カテゴリー別アーカイブ: 心理カウンセリング

カウンセラーを捜す時に気をつける事

 ある著名な文筆家のカウンセリングに関する著書に、自分に合ったカウンセラーを見つけるには五年かかるとありました。ちょっとビックリですね。五年したら治ってるよ、と突っ込み入れたくなりますが。でも確かに自分に合うカウンセラーを見つけるのはそうそう簡単にはいかなそうです。

 普通はごくシンプルに「こんなカウンセラーが良いなぁ」と思い浮かべるような人を探す事になります。そしてそれに近い人が居ればそのカウンセラーと心理面接に取り組むことになります。けれども、残念なことに力量のあるカウンセラーばかりではないのです。心は見えないせいもあって、一見頼りになりそうな人でも、それは表面的なものに過ぎない場合もあります。

 カウンセラー選びに限らず、他の例えば自分に合う靴や、自分のやりたいことに見合うパソコンを選ぶ際にもよりピッタリしたものを欲しいなら、時間や足をかけて探す必要がありますね。そして靴でもパソコンでも、自分にあったものを選ぶ際には失敗しないようにチェックポイントをわきまえて調べていくべきです。それと同様にここではカウンセラー選びをする際に気をつけるべきチェックポイントを述べてみようと思います。

 まずはじめに、悩んでいる当人に親身になってくれる人でなければ話ははじまりませんね。そして次に話がしやすい人です。特に反論がしやすく、そこをしっかり受けとめ聞いてくれるカウンセラーだったら、もうかなり良いカウンセラーに出会ったといっても良いでしょう。ここで注意しなくてはならないのは、悩み苦しんで「どうしたら良いかわからなくて早く答えが欲しい」と思っている場合は「こうしなさい」などとハッキリしたことを言ってくれる力強いカウンセラーが良いように見えることです。もちろんあまりにも自分が頼りない場合にはカウンセラーにしっかり支えてもうことが必要な時もあります。でも何時までもそれだと自立できなくなってしまいますよね。

 それでなくても私たちはカウンセラーの所に相談に行こう思うと、ちゃんと話しできるかしらなどと気が引けたりするし、ましてや反論など思いもつかないくらいに自分が下に見えたりもしてきます。ですからあまりにもカリスマ性が強いようなカウンセラーだと頼りがいあって良いようだけど、ずっと上下関係のままになってしまってほんとうの意味でよく(自立)なれないのです。

 その逆の、会うと話がしやすくて反論などもできそうなカウンセラーはカリスマ性がなくて普通のただの人に見えたりします。おまけに自分の悩みを早く良くしてもらいたいとの期待が強かったりすると、そのカウンセラーがなんだか頼りなく見えてくる場合さえあるのです。でもそんなカウンセラーの中にも意外に力量のある人がいるのです。ですから「こうしたら良いとか、すぐには答えがでなかったけど、なんかよく話ができたし気持ちをわかってもらえたな」などと思えたなら、そのカウンセラーの所にしばらく通ってみるのが良いでしょう。

 やはりカウンセラーに最も必要不可欠なものは、なんといっても共感能力です。わかってもらえそうな感じがしないカウンセラーや心理療法家は、はなから避けた方がいいと思います。知名度が高くカリスマ性があったりして説得力があるので、カウンセラーとしての力量がとてもありそうに見える心理療法家がいます。でもその中には自分の考えをアピールするには長けていても、悩み苦しむ人の心に寄り添うことはできない人がいるのです。

 なぜかというと、一面的で断定的な物言いをするほうが一見すると説得力がでます。そのような表現をする人は、割り切った考えが身についてもいるでしょう。それで本人は確かに葛藤したり悩んだりすることはないかもしれません。けれどもその分、様々な葛藤を抱えたりして悩み苦しんでいる人をわかることもできません。思慮深くなればなるほど明解な言い方はしにくくなるものです。その意味ではあまりに明解な言いをするカウンセラーもよした方がよさそうですね。

 共感能力をもう少し詳しくいうと「悩み苦しむ人に寄り添ってそこを共にしていける能力」といえます。河合隼雄先生は作家小川洋子との対談本『生きるとは、自分の物語をつくること』の中でそこを「悩み苦しむ人のいる世界の内側にとどまるということが大切」「望みを失わずにピッタリ傍に居れたらもう完璧なんです」などと表現しています。

 河合先生はとてもわかりやすい言い回しで述べていますが、これがなかなか至難の業なのです。カウンセラーは自分の心の器を広げ深めるために、心理学の勉強はもちろん、その他、人の心に関するあらゆる勉強をしなければならないとも河合先生は言っています。ホントの意味で器の大きな人というのでしょうか。「望みを失わずに悩み苦しむ人の傍にいる」というのは結構命がけだったり、フラフラになったりと大変な心の作業なのです。

 昔、カウンセリングに長い間通ってきていたクライアントから「先生は紙のお皿くらいの器だ」と言われたことがあります。その当時、私はそのクライアントが面接の中では全く自分に向き合った話をしないことにイラついていました。そのクライアントを内心では「何で肝心の所を話そうとしないのだろう」と責めてもいたのです。そしたらちょうどそのクライアントが登場する夢を見ました。

 その夢の中で、クライアントは高い高い崖の上の道の、直角に近いカーブの出っ張りの所から崖下の川に向かって釣り糸をたれていました。私はそのクライアントの傍に行こうとしましたが、あまりにも崖が高くて下を見て怖くなりました。みっともないことに、すぐに私は一人で這いずりながら安全な場所に逃げました。

 この夢で、私は意識の上でクライアントを責めていたけど、実は私自身が逃げていたことに気付かされました。ちゃんと釣りをして獲物を得ようとしているクライアントなのにそこは全くわかっていなかったのです。私はそのクライアントの居る、ギリギリの崖っぷちの世界が怖すぎて一時も一緒には居られませんでした。恥ずかしながら、これでは「紙のお皿くらいの器」と言われても当然ですね。

 この辺りの感じは、真摯に悩んでいる状態でしたら「このカウンセラーわかってないなぁ」とかすぐにピンとくるのでそう感じたら「先生の器は紙のお皿くらいですね」とそのカウンセラーに言ってみるか、他を当たるかした方が良いでしょう。後もうひとつ、心理面接にはカウンセラーとの相性も大事です。といっても相性が良いか悪いかなどを深く考えるとよくわからなくなってきますよね。このところは「このカウンセラーは何か感じがいいな」などの閃きというか直感的な感覚の方が当たっている場合が多いようです。


