、自分の好きなことに夢中になっているうちに自然とそれに上達していく体験をすることです。その体験によって自分もやればできるのだと自分の可能性自体に拡大した自信が持てる場合もあります。

無条件の自信(基本的信頼感)

 自信にはもうひとつ無条件の自信というのがあります。それは他人との比較するものでない無条件のありのままの自分に対するものです。根拠のない自信ともいえるでしょう。これは先に述べた条件付きのように他と比較してのものではないので一見わかりにくくて目立ちません。けれども例えば家を建てる際に一番重要な基礎工事に相当するもので人がより良く生きていくためにはより重要なものです。

 心理学で乳幼児期に育つといわれている基本的信頼感というのがこれに相当します。乳幼児がより快適に安全に育っていくための要求を親や養育者がよくわかって、できるかぎり叶えてあげられるほどに、周りや自分に対する基本的信頼感が強くなると考えられています。他者にも自分にも、世の中に対しても強い肯定感を持つことができるのです。そのため社会の中においても意欲と信頼を持って前向きに活躍していけます。

 かといって、完璧を目指して乳幼児を養育するのでは神経質さが伝わるので逆効果です。赤ちゃんに対する深い愛情と理解がありながらも肩の力が抜けた感じで、ゆとりを持って接する方が基本的信頼感がよりよく育つはずです。これがあれば条件付きの自信が全てなくなっても、自分の存在をすべて否定しなくて済みます。

 逆に基本的信頼感を育むことができなかった子供は、自他ともに信頼しにくく安心できなくなるでしょう。この世に生まれ出てから、充分守られている感じが持てないで育った子供は、失敗を恐れて何事にも消極的で他人を信頼できず情緒的な人間関係が築きにくいといった傾向があるといわれています。その後に来るしつけに対して、怖さや否定されたという思いを強めがちになるともいわれています。また、夫婦喧嘩や離婚など不安定な家庭で乳児期を過ごすと、基本的信頼感が育まれにくいという指摘もあります。不安が多くて落ち着く暇がなければ信頼どころではありませんね。

 さらには、物心ついてからのしつけにおいて、この無条件の自信(基本的信頼感)を脅かす事態が加わるのです。しつけにおいて良い行動、悪い行動などと条件がつき始めるために、無条件の愛情の方が隅に押しやられてしまいがちです。カウンセリング場面では、子供時代に親の期待が大きすぎたり、虐待までいかない場合でも、無条件に大切にされた感覚を持てないような家庭に育ったという辛い話がよく語られます。自信が持てなくなった事情として、当人が育ってきた家庭や環境において乳幼児以後にも、ありのままの自分を認めてもらった感じがしなかった体験が見えてきます。

 親としては、ちゃんと無条件の愛情を子供に持っているにしても、例えば両親ともに忙しくて子供と接する機会が少なかったりすれば子供は見捨てられているように感じたりもします。そしてその理由として「私に価値がないのだろう。愛されるためにもっと良い子にならなければ」と健気にも思い込むのです。

 余裕がない親に育てられた場合は、ちょっとのことでも怒られたりするために自己否定感が強くなります。子供によりよく育ってもらいたい、社会で活躍する人になってもらいたいと期待して頑張る方ばかりを強調してしつけていると、それを受け止める子供は親の無条件の愛情の方が見えなくなります。そして「ありのままの自分ではダメだから叱られるのだ」と思ってしまいます。

 また、しつけ体験と同時並行して子供の内面には、覚え始めた言葉による自己評価が始まります。そこで、それらの体験は(良いも悪いもですが)観念の地図となって、ずっと残ってしまいます。それは思いの癖として、何かの折には登場して当人をそこに決めつけてしまうのです。

 ありのままの自分が認められなくて基本的信頼感が充分得られなかった人は、どこかもろい部分があります。また、常にこうあるべき理想像に向かって努力をしていなければならず気を抜けません。深い休息も少なくなるので常に疲れが残っています。例えば一旗揚げようとして都会に出た若者が挫折して実家に帰ってきた時に、優しい家族のその無条件の抱え環境があれば傷ついた心を癒すことができます。そしてまた新たな人生を歩むことが可能となります。このような心の作業が簡単に進みにくくなるのです。

ありのままの自分を愛することが自信に

 かといって基本的信頼感が得られていなければもうダメというものではありません。乳幼児のころに得られなかった基本的信頼感をその後に獲得することは充分可能です。この側面を育てていく過程が本格的な心理療法やカウンセリングの仕事といえるでしょう。

 逆にいえば、子供時代に基本的信頼感を充分得られなかった人は無意識裏にそれを求めて生きていきます。例えば、プチ家出をして親が必死になって探しに来る姿を見ることでようやく自分が心底大切にされているのだと確認できて安定する子供がいます。時には離婚して実家に戻ってきてから、この無条件の自信(愛情)を家族とのやり取りで獲得しようと再挑戦している動きがうかがえる成人女性もいます。

 自殺未遂をすることの裏に、自分では全く無価値に思える自分の存在が家族にどう受け止められるか、命を賭して確かめようとしている動きが見える場合もあります。古い話ですが、自分のベッドの下に剃刀の刃を隠していたのを母親が見つけて、慌ててご両親で心理相談室に連れてきた不登校の中学生を思い出します。彼女は心理療法を受ける以前に、それを重大事と受け止めたご両親の態度でもう半分以上立ち直っていたといえるでしょう。

 重度のうつ病の中年女性は来談してカウンセリングを積み重ねていく中で少しづつ回復に向かっていました。そのころ、同年代の女性で不登校の子供のことで悩んだことのある友人と電話で話している際に「居るだけでいいのよ」と言われました。それが心に響いた彼女はそのことを夫に言いました。すると夫も「そうだよ」とそれに賛同してくれたのです。それをきっかけにして彼女の回復に一段と弾みがついたのでした。「居るだけでいい」これこそが無条件の愛情(自信)といえるでしょう。

 心理的な症状や悩みがない人の中にも無条件の自信については充分持ちえていない人が多くいます。人間社会にはさまざまな条件があります。学校では成績の優秀な子供が高く評価されます。プロスポーツ界でトップクラスの選手には莫大な契約金が支払われます。仕事で結果を出すことができなければ会社を辞めねばなりません。結果がすべて。条件付き(の自信)がまかり通っているのが人間社会なのです。

 そこで一生懸命に頑張って仕事をした結果、例えば定年退職をした男性で、過去の会社での肩書や活躍などの自慢話にふける人がいます。悲しいことに年老いてしまった今の自分に価値を見出せないのです。だからついそんな過去の話を持ち出して、自分を支えなおそうとしてしまうのでしょう。

人間の理性(科学的思考力)と自然(生命体)の知恵との比較

 自信があるなしについてさらに深く探っていくと、学校で学ぶ「よく考えて答えを出す」というやり方や、理性で自分をコントロールするのがベストであるとの価値観の弊害が見えてきます。例えば、素直で感受性が強くて頭の回転が良い子供ほど、人の言うことを真に受けるので、周りに振り回されやすくなります。またいろいろ考えられる分、葛藤が増えたり、こだわりができたりします。悪い方にも強く想像力が働くので強い不安に襲われます。そして次第にそんな自分の心身に否定的となります。知らないうちに性悪説の上に立ってしまったのです。そして常に自分を監視してコントロールしなければならなくなるのです。