フォーカシングで盲点となりがちな自我意識の変化過程

フォーカシングにある二つの流れ

 フォーカシングを一般化していうと「思考による解決手法をちょっと横において、無意識的な働きや身体的働きなどの、自我意識を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとすること」といえます。それを実際面でやりやすくするためにハウツー化したものがフォーカシングの6段階のステップです。

 よく「ストレスが溜まる」といいます。この状態は、例えれば川や水路が狭められて流れが淀み、水が溜まってダム化してしまった状態といえるでしょう。トラウマも同様にそれを押さえこんだ時の身体の緊張とともに流れ出ることを封じ込められています。意識的無意識的に緊張することで、心の流れの路が狭まります。時にはそれが断たれてしまっているかのように見える場合もあります。

 この水路イメージにフォーカシングを当てはめてみると、フォーカシングのテクニックは、その流れの滞った辺りにフォーカスして、そこに溜まったものが無理なくスムースに流れ出すように働きかけるものです。その技法は、心的エネルギーの流れの抵抗を解き放つ心理技法の中ではとても洗練されています。ちょっと古いかもしれませんが、精神分析における抵抗分析と比較すると、その差はイソップ物語の「北風と太陽」の物語に匹敵します。

 フォーカシングでフェルトセンスと名づけた「意識化されていない曖昧な感覚の全体」へのアプローチによって、先に述べたようなストレスやトラウマの適度な解放ができることから治癒が起こります。また時には否定的なフェルトセンスの奥にあった肯定的なものとの出会いや、自我意識を越えたところからのメッセージを受け取り、クリエイトできたりもします。これらの体験には意外性があったり、また涙を伴うことがあったりするなどと、とても感動的です。これがフォーカシングの醍醐味といえるでしょう。このようにフェルトセンスに注目して、そのフェルトセンスが変化、展開していくことによって良い結果が生まれるというのがフォーカシングのメインストリームです。

 けれどもフォーカシングにおいては、フォーカサー自身の意識の側が変化したことによる効果も忘れてはなりません。アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバンの共著『フォーカシング・ニューマニュアル』ではフォーカシングにおける理想の意識のあり方(プレゼンス)を詳しく検討しています。それにそって考えてみると、フォーカサーの自我意識が理想的なプレゼンス状態に育っていくことの方がより重要なことのように思えてきます。最近この側面に関しての言及が以前より増えてきましたね。

 さて理想的なフォーカシングの構図は「フェルトセンス」対「プレゼンス状態」であらわされます。でも現実でのフォーカシングでは「フェルトセンス」とそれに対峙する「理想のプレゼンス状態であろうとする自我意識」というのがより正確です。この「理想のプレゼンス状態へと動いていく自我意識」自体の変化は、フェルトセンスの変化する時の感動に比べ、地味というか微細で目立ちません。そのせいか私の知る限りですが、自我意識が理想的なプレゼンス状態になっていく過程においての、その具体的実際的な動きはそれほど明確化されていないように思います。

 この、より良いプレゼンス状態に移行しようとする自我意識の側の変化は大きく二つの段階に分けられます。一つ目は既知のことですが、フォーカシングの準備段階での知的理解による自我意識の変化のはじまりです。本『フォーカシング・ニューマニュアル』のはじめの方には『何かについて「取り組んでいる」という態度から、何かと「いっしょにいる」という態度に意識的に変わるとき、全てが違ってきます。それといっしょにすわっている…落ち着いてすわっている…と想像することが、この変化を起こりやすくします』とあります。

 フォーカサーはフォーカシングを学ぶ前までは、往々にして自分に否定的だったり、操作的であったりします。それがフォーカシングをマスターしようとする初期段階で、先に述べたようなレクチャーによって自分の内面に肯定的観察的な目を向けるやり方を知的に学んでいきます。それによって自我意識の側は否定的、操作的態度から肯定的な受けとめ方に切り替わろうとしはじめます。

 二つ目はフォーカシング実践中での変化です。自我意識が謙虚になって自分を越えた存在と繋がり、そこの知恵に教えてもらおうとする(理想の)プレゼンス状態への変化が体験的に培われていく段階です。この、体験による自我意識の変化の過程をより細かく見て行くとおもしろいことがわかってきます。それは、フォーカシングを行う際に言語化まで至らなくとも治癒や変化が起こることへの答えともなります。私は、フォーカシングの実際場面での、この、より良いプレゼンス状態にあろうとする自我意識の動きを詳しく検討してみました。そしてそれらをフィードバックして実践面でも応用しています。私なりの解釈なので偏りがあるかもしれません。でも本質をついているところもかなりあるように思えるので今回試論として発表してみます。

 それは、私の禅の修行体験と禅の思想の視点から、フォーカシングを見ていくことで明確になってきたものです。フォーカシングの「理想のプレゼンス状態」は禅でいう「悟り」に至る前段階の、雑念などがでなくなった「禅定」といわれる状態とずいぶん似通っています。

 先に『フォーカシング・ニューマニュアル』の本から引用した文章の中に「…落ち着いてすわっている…」という表現がありましたね。これを読むと私は、その最たるものである坐禅を連想します。また『プレゼンスの力』という章には『プレゼンスの本質』という詩的な項目があります。その中には「あるがままに全てを受け入れること」「何も知らないこと・・・・・可能性をはらんだ空っぽの場所」という表現があります。これはまるで禅の「あるがまま」や「無心」とそっくりです。このような似かよった表現があるということは、両者が同じあり方を基礎に持っているからではないでしょうか。

禅の修行における意識の変化過程

 (…注:私の禅修行においてこれを記した2015年5月の時点の考えと2016/11月の時点とでは、禅に対するとらえ方が随分違ってしまいました。今でもここに記したような修行方法をとっている所も多いようです。けれども私が今学んでいる禅のあり方からすると、観察する部分があるのではいつまでたっても二人連れです。「今、事実は常に一つ」の禅からすると、余計なものがまだある。ということになるのです。そこで現在の私の修行は観察する事さえもしない。要するに何もしない修行となっています。それに二人連れ、というのも実は違っていて、観察している瞬間は「観察している」というのしかないのが事実なのです。とにかく「~する」というのが入り込んでいるうちは本物の禅ではないのです。禅の真髄は何もしないで「只ある」ということのようです。…)