 「ありのままの私は怠け者だから」とか「手放しにしたらどうなるか心配で」「ありのままの自分は全く無価値です」などと言います。これらは事実ではなくて思い込みなのです。でも常に気が抜けないのでこのままでは心底楽にはなれません。

 …他に、理性偏重が極端化してしまって、しんどい生き方になっている例をちょっと紹介しておきます。元々まじめで理性の働きが強い人で、何事もきちんとやらねば気が済まない完全主義となり、それが高じて強迫性障害的にまでなる場合があります。ちょっとしたミスもダメだと、常に意識を強く持って几帳面に成し遂げようと頑張ります。疲れは倍増します。伸び伸びできず、感情発散もできなくなってしまいます。また、理性で物事を「良い悪い」「白か黒か、0か100か」のどちらかに割り切って区別、判断する癖がついている人がいます。そのぶん極端から極端に、心や行動が揺れ動いてしまうので、とても不安定な生き方となります。当人はとても一生懸命なのですが事実や他人とのズレが大きくなるので、なかなか他とわかり合えないで苦労します…

 科学万能時代の私たちは、その近代科学最大の発明といえる自動車の運転と同じに、理性でもって自分の心身をコントロールしていくのがベストだと思っています。けれども人間の身体はスイッチを入れなければ稼働がはじまらない自動車と同じではありません。身体は生まれてからずっと環境と連携して死ぬ時がくるまで終始自動運転し続けているのです。道を歩く際に考え事をしながらでも、身体はちゃんと目的地に向かってくれます。

 ほとんどのことを身体の機能がかってに自動運転してくれているからこそ、人はいろいろ自分の考えを膨らます暇があるのです。身体は自動車のように他と切れた個体ではありません。けれども近代科学の下に生きてきた私たちは、身体に任せっきりにするのは手放しで暴走する自動車に乗っているのと同じに、あまりに無謀なことだと思えるのです。これがありのままの自分に自信が持てない理由の根底にあるものです。

 自分で獲得しなくても生まれた時にはすでに備わっている心身の機能や知恵は計り知れません。例えば失敗したり挫折や病気になったことが、実は心身の知恵によるもので、より大きな災難を守るためのものだったという場合さえあります。

 かなり昔に来談した戦争体験のある老年の方の話を思い出します。彼は東南アジアに遠征した際に上官から明日偵察に行って来いと命令を受けたのでした。ところが次の朝目覚めてみると足がパンパンに腫れあがって歩けないほどの急病になっていたのです。そこで急きょ代わりの人が偵察に行かされたのでした。でもその人は帰ってこなかったのです。代わりに偵察に行った人が水死体となっていることが、彼には事前に分かったそうです。彼の身体が急病になることで彼の命を守ったのだとしか思えません。

 このような典型例でなくても私たちが気づけないところで心身がとり行っている人知を超えた働きは無数にあるでしょう。私たちのちっぽけな頭で良い悪いを判断したり、全てを取り仕切ろうとするのは思い上がりもいいとこかもしれませんね。

 子供時代に様々な事情から充分な自信を持ちえなかった事情はあるにしても、大人になった今、自分だけでそれを回復する道もちゃんとあります。まずは今まで見てきたように、より正しく自分を知ることです。自分が自分の心身をどう思っているかを見直して、そして自分の勘違いや思い込みを剥がしていきましょう。すると、ありのままの自分が素敵にいきいきしてきます。あるがままの事実と、自分が想像で作ったり思い込んだりしたことの区別がつくようになるだけでも、かなり楽になります。

 実際のテクニックとして、ちょっと立ち止まって自己否定することは横に置いて、自分の内面をまるで親友を見守るように、優しく見守もってみましょう。内なる自分にあれこれ話しかけずに寄り添うつもりになってみましょう。すると、それまで否定してダメに見えていた自分がとても愛おしく大切に思えてきますよ。

★参考ページ:『当相談室の心理面接について』『心と身体の能力を最大限発揮するための本当のコツ



人間関係に働く自我の防衛機制の具体例

 人は自分のことが一番わからないといいます。確かにそうです。例えば他の人から見たら一目瞭然なその人の特徴でも、当人は全く気づいていないで盲点となっている場合が多々あるのです。

 例えば、とても繊細で心根が優しい人で、でもシャイなために人と接するときに緊張する人がいます。その緊張している硬い表情やしぐさは一見すると、ちょっと怒っていそうに見えます。近寄りがたく感じられ、それによって当人は人の中で孤立しがちとなります。その逆に、とても人が良い感じで、親しみを持たれやすい人がいます。何を言っても怒らないような人に見えるために、言いたいことをズバズバ言われたり、時にはなめられたりします。いじられキャラになりやすかったりします。でも内心とても傷ついていて、私は虐められやすい人間なんだ、とまで思ってしまっている場合もあります。

 どうして自分には人が寄ってこないのか、どうして自分は人に嫌なこといわれたりいじめられるのか、などとその原因を考えてみても先に述べたような盲点には気づけません。考えに考えた挙句に「私に価値がないからそうなるのだ」と勘違いしてしまうのです。

 私もあきれるくらいに自分自身のやっていることに気づいていませんでした。でも、エンカウンターグループの体験学習の際にグループの世話人から率直に言ってもらったことをきっかけにして、次第に自分が盲点としていた側面に気づくことができたのです。そんな体験談を述べながら、人の心が人間関係でどう働いているか(自我の防衛機制)を具体的に解明してみます。

 実は私は若いころ人と接する時、少しでも脅威を感じたりする人や集団の場で、極端なくらいに愛想笑いをしたりペコペコしたりして、相手に合わせうまくやっていこうとしていたのです。ところが自分がそんなことをやっているとはつゆにも知りませんでした。あきれることにその逆に内心では「私は男らしい」方であると思っていたのです。

 三十代に入ったころエンカウンターグループのワークショップに幾度か参加した私は、今度は少し遠出をして山梨大学関連の主催する三泊四日のワークショップに参加したのです。場所は富士山麓のなだらかな斜面の平地に緑が心地よい山荘でした。ファシリテーターは、それ以前に一度エンカウンターグループでお世話になった山梨大の古屋先生と、同じ大学の山口先生という男性二人が世話人でした。グループは少人数制ではじめから12名。会議室のような部屋で一人がけのソファーでみんなで輪になってセッションが始まったのです。

 私はそのころにはエンカウンターグループに少し慣れてきていました。それとも、そのグループの雰囲気のせいだったのか以前よりグループの中で行動しやすくて、他の人の話が長引いた時など、率直に話しを止めようとするような発言をしたりしました。でも基本的にはまだまだ初心者というか人間関係にも未熟で、人との関わりがよくわかってなかったのです。で、とにかく動けばよいのではないか、などと思って無理して頑張っていたのでした。そんな私はグループ全体からは少々浮き気味だったといえるでしょう。そのグループで何が起こっているかなどを充分にはわからないままに動いていたのですから。