 私は煩悩多くて悟りには程遠いですが、こりないで禅の修行を長年続けてきました。禅では「悟り」状態が光を放って目立つために、一般的には悟りの境地についての話題が中心となりがちです。でもそれらは全て絵に描いた餅なのです。禅の老師は、そんなものを思い浮かべる自我意識こそが悟りの邪魔をしているのだといいます。意識が「悟り餅」を描こうと働くより前にある「いま」あるがままの事実に触れなければなりません。そこで修行の実際では、悟りを求めるのではなくて意識的努力(計らい)や雑念などの思念を断つことを重要課題として工夫していくのです。それが徹底すれば忘我に至り、元来からあった法の世界が現前してくるので必ず悟れるというのです。

 思念を断つといっても簡単にはいきません。次から次に念が湧いてきます。念が湧くのが当たり前になっています。私などは何かに夢中になっている時以外は、朝から晩まで暇さえあれば頭はあれこれ考え続けています。悟った人からいわせればこれは「ハイキングに行って身体は美しい自然の中に触れているのに頭部は、洞窟の中に入ってテレビに夢中になっている」というくらいに、ひどい心身分裂状態なのだそうです。一人でフォーカシングをやると集中が持続しないのは、この意識のかってに動き回る癖のせいですね。

 私の修行している曹洞宗の禅道場では「いきなり無我とはいかないので、方便として心を一点に集中し続ける工夫をしなさい」といわれます。臨済宗派の方では、数息観といって呼吸に合わせて数を数えることで意識を一点に統一できるようになる工夫からはじめます。どちらにしても飛び回る意識を一点に絞る工夫がなされています。そんな修行方法の中には、自分の内面に目を向けて、雑念が湧いたら「これなんぞ」とそこを見るようにしなさい、という工夫もあります。禅の理屈では見ようとすることで飛び回っていた意識が一つに統一されて、心が静まり禅定が深まってくるというわけです。これはフォーカシングでフェルトセンスに焦点をあてていく時の意識の動きとまったく同じです。

 フォーカシングでフェルトセンスに注目していると、それが消えてしまったり、フェルトセンスを言語化しなくとも安定が訪れることが度々あるのはフォーカシング体験者の誰もが経験済みと思います。気になる所を見守るだけで、ハッキリとしたフェルトセンスに行きつく前にことは済んでしまう。これは焦点付けるという動きによって、それまで飛び回っていた意識が一点に落ち着いてきたからなのです。

 禅の見解では事実は「いま、いま、いま」と常に意識に先んじ、縁に応じて動いていっています。その動きは一筆書きのような作用なので、事実に葛藤はありえないのです。「いま」の事実は既に終わっているのに、いまの直後(ベンジャミン・リベットの実験によると約0.3~0.5秒後くらいといわれてます)に意識がそれを認め、捕まえます。そして良い悪いなどと価値判断を持込み、葛藤し、悩みはじめます。

 その事実を約0.3~0.5秒後に認め受けとめる価値判断(受けとめ方・自己概念)には非常に個人差がありますね。本格的な心理療法ではクライアントが悩みや症状をポジティブに受けとめることでそれを乗り越えられるようになるために、この受けとめ部分の改善や成長が目標となります。でも禅では受けとめ部分が働かないようにすることが目標です。まず「事実」のみに意識を注目させて、余計な思念を断つようにと修行します。そしてもっともっと思念を断っていくことで、最後は受け止める部分全てが無くなるようにと徹底するのです。

意識の「見守ろう」とする動きの効果

 禅では自我意識に対して否定的なので、修行者はへたをすると自己嫌悪に陥り挫折しかねません。私は自己肯定的なフォーカシングを禅修行に取り入れることでこの辺りを脱することができました。

 坐禅中になかなか雑念を断ち切れない私は、ガッカリして「ダメだなあ、またやってしまった…」などと念を継ぎ足し自己嫌悪に陥り、やる気までなくしていまうという繰り返しに嵌っていたのです。そこで、その雑念や思念の起こる辺りをフォーカシング的にやさしく「見守る」ことを試してみました。これはかなり役立ち、自己嫌悪に陥らないようになりました。また、意識が雑念に流されていない時は、今度は頑張り過ぎというか「これで良いかな」「もうちょっと早くうまく上達する手はないかな」などと強迫的に計らい続けていることにも気づけたのです。そういえば禅の老師からは「素直に言われた通りにやればよい」とさんざん言われていました。けれどもそう言われても、自分が素直でないとは疑いもしませんでした。それ程に「うまくやる」ことは私の一部と化していたようです。

 私は時に、フォーカサーや心理面接中のクライアントなどに「頭さんに注目してみましょう」などと、当人の意識自体をチェックしてもらえるような言葉を投げかける場合があります。ちょっと操作的なのですが、ねらいは、表面化していない内心の動きを知りたいのと同時に、フォーカシングなどの目前の課題にスムースに入っていけるようになってもらうためです。すると私自身がそうだったような「うまくやらねば」「失敗しないように」「良い悪い」や「他のことが気になっている」などの意識の余計な計らいや注意散漫に気がつく人がいます。それに気づいた時には、そちらに働いていた意識の動きはもう止まっていて、その分リラックスが深まります。また目前の課題にすんなりと入っていけるようにもなります。この方法は対人緊張が強い人のリラックスにとても役立ちます。

 この変化は、当人が「自身の意識の余計なはからいに気づいたからこそ、それが止まった」ということになります。でもこれは100%の正確さではありません。実際には「意識自体を見守ってください」といわれて、内を見ようとするその時には、良いか悪いかチェックしたり心配したりなどと、それまで飛び回っていた意識は、すでに内面を見ようとする動きに変化しています。実はその時点で問題は解決していたといえるでしょう。

 意識自体を見守ろうとしなくても、フォーカシングには大いに自分を落ち着かせる要素がありますね。昔、阿世賀先生のフォーカシング講座で体の各部位を順次見守っていくやり方を学んだことがあります。とてもリラックスして眠気まででました。その時の心身相関を細かくたどってみると。身体がリラックスする前に、まず意識が「見守る」という単純作業に統一されて飛び回らなくなり鎮まります。次にそれにつれて身体もリラックスしてきます。するとそれまで緊張していたために表面化しなかった身体の疲れや眠気がでてくる、という流れが見えてきます。