 このエンカウンターグループで私はかなり酷い言われ方をしたのです。世話人の山口さんが「あなたは女々しい感じがする、太鼓持ちのようだ」と率直に言ってきたのです。それを言う時には私が傷つくのではとかなりの心配があったでしょう、少し言いよどむような感じもありましたから。

 その言葉に私がショックを受けてひどく落ち込んだりしたと思いきや、全くそんなことはありません。そんなにズバリ言ってもらっても、当の私はなんのことだかさっぱりピンときませんでした。内心では「こんな男らしい私に向かっては何でまたそんなことを言うのかしら」と思っていたのです。イヤほんとに。太鼓持ちだとか女々しいとか言われてもそれは私ではありません。だって私は空手もやっていた時期があるくらいに男らしい男のはずなのですから。人間あまりにもわかってないことはピンと来ないので傷つきようもないのですね。

 でも私の内心の思い込みとは裏はらに私はその時、ニコニコ、ペコペコ愛想振り撒き状態だったのです。

 後日、別個の通いのカウンセリング勉強会の時にメンバーの一人から「駅を出た所でNodaさんが一人で歩いているのを見かけたら、怖いような顔つきをしていた」と言われたことがありました。そのグループにいる時も愛想を振りまいていたのですね。不思議なものでその時の言われ方の方が「自分には人に対して裏と表があるのかぁ、、」とちょっとショックでした。

 私はそんなにまでも愛想したりしながら人と接していたなんておかしいなあ。と次第に内省しました。そういえば先輩のカウンセラーで、あんなにはなりたくないと思うタイプの人がいました。「何だかウンウンと直ぐに頷いてばかりで軽い人だなあ。ちょっとカウンセラーとしてどうかしら」などとその人を見てほんとにイヤーな感じになったりしました。でもあれは私自身を嫌っていたのですね。ごめんなさい。自分にある、でもそれと認めたくないところをその先輩カウンセラーに投影していました。

 投影という防衛機制は「実は私がそうだったんだ」などと投影の引き戻しがあってのちにはじめて、投影していた相手がそれまでとは違って見えてきます。でも、投影して見ている時は相手が持っている特徴として全く事実に見えるのです。そしてほんとに嫌に感じてしまうのです。人間関係においてこの心の防衛機制の作用によるトラブルにはとても多いのではないでしょうか。

 私ほどに自分に気づいていない人も少ないでしょう。でも、もしかしたらあなたも、自分の内面の認めがたい要素を抑圧したり、見ないようにしているうちに、いつの間にかそれを周りの誰かに投影しているかもしれませんよ。なんかあの人嫌だなあ、虫が好かない。などというような人がいる場合はちょっと気をつけて内省してみた方が良いかも。

 さて、ここが素敵なところなんですが。正直になって自分の認めがたいところを認め受け入れ投影を引戻すことができると、投影していた人が嫌でなくなりますね。またその否定し押さえつけていた部分を生かして、今後はよりいきいきと生きていけます。さらに、このような場合、ありのままの自分を受け入れ認められるようになることが同時進行しています。ですから自分の中に立てていた、かっこつけたり無理していた壁が取り払われてしまいます。その結果、生きていくこと自体がとても楽にもなるのです。

★参考文献:『ジョハリの窓』『人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制



フォーカシングで盲点となりがちな自我意識の変化過程

フォーカシングにある二つの流れ

 フォーカシングを一般化していうと「思考による解決手法をちょっと横において、無意識的な働きや身体的働きなどの、自我意識を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとすること」といえます。それを実際面でやりやすくするためにハウツー化したものがフォーカシングの6段階のステップです。

 よく「ストレスが溜まる」といいます。この状態は、例えれば川や水路が狭められて流れが淀み、水が溜まってダム化してしまった状態といえるでしょう。トラウマも同様にそれを押さえこんだ時の身体の緊張とともに流れ出ることを封じ込められています。意識的無意識的に緊張することで、心の流れの路が狭まります。時にはそれが断たれてしまっているかのように見える場合もあります。

 この水路イメージにフォーカシングを当てはめてみると、フォーカシングのテクニックは、その流れの滞った辺りにフォーカスして、そこに溜まったものが無理なくスムースに流れ出すように働きかけるものです。その技法は、心的エネルギーの流れの抵抗を解き放つ心理技法の中ではとても洗練されています。ちょっと古いかもしれませんが、精神分析における抵抗分析と比較すると、その差はイソップ物語の「北風と太陽」の物語に匹敵します。

 フォーカシングでフェルトセンスと名づけた「意識化されていない曖昧な感覚の全体」へのアプローチによって、先に述べたようなストレスやトラウマの適度な解放ができることから治癒が起こります。また時には否定的なフェルトセンスの奥にあった肯定的なものとの出会いや、自我意識を越えたところからのメッセージを受け取り、クリエイトできたりもします。これらの体験には意外性があったり、また涙を伴うことがあったりするなどと、とても感動的です。これがフォーカシングの醍醐味といえるでしょう。このようにフェルトセンスに注目して、そのフェルトセンスが変化、展開していくことによって良い結果が生まれるというのがフォーカシングのメインストリームです。

 けれどもフォーカシングにおいては、フォーカサー自身の意識の側が変化したことによる効果も忘れてはなりません。アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバンの共著『フォーカシング・ニューマニュアル』ではフォーカシングにおける理想の意識のあり方(プレゼンス)を詳しく検討しています。それにそって考えてみると、フォーカサーの自我意識が理想的なプレゼンス状態に育っていくことの方がより重要なことのように思えてきます。最近この側面に関しての言及が以前より増えてきましたね。

 さて理想的なフォーカシングの構図は「フェルトセンス」対「プレゼンス状態」であらわされます。でも現実でのフォーカシングでは「フェルトセンス」とそれに対峙する「理想のプレゼンス状態であろうとする自我意識」というのがより正確です。この「理想のプレゼンス状態へと動いていく自我意識」自体の変化は、フェルトセンスの変化する時の感動に比べ、地味というか微細で目立ちません。そのせいか私の知る限りですが、自我意識が理想的なプレゼンス状態になっていく過程においての、その具体的実際的な動きはそれほど明確化されていないように思います。

 この、より良いプレゼンス状態に移行しようとする自我意識の側の変化は大きく二つの段階に分けられます。一つ目は既知のことですが、フォーカシングの準備段階での知的理解による自我意識の変化のはじまりです。本『フォーカシング・ニューマニュアル』のはじめの方には『何かについて「取り組んでいる」という態度から、何かと「いっしょにいる」という態度に意識的に変わるとき、全てが違ってきます。それといっしょにすわっている…落ち着いてすわっている…と想像することが、この変化を起こりやすくします』とあります。

 フォーカサーはフォーカシングを学ぶ前までは、往々にして自分に否定的だったり、操作的であったりします。それがフォーカシングをマスターしようとする初期段階で、先に述べたようなレクチャーによって自分の内面に肯定的観察的な目を向けるやり方を知的に学んでいきます。それによって自我意識の側は否定的、操作的態度から肯定的な受けとめ方に切り替わろうとしはじめます。