 これらは言い換えると単に「落ち着く」ということです。でもこれが意外と難しいのです。「落ち着こう」「リラックスしよう」と意識することは、逆に意識を余計に働かせることなります。思考のループを助長させてしまうのです。前の章で「悟りは絵に描いた餅である」と述べたのと同じ作用です。一体化しているせいで考え過ぎていることさへ気づけない場合もあります。そこで登場するのが、この「内面を見ようとする」という行為なのです。意識が「見る」一つになったことで、動き回る意識の計らいに振り回されていた身体も一つに定まり落ち着いてくるわけです。

 内面を「見る」ということは、自らの内面と適切な距離を持つことができるという側面での効果もありますね。例えば、簡単にはいきませんが「強い感情に圧倒」されていたりする場合に、その強い感情の全体を見ようとすることで距離がとれてきます。この場合の心身相関もより細かに見てみましょう。まず強い感情が起ってくると、それを自我意識が捕まえて「何とかしなければ、でもできない、苦しい、このままではおかしくなるのでは」などと動き回りはじめます。強い感情はすでに過ぎ去っているのにその時の恐怖でこだわりができたのです。でも今度はそれを「見よう」とすることで、意識は考えることから次第に「見る」動きに集敏されていきます。そして見ようとすることに徹底できるほど身体も落ち着いてくるわけです。

 ……「強い感情に圧倒」されているという場合、感じの感じといえる「圧倒されている部分」を見守ることも見過ごしてはなりません。そのさいも心身相関的にはほとんど同一の動きとなります……

 心の「落ち着き」には深浅もあります。禅の修行の過程を10枚の絵であらわした「十牛図・牧牛図」というものがあります。中国宋代の廓庵禅師によるものが有名ですが、そこには牛との関わりを主題とする絵をもちいて、悟りに至る禅修行者の境涯の進展が表現されています。私の独断ですが、その図に禅の修行過程で深まっていく心の落ち着き度を当てはめてみたのです。すると、第三図の「見牛」で心が落ち着きはじめ、第七図の「忘牛」辺りでは深い静寂を体験するなど、悟り以前にあっても修行者の境涯の進展に付随して心の落ち着きも深まっていくようです。中西政次氏の著書『弓と禅 』の中には、その第七図辺りに相当すると思われる境地が「人跡未踏、神のみのしろしめる湖の小波もたたぬ水面の静寂さが来た」という表現で述べられています。そういえば仏頂禅師に参禅した松尾芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」にも深い静寂感が見られますね。

 フォーカシングのプレゼンス能力において「心の落ち着き」は必須といえます。そこで先に述べた禅修行でみられるような、その深まり度の側面に関してはどう見ていけばよいのでしょう。フォーカシングにおいて理想のプレゼンス状態(プレゼンス能力)を追求する限りは、この心の落ち着きの度の深浅も検討すべきではないでしょうか。

理想のプレゼンス状態 一体化からの離別

 禅ではフェルトセンス的なものは全く取り扱いません。何ごとにもこだわらないのが禅のあり方です。そのため概念化や言語化さへ余計な動きとして捨て去ろうとします。禅の修行は、心理臨床における無意識を自我に統合しようとする作業とは真逆に見える、自我本体を一度すべてなくして(忘我して)しまおうとする作業です。一見フォーカシングとは相容れないもののようにも見えるのですが、でも両者は理想の自我意識(プレゼンス状態)を追求するという点では全く同一線上にあります。

 これまで「禅の修行過程」と「フォーカシングにおける理想のプレゼンス状態への変化過程」を重ね合わせたり照らし合わせたりしながら比較検討してきました。最後に「一体化とそこからの離脱」の側面から両者を見てみます。……こだわリを排するせいか禅には一体化に当てはまる概念は見られません「何でも捨てていくのが禅修行である」といわれる中に図らずとも一体化からの離脱も含まれているといえます。でも私が思うに、一体化は心理療法のみならず禅修行においても大きな障壁となる場合が多々あるように思います……

 『フォーカシング・ニューマニュアル』の後半にある『プレゼンスと部分化』という章では、よりよいプレゼンス状態になるために、一体化に関する詳細な分析とそこからの離脱を追求しています。そこでは心理学用語の「一体化」を『部分化の状態にいる』と呼びなおし、実例にそって具体的に深く分析しています。それらは一体化からの離脱を実際におし推し進めていくためにとても役立つ概念となっています。禅では「何でも捨てていく」修行によって同じく一体化からの離脱も進んでいきます。そしてフォーカシングにおける一体化からの離脱よりももっと先まで、身体や自我意識なども捨て去って離脱していこうとするのです。そのようにして全ての一体化から離脱した暁には忘我状態が訪れます。そののち、我に返った時に悟りが訪れ、今度は「元々全てが一体(自分)であった」とわかるようです。

 さてフォーカシングにおいて、プレゼンスの理想のあり方は今後も追求されてしかるべきでしょう。それには部分化の状態(一体化)を見ぬき、そこから離脱するという作業をより拡大深化して行くことがメインの作業となります。そしてそのように広げ、深めしていった結果ですが、ついには身体内や自我意識への一体化も見ぬいていくことになるのでしょうか。理の上ではそれは可能なわけですが、はたして実際にはどうでしょう。

★参考文献:『フォーカシング・ニューマニュアル  アン・ワイザー・コーネル バーバラ・マクギャバン 共著 』 『マインド・タイム~脳と意識の時間 ベンジャミン・リベット』 『弓と禅 中西政次 春秋社』 『意根を断つ今一度坐禅について 前編 少林寺住職 井上貫道』 『意根を断つ今一度坐禅について 後編 少林寺住職 井上貫道』



人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制

 人間関係で立ち起こる問題やトラブルの原因は意外に奥深く、わかりにくいものです。客観的に見れば良い人同士なのに、なぜかうまくいかない関係が多々あります。トラブっている両者の間に立って、互いの話を聞いてみると、両者ともに正当な理由を持っていたりして、一体どこに根本原因があるのかすぐには見つかりません。