 二つ目はフォーカシング実践中での変化です。自我意識が謙虚になって自分を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとする(理想の)プレゼンス状態への変化が体験的に培われていく段階です。この、体験による自我意識の変化の過程をより細かく見て行くとおもしろいことがわかってきます。それは、フォーカシングを行う際に言語化まで至らなくとも治癒や変化が起こることへの答えともなります。私は、フォーカシングの実際場面での、この、より良いプレゼンス状態にあろうとする自我意識の動きを詳しく検討してみました。そしてそれらをフィードバックして実践面でも応用しています。私なりの解釈なので偏りがあるかもしれません。でも本質をついているところもかなりあるように思えるので今回試論として発表してみます。

 それは、私の禅の修行体験と禅の思想の視点から、フォーカシングを見ていくことで明確になってきたものです。フォーカシングの「理想のプレゼンス状態」は禅でいう「悟り」に至る前段階の、雑念などがでなくなった「禅定」といわれる状態とずいぶん似通っています。

 先に『フォーカシング・ニューマニュアル』の本から引用した文章の中に「…落ち着いてすわっている…」という表現がありましたね。これを読むと私は、その最たるものである坐禅を連想します。また『プレゼンスの力』という章には『プレゼンスの本質』という詩的な項目があります。その中には「あるがままに全てを受け入れること」「何も知らないこと・・・・・可能性をはらんだ空っぽの場所」という表現があります。これはまるで禅の「あるがまま」や「無心」とそっくりです。このような似かよった表現があるということは、両者が同じあり方を基礎に持っているからではないでしょうか。

禅の修行における意識の変化過程

 (…注:私の禅修行においてこれを記した2015年5月の時点の考えと2016/11月の時点とでは、禅に対するとらえ方が随分違ってしまいました。今でもここに記したような修行方法をとっている所も多いようです。けれども私が今学んでいる禅のあり方からすると、観察する部分があるのではいつまでたっても二人連れです。「今、事実は常に一つ」の禅からすると、余計なものがまだある。ということになるのです。そこで現在の私の修行は観察する事さえもしない。要するに何もしない修行となっています。それに二人連れ、というのも実は違っていて、観察している瞬間は「観察している」というのしかないのが事実なのです。とにかく「~する」というのが入り込んでいるうちは本物の禅ではないのです。禅の真髄は何もしないで「只ある」ということのようです。…)

 私は煩悩多くて悟りには程遠いですが、こりないで禅の修行を長年続けてきました。禅では「悟り」状態が光を放って目立つために、一般的には悟りの境地についての話題が中心となりがちです。でもそれらは全て絵に描いた餅なのです。禅の老師は、そんなものを思い浮かべる自我意識こそが悟りの邪魔をしているのだといいます。意識が「悟り餅」を描こうと働くより前にある「いま」あるがままの事実に触れなければなりません。そこで修行の実際では、悟りを求めるのではなくて意識的努力(計らい)や雑念などの思念を断つことを重要課題として工夫していくのです。それが徹底すれば忘我に至り、元来からあった法の世界が現前してくるので必ず悟れるというのです。

 思念を断つといっても簡単にはいきません。次から次に念が湧いてきます。念が湧くのが当たり前になっています。私などは何かに夢中になっている時以外は、朝から晩まで暇さえあれば頭はあれこれ考え続けています。悟った人からいわせればこれは「ハイキングに行って身体は美しい自然の中に触れているのに頭部は、洞窟の中に入ってテレビに夢中になっている」というくらいに、ひどい心身分裂状態なのだそうです。一人でフォーカシングをやると集中が持続しないのは、この意識のかってに動き回る癖のせいですね。

 私の修行している曹洞宗の禅道場では「いきなり無我とはいかないので、方便として心を一点に集中し続ける工夫をしなさい」といわれます。臨済宗派の方では、数息観といって呼吸に合わせて数を数えることで意識を一点に統一できるようになる工夫からはじめます。どちらにしても飛び回る意識を一点に絞る工夫がなされています。そんな修行方法の中には、自分の内面に目を向けて、雑念が湧いたら「これなんぞ」とそこを見るようにしなさい、という工夫もあります。禅の理屈では見ようとすることで飛び回っていた意識が一つに統一されて、心が静まり禅定が深まってくるというわけです。これはフォーカシングでフェルトセンスに焦点をあてていく時の意識の動きとまったく同じです。

 フォーカシングでフェルトセンスに注目していると、それが消えてしまったり、フェルトセンスを言語化しなくとも安定が訪れることが度々あるのはフォーカシング体験者の誰もが経験済みと思います。気になる所を見守るだけで、ハッキリとしたフェルトセンスに行きつく前にことは済んでしまう。これは焦点付けるという動きによって、それまで飛び回っていた意識が一点に落ち着いてきたからなのです。

 禅の見解では事実は「いま、いま、いま」と常に意識に先んじ、縁に応じて動いていっています。その動きは一筆書きのような作用なので、事実に葛藤はありえないのです。「いま」の事実は既に終わっているのに、いまの直後(ベンジャミン・リベットの実験によると約0.3~0.5秒後くらいといわれてます)に意識がそれを認め、捕まえます。そして良い悪いなどと価値判断を持込み、葛藤し、悩みはじめます。

 その事実を約0.3~0.5秒後に認め受けとめる価値判断(受けとめ方・自己概念)には非常に個人差がありますね。本格的な心理療法ではクライアントが悩みや症状をポジティブに受けとめることでそれを乗り越えられるようになるために、この受けとめ部分の改善や成長が目標となります。でも禅では受けとめ部分が働かないようにすることが目標です。まず「事実」のみに意識を注目させて、余計な思念を断つようにと修行します。そしてもっともっと思念を断っていくことで、最後は受け止める部分全てが無くなるようにと徹底するのです。

意識の「見守ろう」とする動きの効果

 禅では自我意識に対して否定的なので、修行者はへたをすると自己嫌悪に陥り挫折しかねません。私は自己肯定的なフォーカシングを禅修行に取り入れることでこの辺りを脱することができました。

 坐禅中になかなか雑念を断ち切れない私は、ガッカリして「ダメだなあ、またやってしまった…」などと念を継ぎ足し自己嫌悪に陥り、やる気までなくしていまうという繰り返しに嵌っていたのです。そこで、その雑念や思念の起こる辺りをフォーカシング的にやさしく「見守る」ことを試してみました。これはかなり役立ち、自己嫌悪に陥らないようになりました。また、意識が雑念に流されていない時は、今度は頑張り過ぎというか「これで良いかな」「もうちょっと早くうまく上達する手はないかな」などと強迫的に計らい続けていることにも気づけたのです。そういえば禅の老師からは「素直に言われた通りにやればよい」とさんざん言われていました。けれどもそう言われても、自分が素直でないとは疑いもしませんでした。それ程に「うまくやる」ことは私の一部と化していたようです。