 人間関係で悩み込むとか、トラブルまでには発展していなくても「なぜかあの人にはイライラさせられる」とか「どうもあの人は苦手だ」なとどいう人は必ずいるものです。そんな時に、なぜそうなのか説明しきれなくて最後は、あの人とは相性が悪いとか、馬が合わない、虫が好かないなどと言って済ませたくなったりします。

 けれども、そのような場合でもその原因は必ずあるのです。通常の意識ではわからない無意識的な心理が、人と人との関わりの背景にあって、知らぬ間に働いています。ここではそんな深層心理を理解するために超おすすめな「投影」といわれる考え方を紹介します。私は過去にこれを学んで「あぁ、こうなっているのかあ!」と目から鱗でした。人間関係で問題となる深層心理のメカニズムは、この「投影」という考え方を知れば、その大半を理解できるといっても過言ではないくらいです。

 この心理機制は、ただの机上の心理学ではありません。悩みの解決のために心理相談に訪れたクライアントがカウンセリングで自分に向き合い内省するなかで気づきや洞察、発見が生まれます。それによってクライアントは成長し、それまでの行き詰まりを乗り越えていくのです。そんな貴重な洞察の中には、同じ悩みを持つ他の人の参考になるだけにとどまらないで、広く一般にも役立つような素晴らしい卓見があります。そのひとつがこの「投影」という心理規制なのです。

 精神分析学の後継者でもあったフロイトの娘のアンナ・フロイトがまとめたこの心の防衛機制とは、自我が自分のあり方(アイデンティティ)を守るために、心の自然な動きや事実を自分の都合の良いようにねじ曲げて思い込んでみたり行動したりする無意識的な働きのことです。人の心の動きをみごとにとらえている「投影」はその中の代表格といえる考え方です。

ルビンの壺

『ルビンの壺』 白色に注目すると壺に見える。黒色に注目すると二人の横顔に見える。両方一度に見ることはできない。

 投影とはどんな考え方なのかを、喩え話ふうにいうと『人はそれぞれに自分独自の色眼鏡(価値観)で世界を見てしまっている。でも長年の経過によってその色眼鏡は肉体の一部と化してしまいそんなメガネをかけていることは忘れてしまう。そして、他者を見る時にも疑うべくもなく、これがホントの事実だと思って見ている』となります。

 私自身の実体験(人間関係に働く自我の防衛機制の具体例)からも、後に投影していたのかと気づくまでは、まるでそれが事実でした。あなたは「まさか私は違う。色眼鏡などかけてない」と言うでしょう。でもこれは「夢から覚めてようやく夢だったのに気づく」のと同じ体験なのです。それに人は、ある思いや感情でいっぱいになっている時には、他の思いがあってもそれは心の片隅に追いやられてしまいます。他からの良い考えも入り込む余地はありません。そんないっぱいの思いや感情から他人に接している時はやはり色眼鏡をかけて人と接しているといえるのです。

 「何か、あいつを見ているとイライラ来る!」などという時に、この投影が働いているわけです。それは無意識的なものですから「何だか虫が好かない」などというように本当の理由はすぐにはわかりません。この時、無意識に蠢いた心をあえて言葉にしてみると「せっかく私が我慢したり押さえこんだりしていることを、なんでお前は平気でやっているのだ!」などといえるでしょう。自分は真面目に「こういうことは我慢しないと」と頑張って我慢していることを、あからさまに体現されてしまっているのでは確かに腹も立ってきます。

 苦手な人や馬が合わない人との関係で苦しんだり、家族関係でのいざこざなどの背景に、この「投影」と名付られた心の動きがあるのです。

 否定的な投影はその相手にイライラや怒りを感じたり、攻撃心がでてきます。よりやっかいなのは、価値がないと否定したものを映した相手はデフォルメして見えるので、その相手全てをダメな人と見下してしまうことです。親密な関係などでの、長期的な上から目線は相手をとても傷つけます。見下された当人はそれに対抗せざるをえなくなり、関係はますます悪化していくという構図に陥ります。

 大恋愛で結婚したのに「こんなはずじゃなかった」などと言って呆気なく離婚に至るという話を時々聞きます。「こんなはずじゃなかった」と発言するということは、自分に都合のいい理想像を相手に投影して、期待や予想以上に、まるで事実そうであると思い込んでしまっていたからです。この場合、もちろん相手も元々少しはその傾向を持ってはいます。でもそれと自分の内の投影したものが重なると、そのイメージは肯定的にも否定的にも倍加してしまうのです。

 「投影の引き戻し」というのがあります。相手への強い怒りの感情が収まったりしたさいに洞察が起こるのです。ふと「・・・随分イラついていたな。でも、もしかしたら私はあいつのやっているようにやりたかったのかもしれない。私は今までずいぶん我慢してやってきてたんだな・・・」などと相手に見ていたものを、自分のこととして引き受けられるようになります。すると嫌っていたり苦手だったりした他者に対しての引っ掛かりがなくなり楽に接することができるようになるのです。もちろん自分の内面との軋轢もなくなるのでその点でも楽になります。

 例えば働き者で、朝早くから忙しく家事に動き回っている母親がいるとします。そんな時、自分の娘がゆっくり朝食をとったりしているのを見ると「この忙しいのになんでさっさと食べないの!」とイライラしてきます。それでつい叱ったり、お前はノロマでダメ、などとなじったりせずにはいられなくなるのです。…自分の内面の否定したい部分を子どもに見てしまって、それで必要以上に怒ってしまい、ついには幼児虐待までエスカレートすることもよくあることです…

 そんな母親が子どもに怒るのは良くない、やめようと無理に我慢しても長続きはしません。でも「・・・実は私こそがゆっくり、のんびりしたかったのだ」などと気づき、子供への投影を引き戻すことができたなら、その時にこそ、子どものゆっくりペースも認められて自然にイライラしなくなります。また「私は働き者である」などという頑張るだけの価値観も緩んでくるので、疲れたらじっくり休むことも余裕でできるようになるでしょう。

 井戸端会議や飲み会の席で、その場に居ない人をやり玉にあげて噂したり批判し合う時には「私はあの人とは違うわ、ちゃんとした人よ。ちゃんとした者同士で仲良くやりましょうね」などというような心理が裏で働いているのです。また例えばホモセクシュアルを極端に嫌う人は、自分の内の誰にでもあるレベルのホモ的要素まで「あってはならないい」と抑圧している人なのです。相手がどうあろうと自分の側にこだわりがないのなら響き合わないし無関心でいられるものです。

 イジメや差別、村八分、戦争などの暴力行為にまで至ってしまうような悲惨な出来事や事件の背景にも、この投影の心理がある場合が多いのです。特に、自分の持った価値観との一体化が強くなればなるほど、自分自身までその価値観と同じに絶対で居なければならなくなってきます。…「このような人であらねばならぬ」というような価値観に一体化(同一化)するということは、長所も欠点もある人間的な等身大の自分と、こうあるべきという理想像との区別がつかなくなっている状態ともいえます。育ってくる過程にあって、等身大の自分で居ることが許されなかったのか、それともあまりにもまじめに、人はこうあるのが良いのだと思って頑張り続けたのか、まるでその価値観であることが自分の存在価値の全てであるかのようになっているようです…

 すると自分の価値観が一番良いという段階にとどまらず、他の価値観を持っている人間はすべてダメ、価値がないとまでになります。そこまでいくと「私はこういう価値観(考え)を持っているけど、あなたはどんな価値観(考え)なの」などというような共存共栄的な態度は持てなくなります。一体化によって自分の価値観を外に置いて客観的に見るというような距離感がなくなるために、他の価値観やそれを持った人をも認めることができなくなってしまいます。他の価値観を認めることは自分の持っている価値観がダメになるだけでなく自分自身がダメになる。それは死を意味するのです。

 …あくまでも本当のところはわかりませんが。2016年に起きた障害者施設大量殺傷事件の犯人の深層心理に、例えば「優秀で、強くあらねばならない」などというような価値観への、ある意味純粋すぎる一体化したあり方があったのではないでしょうか。でも、彼はいくつかの挫折から、それを保てなくなったのでしょう。そんなアイデンティティの危機を回避するために、あまりにも行き過ぎた行動をとってしまったのではと推察されます…

 ナチスのユダヤ人虐殺のさいには、ナチスの優秀性を絶対化したいがために、自らの劣等性を引き受けることなく、それを全てユダヤ人に投影して見ていたのは確実でしょう。そして(劣等生を体現している)ユダヤ人を抹殺することで自らの優秀性が証明され、ひいては自らの存在価値が高まるかのように思い込んだのでしょう。

Rorschach1

インクのしみテストともいわれる。ロールシャッハ・テストの中の一枚。「何に見えるか」と問うていくと全く同じしみなのに人それぞれに違ったものに見える。その言語表現を分析すことによって性格傾向などを読み取ろうとする心理テスト。

 幕末から明治に生きた原担山という禅僧の有名な逸話があります。担山が雲水時代に禅友と二人で旅をして歩いていると、小川の手前に、洪水で水かさが増したので渡れなくて立ち往生している若い女性がいました。担山はその女性を抱えてさっさと向こう側に渡してやりました。

 その後、夕暮れ時になって担山が友人の雲水に、そろそろ宿を取ろうかと話しかけると友人の雲水は「出家の身なのに、女と接した生臭坊主とは一緒に泊まりたくない」と言ったのです。仏教には女性に触れてはならないという戒律があったからですね。すると担山は「なんだお前はまだあの女を抱えていたのか、わしは川を渡した時にすっかり降ろしてしまったよ」と言ったのです。

 担山和尚ズバリ。相手の投影を見抜いてうまいこと言いますね。彼の友人の雲水は、元々まじめに「出家者は女性に触れてはいけない」と思っていた事でしょう。そして女性に触れたい気持ちを押さえ込んでいるうちに、ついには女性に触れたい気持ちが時々湧いてくることさへ認められなくなってしまったのです。ところが、それをいとも簡単に破っている担山の姿を目の当たりにしました。それによって、彼の内で押し込めたそれが揺さぶられて不安定になってしまったのです。自分が不安定になった理由として「相手がそれだけ酷いから」そうなったのだとすれば都合良く納まりがつきますね。

 そんな彼には担山が、まるでひどい女たらしに見えたことでしょう。さらに「女性には触れない、まじめな出家者としての自分」を守るためには、そんな自分を不安定にさせるものは切り捨てるに限ります。そこで大義名分として「女と接した生臭坊主とは一緒に泊まりたくない」と言うことになったわけです。

 投影という心理機制の考え方。あなたも、もし何かに対して声を大きくして文句言いたくなった場合など「あれ?自分はもしかして、ああなりたいのかしら?」などと思ってみると、自分を成長させる良いきっかけとなるかもしれませんよ。

 でもあなたの家族や友人が、嫌いな人を批判したり愚痴を言ったりしている時に「それはあなたが、自分の内面をその人に投影しているのだよ」などと決して言わないでくださいね。「そうか、わかったありがとう」などと言ってくれる人なんてまず居ません。逆に、あなたまで嫌いな人の仲間入りとなる危険がありますので。

 ところで、より自分を深く知りたい。と思うならやはり心理療法の場で、信頼できるカウンセラーに手伝ってもらいながら取り組むのが一番確実です。心理面接の場では、カウンセリングなどによって洞察が進むと、自然に投影の引き戻し作業がおこなわれます。そして自らの弱さや不完全性に気づき、そんなありのままの自分をあらためて愛おしく感じて再生していくクライアントも居ます。それは根気のいる作業ではありますが、心が次第に楽になっていく過程でもあります。もちろん「投影の引き戻し」ができると人間関係も楽にスムースになります。

★参考ページ:『当相談室の心理療法について』『人間関係に働く自我の防衛機制の具体例』『個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法



お勧めの心理関連本の紹介

kawaibook2

 河合隼雄ファン必見!すごいステキな本です。河合隼雄ファンだけでなく小説好きな人にもお勧め。いやいやどなたにもお勧めの一冊です!