 私は時に、フォーカサーや心理面接中のクライアントなどに「頭さんに注目してみましょう」などと、当人の意識自体をチェックしてもらえるような言葉を投げかける場合があります。ちょっと操作的なのですが、ねらいは、表面化していない内心の動きを知りたいのと同時に、フォーカシングなどの目前の課題にスムースに入っていけるようになってもらうためです。すると私自身がそうだったような「うまくやらねば」「失敗しないように」「良い悪い」や「他のことが気になっている」などの意識の余計な計らいや注意散漫に気がつく人がいます。それに気づいた時には、そちらに働いていた意識の動きはもう止まっていて、その分リラックスが深まります。また目前の課題にすんなりと入っていけるようにもなります。この方法は対人緊張が強い人のリラックスにとても役立ちます。

 この変化は、当人が「自身の意識の余計なはからいに気づいたからこそ、それが止まった」ということになります。でもこれは100%の正確さではありません。実際には「意識自体を見守ってください」といわれて、内を見ようとするその時には、良いか悪いかチェックしたり心配したりなどと、それまで飛び回っていた意識は、すでに内面を見ようとする動きに変化しています。実はその時点で問題は解決していたといえるでしょう。

 意識自体を見守ろうとしなくても、フォーカシングには大いに自分を落ち着かせる要素がありますね。昔、阿世賀先生のフォーカシング講座で体の各部位を順次見守っていくやり方を学んだことがあります。とてもリラックスして眠気まででました。その時の心身相関を細かくたどってみると。身体がリラックスする前に、まず意識が「見守る」という単純作業に統一されて飛び回らなくなり鎮まります。次にそれにつれて身体もリラックスしてきます。するとそれまで緊張していたために表面化しなかった身体の疲れや眠気がでてくる、という流れが見えてきます。

 これらは言い換えると単に「落ち着く」ということです。でもこれが意外と難しいのです。「落ち着こう」「リラックスしよう」と意識することは、逆に意識を余計に働かせることなります。思考のループを助長させてしまうのです。前の章で「悟りは絵に描いた餅である」と述べたのと同じ作用です。一体化しているせいで考え過ぎていることさへ気づけない場合もあります。そこで登場するのが、この「内面を見ようとする」という行為なのです。意識が「見る」一つになったことで、動き回る意識の計らいに振り回されていた身体も一つに定まり落ち着いてくるわけです。

 内面を「見る」ということは、自らの内面と適切な距離を持つことができるという側面での効果もありますね。例えば、簡単にはいきませんが「強い感情に圧倒」されていたりする場合に、その強い感情の全体を見ようとすることで距離がとれてきます。この場合の心身相関もより細かに見てみましょう。まず強い感情が起ってくると、それを自我意識が捕まえて「何とかしなければ、でもできない、苦しい、このままではおかしくなるのでは」などと動き回りはじめます。強い感情はすでに過ぎ去っているのにその時の恐怖でこだわりができたのです。でも今度はそれを「見よう」とすることで、意識は考えることから次第に「見る」動きに集敏されていきます。そして見ようとすることに徹底できるほど身体も落ち着いてくるわけです。

 ……「強い感情に圧倒」されているという場合、感じの感じといえる「圧倒されている部分」を見守ることも見過ごしてはなりません。そのさいも心身相関的にはほとんど同一の動きとなります……

 心の「落ち着き」には深浅もあります。禅の修行の過程を10枚の絵であらわした「十牛図・牧牛図」というものがあります。中国宋代の廓庵禅師によるものが有名ですが、そこには牛との関わりを主題とする絵をもちいて、悟りに至る禅修行者の境涯の進展が表現されています。私の独断ですが、その図に禅の修行過程で深まっていく心の落ち着き度を当てはめてみたのです。すると、第三図の「見牛」で心が落ち着きはじめ、第七図の「忘牛」辺りでは深い静寂を体験するなど、悟り以前にあっても修行者の境涯の進展に付随して心の落ち着きも深まっていくようです。中西政次氏の著書『弓と禅 』の中には、その第七図辺りに相当すると思われる境地が「人跡未踏、神のみのしろしめる湖の小波もたたぬ水面の静寂さが来た」という表現で述べられています。そういえば仏頂禅師に参禅した松尾芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」にも深い静寂感が見られますね。

 フォーカシングのプレゼンス能力において「心の落ち着き」は必須といえます。そこで先に述べた禅修行でみられるような、その深まり度の側面に関してはどう見ていけばよいのでしょう。フォーカシングにおいて理想のプレゼンス状態(プレゼンス能力)を追求する限りは、この心の落ち着きの度の深浅も検討すべきではないでしょうか。

理想のプレゼンス状態 一体化からの離別

 禅ではフェルトセンス的なものは全く取り扱いません。何ごとにもこだわらないのが禅のあり方です。そのため概念化や言語化さへ余計な動きとして捨て去ろうとします。禅の修行は、心理臨床における無意識を自我に統合しようとする作業とは真逆に見える、自我本体を一度すべてなくして(忘我して)しまおうとする作業です。一見フォーカシングとは相容れないもののようにも見えるのですが、でも両者は理想の自我意識(プレゼンス状態)を追求するという点では全く同一線上にあります。

 これまで「禅の修行過程」と「フォーカシングにおける理想のプレゼンス状態への変化過程」を重ね合わせたり照らし合わせたりしながら比較検討してきました。最後に「一体化とそこからの離脱」の側面から両者を見てみます。……こだわリを排するせいか禅には一体化に当てはまる概念は見られません「何でも捨てていくのが禅修行である」といわれる中に図らずとも一体化からの離脱も含まれているといえます。でも私が思うに、一体化は心理療法のみならず禅修行においても大きな障壁となる場合が多々あるように思います……

 『フォーカシング・ニューマニュアル』の後半にある『プレゼンスと部分化』という章では、よりよいプレゼンス状態になるために、一体化に関する詳細な分析とそこからの離脱を追求しています。そこでは心理学用語の「一体化」を『部分化の状態にいる』と呼びなおし、実例にそって具体的に深く分析しています。それらは一体化からの離脱を実際におし推し進めていくためにとても役立つ概念となっています。禅では「何でも捨てていく」修行によって同じく一体化からの離脱も進んでいきます。そしてフォーカシングにおける一体化からの離脱よりももっと先まで、身体や自我意識なども捨て去って離脱していこうとするのです。そのようにして全ての一体化から離脱した暁には忘我状態が訪れます。そののち、我に返った時に悟りが訪れ、今度は「元々全てが一体(自分)であった」とわかるようです。

 さてフォーカシングにおいて、プレゼンスの理想のあり方は今後も追求されてしかるべきでしょう。それには部分化の状態(一体化)を見ぬき、そこから離脱するという作業をより拡大深化して行くことがメインの作業となります。そしてそのように広げ、深めしていった結果ですが、ついには身体内や自我意識への一体化も見ぬいていくことになるのでしょうか。理の上ではそれは可能なわけですが、はたして実際にはどうでしょう。

★参考文献:『フォーカシング・ニューマニュアル  アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバン 共著 』 『マインド・タイム~脳と意識の時間 ベンジャミン・リベット』 『弓と禅 中西政次 春秋社』 『意根を断つ今一度坐禅について 前編 少林寺住職 井上貫道』 『意根を断つ今一度坐禅について 後編 少林寺住職 井上貫道』