 2006年6月15日に小川洋子さんと対話した河合先生最後の対談本です。河合先生はその二ヶ月後2006年8月17日に脳梗塞で倒れて入院しました。そのためこの本の後半部は対談でなくて小川洋子さんの「少し長すぎるあとがき」となっています。でもさすが作家というか小川洋子さんのさらりとした抑え気味の表現でなされたすごいステキな、只の後書きとはいえないあとがきです。その良さをもうちょっと詳しく書こうと試みましたがいろいろありすぎるせいか言葉にできませんでした。

 私が一番気に入ってオレンジ色マーカーひきまくったのは、カウンセリングや心理療法の根幹にして全てである共感(寄り添う・傍にいること)の真髄について河合プロが平易な言葉でうまいこと表現しているところです。 人を解る(共感する)ということがどんなことなのか、どんなに大変な作業なのかがより具体的にわかります。

 160ページ弱の薄めの本で読みやすいです。あなたもぜひ手にとって読まれてみてください。

★参考図書:『生きるとは、自分の物語をつくること



リラクゼーションと自然治癒力

 こころとからだのリラックスがとても大切なことは万人の知るところです。

 ではなぜリラックスが大切なのでしょう。それはリラックスすればするほどに生命体の働き(自然治癒力など)が活発になるからです。緊張することは逆にこの働きを滞らせてしまうのです。

 例えば被災地を復興するには、復興するに必要なものをそこに持ち運び、被災して不必要になったものは持ち去って破棄します。ところが時に、被災地までの道路が分断されていてトラックがそこまでたどり着けず復興がおくれてしまうということが起こります。緊張するということは、この被災地に通ずる道路を分断はしなくとも狭めてしまうことになるのです。荷物を積んで被災地までを往復するトラックは渋滞に巻き込まれてしまい身動きできなくなるのです。リラックスすることは、この大切な被災地までの道路を広々としたものにしつらえることになるのです。

 リラックスすればお腹も胸ものびのびと動きます。胸やお腹の辺りにある様々な内臓器官も楽にスムースに動き、働くことができるるようになります。例えば食べ物を食べれば、リラックスしてのびのび動きやすくなった胃や腸やその他が必要な栄養素だけを速やかに吸収してそれ以外はスムースに排泄するように働きます。滞りが無いために体内を常に新鮮に活き活きと保てるのです。

 深いリラックスによって身体(筋肉)が緩むと血液の流れ道である血管も広がります。そうなればまるで渋滞のない広々した道路のように血管の中を血液がスムースに流れます。体のあちこちにたまった老廃物を血液トラックさんがさっさと持ち去ることができます。またその逆に必要な栄養素を速やかに体の隅々まで配達しやすくなります。流れがスムースになればなるほど自然治癒力は働きやすくなるのです。他のリンバや神経の流れや、東洋医学でいう経絡の流れ、はたまたインド発祥のヨガでいうクンダリーニの流れなど「体内の様々な流れ」も同様です。

 心も同じです。「心を開放する」といいますが、緊張があるところで解放はスムースに行きません。リラックスすることによって心的エネルギーものびのび活き活き流れるのです。

 「ストレスが溜まる」と言いますが、緊張によって流れがせき止めら否定的な感情や情動が鬱積している状態です。でも、深くリラックスして眠れば睡眠中に、この溜まったものが開放、調整されます。それと意識しなくとも目覚めた時にはもうスッキリと調整が終わっている場合だってたくさんあるのです。睡眠中に見る夢は、この脳の自己調整作用の働きのモニターのような役目をしているようです。

 泣くこと、涙を流すことはヒトの大切な営みのひとつです。カウンセリング場面で苦しく辛かった思いを話す時、涙が溢れます。また時にはフォーカシングで自分を見守ろうと目を閉じ、内面に目を向けただけで、なぜだかわからないけど涙が溢れて止まらなくなる場合もあります。そのようにして涙を流しきった後には、涙でお化粧は剥がれていても不思議に眼はパッチリクッキリとしてきます。まるで使用前使用後のように、つやつやいきいきとした顔つきに変化する人も多いです。涙とともに心の閉ざされていた部分が開放されて道が広く繋がり流れが良くなることで心も身体も新鮮に蘇ったのでしょう。

 ところで深いリラクゼーションを得るためには「ほっと安らぐ」ことがなければなりません。そのためにはできるだけ居心地の良い環境になるようにしつらえる工夫が必要です。例えば家族や友人に余計なことは言われないで、ただ寄り添ってもらったり、共感してもらえればそれは大きな(心の)支え環境となります。また人間よりもペットの方がより気持をわかってくれて支えになる場合もありますね。自然に包まれることもその大きな一つです。先月永眠された「森のイスキアの佐藤初女」さんは「食事をして美味しいと感じた時に心が開放されるんですよ」とNHKアンコール アーカイブス「心をわかちあう」の対談で話されてていました。またお風呂に気持よく入れたなら、それもかなり深いリラクゼーションとなります。

 リラクゼーションに導かれるきっかけをいろいろ述べてきました。それら全ては、いろいろ心配だったりして苦悩したり、焦ったり、一人でいろいろ考え続けて(頭が)一時も休まることもなく頑張り続けている部分をピタッととめる効果があるのです。人はホッとすると何も考えなくて良いようになります。想像力がある人ほど悪いことを想像すると、まるで本当にそうなったかのように身体までそれに反応してしまうのですが、それも止まってしまうので心身ともに楽になるわけです。

 逆にいうと、頭が思い煩い考え続けてしまっているうちは周りがとてもよい環境になったとしてもそれが内面まで響かず深いリラクゼーショが得られない場合もあるのです。また強い自己否定が癖になっていると、周りからのよい働きかけさえも自己否定の回路と結びつき、結局最後はいつものように自分を責めることになりかねないのです。このあたりのことは次回に「リラクゼーションと自然治癒力その2」でもう少し詳しく述べてみます。



心の傷を癒す睡眠

 睡眠を充分取ることは身体の健康だけでなく、心の健康にとっても非常に大切です。ところが最近は睡眠不足の人が昔に比べ増える傾向にあるのです。これは当相談室に来談される、差し迫った心の問題を抱えた方の話だけではなくて現代人全てに共通していえることです。科学の発達によってさまざまなことが便利になったのはとても良いことです。便利になればゆとりが出るはずなのに、でも時代は逆にスローライフから遠ざかるばかりですね。生産性を高める効率(主義)化、イコール過密スケジュールとなってしまったのです。おかげで睡眠をたっぷり取るような無駄な時間はなくなってしまいました。

 私の敬愛する禅の、井上希道老師は近年、参禅する方の中に疲労の溜まっている方が増えてきた、と言います。広島の少林窟道場に上山して禅修行に入ると、それまでからだに蓄積していた疲労が表面化してきて、坐禅中に眠気が出てくる人が多くなっているのです。井上老師は「疲れて集中力がないままに修行をしても良い結果は出ない。まずよく眠って疲れをとり、集中する気力を回復してから修行をしろ」とよく言われています。