人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制

 人間関係で立ち起こる問題やトラブルの原因は意外に奥深く、わかりにくいものです。客観的に見れば良い人同士なのに、なぜかうまくいかない関係が多々あります。トラブっている両者の間に立って、互いの話を聞いてみると、両者ともに正当な理由を持っていたりして、一体どこに根本原因があるのかすぐには見つかりません。

 人間関係で悩み込むとか、トラブルまでには発展していなくても「なぜかあの人にはイライラさせられる」とか「どうもあの人は苦手だ」なとどいう人は必ずいるものです。そんな時に、なぜそうなのか説明しきれなくて最後は、あの人とは相性が悪いとか、馬が合わない、虫が好かないなどと言って済ませたくなったりします。

 けれども、そのような場合でもその原因は必ずあるのです。通常の意識ではわからない無意識的な心理が、人と人との関わりの背景にあって、知らぬ間に働いています。ここではそんな深層心理を理解するために超おすすめな「投影」といわれる考え方を紹介します。私は過去にこれを学んで「あぁ、こうなっているのかあ!」と目から鱗でした。人間関係で問題となる深層心理のメカニズムは、この「投影」という考え方を知れば、その大半を理解できるといっても過言ではないくらいです。

 この心理機制は、ただの机上の心理学ではありません。悩みの解決のために心理相談に訪れたクライアントがカウンセリングで自分に向き合い内省するなかで気づきや洞察、発見が生まれます。それによってクライアントは成長し、それまでの行き詰まりを乗り越えていくのです。そんな貴重な洞察の中には、同じ悩みを持つ他の人の参考になるだけにとどまらないで、広く一般にも役立つような素晴らしい卓見があります。そのひとつがこの「投影」という心理規制なのです。

 精神分析学の後継者でもあったフロイトの娘のアンナ・フロイトがまとめたこの心の防衛機制とは、自我が自分のあり方(アイデンティティ)を守るために、心の自然な動きや事実を自分の都合の良いようにねじ曲げて思い込んでみたり行動したりする無意識的な働きのことです。人の心の動きをみごとにとらえている「投影」はその中の代表格といえる考え方です。

ルビンの壺

『ルビンの壺』 白色に注目すると壺に見える。黒色に注目すると二人の横顔に見える。両方一度に見ることはできない。

 投影とはどんな考え方なのかを、喩え話ふうにいうと『人はそれぞれに自分独自の色眼鏡(価値観)で世界を見てしまっている。でも長年の経過によってその色眼鏡は肉体の一部と化してしまいそんなメガネをかけていることは忘れてしまう。そして、他者を見る時にも疑うべくもなく、これがホントの事実だと思って見ている』となります。

 私自身の実体験(人間関係に働く自我の防衛機制の具体例)からも、後に投影していたのかと気づくまでは、まるでそれが事実でした。あなたは「まさか私は違う。色眼鏡などかけてない」と言うでしょう。でもこれは「夢から覚めてようやく夢だったのに気づく」のと同じ体験なのです。それに人は、ある思いや感情でいっぱいになっている時には、他の思いがあってもそれは心の片隅に追いやられてしまいます。他からの良い考えも入り込む余地はありません。そんないっぱいの思いや感情から他人に接している時はやはり色眼鏡をかけて人と接しているといえるのです。

 「何か、あいつを見ているとイライラ来る!」などという時に、この投影が働いているわけです。それは無意識的なものですから「何だか虫が好かない」などというように本当の理由はすぐにはわかりません。この時、無意識に蠢いた心をあえて言葉にしてみると「せっかく私が我慢したり押さえこんだりしていることを、なんでお前は平気でやっているのだ!」などといえるでしょう。自分は真面目に「こういうことは我慢しないと」と頑張って我慢していることを、あからさまに体現されてしまっているのでは確かに腹も立ってきます。

 苦手な人や馬が合わない人との関係で苦しんだり、家族関係でのいざこざなどの背景に、この「投影」と名付られた心の動きがあるのです。

 否定的な投影はその相手にイライラや怒りを感じたり、攻撃心がでてきます。よりやっかいなのは、価値がないと否定したものを映した相手はデフォルメして見えるので、その相手全てをダメな人と見下してしまうことです。親密な関係などでの、長期的な上から目線は相手をとても傷つけます。見下された当人はそれに対抗せざるをえなくなり、関係はますます悪化していくという構図に陥ります。

 大恋愛で結婚したのに「こんなはずじゃなかった」などと言って呆気なく離婚に至るという話を時々聞きます。「こんなはずじゃなかった」と発言するということは、自分に都合のいい理想像を相手に投影して、期待や予想以上に、まるで事実そうであると思い込んでしまっていたからです。この場合、もちろん相手も元々少しはその傾向を持ってはいます。でもそれと自分の内の投影したものが重なると、そのイメージは肯定的にも否定的にも倍加してしまうのです。

 「投影の引き戻し」というのがあります。相手への強い怒りの感情が収まったりしたさいに洞察が起こるのです。ふと「・・・随分イラついていたな。でも、もしかしたら私はあいつのやっているようにやりたかったのかもしれない。私は今までずいぶん我慢してやってきてたんだな・・・」などと相手に見ていたものを、自分のこととして引き受けられるようになります。すると嫌っていたり苦手だったりした他者に対しての引っ掛かりがなくなり楽に接することができるようになるのです。もちろん自分の内面との軋轢もなくなるのでその点でも楽になります。

 例えば働き者で、朝早くから忙しく家事に動き回っている母親がいるとします。そんな時、自分の娘がゆっくり朝食をとったりしているのを見ると「この忙しいのになんでさっさと食べないの!」とイライラしてきます。それでつい叱ったり、お前はノロマでダメ、などとなじったりせずにはいられなくなるのです。…自分の内面の否定したい部分を子どもに見てしまって、それで必要以上に怒ってしまい、ついには幼児虐待までエスカレートすることもよくあることです…

 そんな母親が子どもに怒るのは良くない、やめようと無理に我慢しても長続きはしません。でも「・・・実は私こそがゆっくり、のんびりしたかったのだ」などと気づき、子供への投影を引き戻すことができたなら、その時にこそ、子どものゆっくりペースも認められて自然にイライラしなくなります。また「私は働き者である」などという頑張るだけの価値観も緩んでくるので、疲れたらじっくり休むことも余裕でできるようになるでしょう。

 井戸端会議や飲み会の席で、その場に居ない人をやり玉にあげて噂したり批判し合う時には「私はあの人とは違うわ、ちゃんとした人よ。ちゃんとした者同士で仲良くやりましょうね」などというような心理が裏で働いているのです。また例えばホモセクシュアルを極端に嫌う人は、自分の内の誰にでもあるレベルのホモ的要素まで「あってはならないい」と抑圧している人なのです。相手がどうあろうと自分の側にこだわりがないのなら響き合わないし無関心でいられるものです。

 イジメや差別、村八分、戦争などの暴力行為にまで至ってしまうような悲惨な出来事や事件の背景にも、この投影の心理がある場合が多いのです。特に、自分の持った価値観との一体化が強くなればなるほど、自分自身までその価値観と同じに絶対で居なければならなくなってきます。…「このような人であらねばならぬ」というような価値観に一体化(同一化)するということは、長所も欠点もある人間的な等身大の自分と、こうあるべきという理想像との区別がつかなくなっている状態ともいえます。育ってくる過程にあって、等身大の自分で居ることが許されなかったのか、それともあまりにもまじめに、人はこうあるのが良いのだと思って頑張り続けたのか、まるでその価値観であることが自分の存在価値の全てであるかのようになっているようです…

 すると自分の価値観が一番良いという段階にとどまらず、他の価値観を持っている人間はすべてダメ、価値がないとまでになります。そこまでいくと「私はこういう価値観(考え)を持っているけど、あなたはどんな価値観(考え)なの」などというような共存共栄的な態度は持てなくなります。一体化によって自分の価値観を外に置いて客観的に見るというような距離感がなくなるために、他の価値観やそれを持った人をも認めることができなくなってしまいます。他の価値観を認めることは自分の持っている価値観がダメになるだけでなく自分自身がダメになる。それは死を意味するのです。

 …あくまでも本当のところはわかりませんが。2016年に起きた障害者施設大量殺傷事件の犯人の深層心理に、例えば「優秀で、強くあらねばならない」などというような価値観への、ある意味純粋すぎる一体化したあり方があったのではないでしょうか。でも、彼はいくつかの挫折から、それを保てなくなったのでしょう。そんなアイデンティティの危機を回避するために、あまりにも行き過ぎた行動をとってしまったのではと推察されます…

 ナチスのユダヤ人虐殺のさいには、ナチスの優秀性を絶対化したいがために、自らの劣等性を引き受けることなく、それを全てユダヤ人に投影して見ていたのは確実でしょう。そして(劣等生を体現している)ユダヤ人を抹殺することで自らの優秀性が証明され、ひいては自らの存在価値が高まるかのように思い込んだのでしょう。

Rorschach1

インクのしみテストともいわれる。ロールシャッハ・テストの中の一枚。「何に見えるか」と問うていくと全く同じしみなのに人それぞれに違ったものに見える。その言語表現を分析すことによって性格傾向などを読み取ろうとする心理テスト。

 幕末から明治に生きた原担山という禅僧の有名な逸話があります。担山が雲水時代に禅友と二人で旅をして歩いていると、小川の手前に、洪水で水かさが増したので渡れなくて立ち往生している若い女性がいました。担山はその女性を抱えてさっさと向こう側に渡してやりました。

 その後、夕暮れ時になって担山が友人の雲水に、そろそろ宿を取ろうかと話しかけると友人の雲水は「出家の身なのに、女と接した生臭坊主とは一緒に泊まりたくない」と言ったのです。仏教には女性に触れてはならないという戒律があったからですね。すると担山は「なんだお前はまだあの女を抱えていたのか、わしは川を渡した時にすっかり降ろしてしまったよ」と言ったのです。

 担山和尚ズバリ。相手の投影を見抜いてうまいこと言いますね。彼の友人の雲水は、元々まじめに「出家者は女性に触れてはいけない」と思っていた事でしょう。そして女性に触れたい気持ちを押さえ込んでいるうちに、ついには女性に触れたい気持ちが時々湧いてくることさへ認められなくなってしまったのです。ところが、それをいとも簡単に破っている担山の姿を目の当たりにしました。それによって、彼の内で押し込めたそれが揺さぶられて不安定になってしまったのです。自分が不安定になった理由として「相手がそれだけ酷いから」そうなったのだとすれば都合良く納まりがつきますね。

 そんな彼には担山が、まるでひどい女たらしに見えたことでしょう。さらに「女性には触れない、まじめな出家者としての自分」を守るためには、そんな自分を不安定にさせるものは切り捨てるに限ります。そこで大義名分として「女と接した生臭坊主とは一緒に泊まりたくない」と言うことになったわけです。

 投影という心理機制の考え方。あなたも、もし何かに対して声を大きくして文句言いたくなった場合など「あれ?自分はもしかして、ああなりたいのかしら?」などと思ってみると、自分を成長させる良いきっかけとなるかもしれませんよ。

 でもあなたの家族や友人が、嫌いな人を批判したり愚痴を言ったりしている時に「それはあなたが、自分の内面をその人に投影しているのだよ」などと決して言わないでくださいね。「そうか、わかったありがとう」などと言ってくれる人なんてまず居ません。逆に、あなたまで嫌いな人の仲間入りとなる危険がありますので。

 ところで、より自分を深く知りたい。と思うならやはり心理療法の場で、信頼できるカウンセラーに手伝ってもらいながら取り組むのが一番確実です。心理面接の場では、カウンセリングなどによって洞察が進むと、自然に投影の引き戻し作業がおこなわれます。そして自らの弱さや不完全性に気づき、そんなありのままの自分をあらためて愛おしく感じて再生していくクライアントも居ます。それは根気のいる作業ではありますが、心が次第に楽になっていく過程でもあります。もちろん「投影の引き戻し」ができると人間関係も楽にスムースになります。

★参考ページ:『当相談室の心理療法について』『人間関係に働く自我の防衛機制の具体例』『個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法



お勧めの心理関連本の紹介

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 河合隼雄ファン必見!すごいステキな本です。河合隼雄ファンだけでなく小説好きな人にもお勧め。いやいやどなたにもお勧めの一冊です!

 2006年6月15日に小川洋子さんと対話した河合先生最後の対談本です。河合先生はその二ヶ月後2006年8月17日に脳梗塞で倒れて入院しました。そのためこの本の後半部は対談でなくて小川洋子さんの「少し長すぎるあとがき」となっています。でもさすが作家というか小川洋子さんのさらりとした抑え気味の表現でなされたすごいステキな、只の後書きとはいえないあとがきです。その良さをもうちょっと詳しく書こうと試みましたがいろいろありすぎるせいか言葉にできませんでした。

 私が一番気に入ってオレンジ色マーカーひきまくったのは、カウンセリングや心理療法の根幹にして全てである共感(寄り添う・傍にいること)の真髄について河合プロが平易な言葉でうまいこと表現しているところです。 人を解る(共感する)ということがどんなことなのか、どんなに大変な作業なのかがより具体的にわかります。

 160ページ弱の薄めの本で読みやすいです。あなたもぜひ手にとって読まれてみてください。

★参考図書:『生きるとは、自分の物語をつくること



リラクゼーションと自然治癒力

 こころとからだのリラックスがとても大切なことは万人の知るところです。

 ではなぜリラックスが大切なのでしょう。それはリラックスすればするほどに生命体の働き(自然治癒力など)が活発になるからです。緊張することは逆にこの働きを滞らせてしまうのです。

 例えば被災地を復興するには、復興するに必要なものをそこに持ち運び、被災して不必要になったものは持ち去って破棄します。ところが時に、被災地までの道路が分断されていてトラックがそこまでたどり着けず復興がおくれてしまうということが起こります。緊張するということは、この被災地に通ずる道路を分断はしなくとも狭めてしまうことになるのです。荷物を積んで被災地までを往復するトラックは渋滞に巻き込まれてしまい身動きできなくなるのです。リラックスすることは、この大切な被災地までの道路を広々としたものにしつらえることになるのです。

 リラックスすればお腹も胸ものびのびと動きます。胸やお腹の辺りにある様々な内臓器官も楽にスムースに動き、働くことができるるようになります。例えば食べ物を食べれば、リラックスしてのびのび動きやすくなった胃や腸やその他が必要な栄養素だけを速やかに吸収してそれ以外はスムースに排泄するように働きます。滞りが無いために体内を常に新鮮に活き活きと保てるのです。

 深いリラックスによって身体(筋肉)が緩むと血液の流れ道である血管も広がります。そうなればまるで渋滞のない広々した道路のように血管の中を血液がスムースに流れます。体のあちこちにたまった老廃物を血液トラックさんがさっさと持ち去ることができます。またその逆に必要な栄養素を速やかに体の隅々まで配達しやすくなります。流れがスムースになればなるほど自然治癒力は働きやすくなるのです。他のリンバや神経の流れや、東洋医学でいう経絡の流れ、はたまたインド発祥のヨガでいうクンダリーニの流れなど「体内の様々な流れ」も同様です。

 心も同じです。「心を開放する」といいますが、緊張があるところで解放はスムースに行きません。リラックスすることによって心的エネルギーものびのび活き活き流れるのです。

 「ストレスが溜まる」と言いますが、緊張によって流れがせき止めら否定的な感情や情動が鬱積している状態です。でも、深くリラックスして眠れば睡眠中に、この溜まったものが開放、調整されます。それと意識しなくとも目覚めた時にはもうスッキリと調整が終わっている場合だってたくさんあるのです。睡眠中に見る夢は、この脳の自己調整作用の働きのモニターのような役目をしているようです。

 泣くこと、涙を流すことはヒトの大切な営みのひとつです。カウンセリング場面で苦しく辛かった思いを話す時、涙が溢れます。また時にはフォーカシングで自分を見守ろうと目を閉じ、内面に目を向けただけで、なぜだかわからないけど涙が溢れて止まらなくなる場合もあります。そのようにして涙を流しきった後には、涙でお化粧は剥がれていても不思議に眼はパッチリクッキリとしてきます。まるで使用前使用後のように、つやつやいきいきとした顔つきに変化する人も多いです。涙とともに心の閉ざされていた部分が開放されて道が広く繋がり流れが良くなることで心も身体も新鮮に蘇ったのでしょう。

 ところで深いリラクゼーションを得るためには「ほっと安らぐ」ことがなければなりません。そのためにはできるだけ居心地の良い環境になるようにしつらえる工夫が必要です。例えば家族や友人に余計なことは言われないで、ただ寄り添ってもらったり、共感してもらえればそれは大きな(心の)支え環境となります。また人間よりもペットの方がより気持をわかってくれて支えになる場合もありますね。自然に包まれることもその大きな一つです。先月永眠された「森のイスキアの佐藤初女」さんは「食事をして美味しいと感じた時に心が開放されるんですよ」とNHKアンコール アーカイブス「心をわかちあう」の対談で話されてていました。またお風呂に気持よく入れたなら、それもかなり深いリラクゼーションとなります。

 リラクゼーションに導かれるきっかけをいろいろ述べてきました。それら全ては、いろいろ心配だったりして苦悩したり、焦ったり、一人でいろいろ考え続けて(頭が)一時も休まることもなく頑張り続けている部分をピタッととめる効果があるのです。人はホッとすると何も考えなくて良いようになります。想像力がある人ほど悪いことを想像すると、まるで本当にそうなったかのように身体までそれに反応してしまうのですが、それも止まってしまうので心身ともに楽になるわけです。

 逆にいうと、頭が思い煩い考え続けてしまっているうちは周りがとてもよい環境になったとしてもそれが内面まで響かず深いリラクゼーショが得られない場合もあるのです。また強い自己否定が癖になっていると、周りからのよい働きかけさえも自己否定の回路と結びつき、結局最後はいつものように自分を責めることになりかねないのです。このあたりのことは次回に「リラクゼーションと自然治癒力その2」でもう少し詳しく述べてみます。



心の傷を癒す睡眠

 睡眠を充分取ることは身体の健康だけでなく、心の健康にとっても非常に大切です。ところが最近は睡眠不足の人が昔に比べ増える傾向にあるのです。これは当相談室に来談される、差し迫った心の問題を抱えた方の話だけではなくて現代人全てに共通していえることです。科学の発達によってさまざまなことが便利になったのはとても良いことです。便利になればゆとりが出るはずなのに、でも時代は逆にスローライフから遠ざかるばかりですね。生産性を高める効率(主義)化、イコール過密スケジュールとなってしまったのです。おかげで睡眠をたっぷり取るような無駄な時間はなくなってしまいました。

 私の敬愛する禅の、井上希道老師は近年、参禅する方の中に疲労の溜まっている方が増えてきた、と言います。広島の少林窟道場に上山して禅修行に入ると、それまでからだに蓄積していた疲労が表面化してきて、坐禅中に眠気が出てくる人が多くなっているのです。井上老師は「疲れて集中力がないままに修行をしても良い結果は出ない。まずよく眠って疲れをとり、集中する気力を回復してから修行をしろ」とよく言われています。

 当相談室で不定期に開催している催眠セミナーに参加される皆さんにも、セミナー途中で、催眠を利用したリラクゼーションを行うと、昔に比べより多くの人が睡眠に移行します。忙しい毎日を過ごしていて睡眠不足気味だったり、うつ状態までいかなくともかなりの疲労が溜まっていたりしているのです。能力開発の前に疲れを取ることが先決となっています。

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 統合失調症治療の第一人者であった精神科医中井久夫氏は『精神科治療の覚書』の中で「統合失調症の発病前には必ずといっていいほど睡眠障害がある。統合失調症から回復した人が不眠に気をつけて再発せずに済んでいる場合も少なくない」と述べています。またネット上の情報『心の傷を治すのは時間ではなく睡眠・・・』では、米国カリフォルニア大学神経科学者マシュー・ウォーカー氏が「睡眠に多くの重要な働きがあるがその一つが、心の健康を維持しやすくするという働きなのだ」と話しているとあります。彼の研究チームの睡眠に関する実験からは「睡眠(特に夢を見ているレム睡眠)には心の傷を癒す効果がある」という結果が出たそうです。

 睡眠時間はただ長ければ良いというものではありません。質の良い睡眠のために、できるだけリラックスして深く眠れるようになるための工夫も大切です。図式としては『心がほっと安心する⇔身体がリラックスする⇒深い睡眠⇔レム睡眠時の解放調整作業の活発化』という感じで心身の調整作業は深まっていきます。そうなるには入眠の前に、心がホッとしたり、楽になったり、伸び伸び解放されていたり、また身体がほぐれてできるだけリラックスしていたりする必要があるのです。