 当相談室で不定期に開催している催眠セミナーに参加される皆さんにも、セミナー途中で、催眠を利用したリラクゼーションを行うと、昔に比べより多くの人が睡眠に移行します。忙しい毎日を過ごしていて睡眠不足気味だったり、うつ状態までいかなくともかなりの疲労が溜まっていたりしているのです。能力開発の前に疲れを取ることが先決となっています。

猫

 統合失調症治療の第一人者であった精神科医中井久夫氏は『精神科治療の覚書』の中で「統合失調症の発病前には必ずといっていいほど睡眠障害がある。統合失調症から回復した人が不眠に気をつけて再発せずに済んでいる場合も少なくない」と述べています。またネット上の情報『心の傷を治すのは時間ではなく睡眠・・・』では、米国カリフォルニア大学神経科学者マシュー・ウォーカー氏が「睡眠に多くの重要な働きがあるがその一つが、心の健康を維持しやすくするという働きなのだ」と話しているとあります。彼の研究チームの睡眠に関する実験からは「睡眠(特に夢を見ているレム睡眠)には心の傷を癒す効果がある」という結果が出たそうです。

 睡眠時間はただ長ければ良いというものではありません。質の良い睡眠のために、できるだけリラックスして深く眠れるようになるための工夫も大切です。図式としては『心がほっと安心する⇔身体がリラックスする⇒深い睡眠⇔レム睡眠時の解放調整作業の活発化』という感じで心身の調整作業は深まっていきます。そうなるには入眠の前に、心がホッとしたり、楽になったり、伸び伸び解放されていたり、また身体がほぐれてできるだけリラックスしていたりする必要があるのです。



カウンセラーについて

 自分の深刻な話を簡単に返されたりすると、わかってもらった感じがしなくて、何も言わないで黙って居てもらったほうがかえって伝わった感じがしますよね。かといってカウンセラーはテクニックで黙っているわけではありません。クライアントの可能性を信頼できていると、カウンセラーはそれほどウロウロしない(うろたえない)で腰を据えて目の前のクライアントが表現する大変な状況をジックリ黙って、受け止め聞いていくことができます。そしてクライアントのことが解ればわかるほど簡単にはものが言えなくなってくるわけです。

 河合隼雄先生はよく「私はなにもしないことに全力を掛ける」と言っていました。一見すると無責任そうに見えるこの態度は実は信頼の究極にあるものです。クライアントの可能性を信頼するだけでなくこの宇宙全体を信頼しているからこそできることといえるでしょう。河合先生の著書『心理療法序説』にはそのようなカウンセリングの理想を「自然モデル」として述べています。

 河合先生に近い人から聞いた話ですが、河合先生は自分が関わったクライアントの事例を研究発表している際に、気持ちがいっぱいになってきて泣き出すことがしばしばあったといいます。私も河合先生が大泣きするのを目の前で見ました。心理関連の講演会で、その会を主催していた方が亡くなったと河合先生が壇上で言われ、その後何も話しださずに、いっぱいに涙をためて大きく泣いておられました。私はそれを見ただけで、カウンセラー(人間)として大きなものを学んだと思います。河合先生は、そのようにほんとに情が深い人でした。ですから外見にはなんにもしないように見えるその態度の裏で、人一倍クライアントに入れ込んでいたのです。目の前のその人に心は全力をかけていたわけです。

 河合先生は、私には理想といえば程遠いくらいの存在ですが、先生のように目の前のクライアントに全力をかける姿勢が私にはまだまだ足りません。頑張らねば。でも、亡くなられて既に5年になる先生ですが、思い出しているうちに、なんだか私が先生のクライアントになって見守ってもらいたい、とでもいうような変な気持ちが湧いてくるのです。うーん、まだまだのようです。



本格的な心理療法は自分の物語を見出すこと

 世の中、まじめに生きていればいい(うまくいく)と、しつけられたり教育されますが、そう簡単にはいきません。まじめに真摯に生きようとすればするほど理不尽なことは多くなり、悩みは増え壁は高くそびえます。でも昔に「みいーんな悩んで大きくなった」というちょっと冗談めかした言葉が流行ったことがありましたが確かにその通りです。人は「我思うゆえに我あり」というように自分を振り返ることができます。それによって内省をして心を成長、成熟させていくこともできるわけです。

 内省的な言い回しに「自分に向き合あう」という言葉がありますが、カウンセリングなどの対話を中心にした心理面接を望む方で「いつまでも誤魔化したりしていないで、自分と向き合わねばならないと思って来ました」などと自ら決心して来談される、ほんとに凄い方もいます。また、問題を抱えてもがき苦しみながらも心理面接で真摯に自分と向き合い、心の成長を成し遂げた後に「あのことがあったそのおかげで、私は人の気持ちが前よりよく分かるようになりました。ちょっと成長しました」という人がいて、ほんとうに感動させられます。

 河合隼雄先生は『物語の意義について』の中で『私は、このクリエイティブ・イルネスという考え方がすごく好きになって、これを拡大解釈することにしました。エレンベルガーはイルネスを心の病に限っていましたが、漱石のように体の病もあるじゃないかということです。実際に調べてみると、体の病になった後にクリエイティブになっている方は多いのです。病というものを、もう少し拡大解釈していくうちに、病のなかには事故や不幸や災害も含めていいのではないか。人間が非常に不幸で災害だと思っていることが、次のクリエイションにつながっていることは案外多いのではないか、ということに気が付いたわけです。

 《・・・中略・・・》ですから、どのような方が来られても、この方の病はクリエイティブ・イルネスの始まりだと思うのです。病院に病気の人が来られて病を治して健康になるという考え方ではなく、そのマイナスを、その方がどうクリエイティブに自分の物語を生きることに活かされるかということに注目して、私は来談者と会うようになりました』と述べられています。

 クライアントのしんどい話やギリギリな話を聞いていく時に、カウンセラーがこのような視点を持っていることは、暗中模索の中に、新しい可能性の光を見ようとすることです。でも、このようなカウンセラーの態度は目の前の悩んでいる人を本当に大切にしていて、かつその人を深く信頼していないとできることではありません。河合先生は、ほんとうに情が深くて心の器の大きい人ですから、皆が手助けをあきらめたような大変な人にさえも可能性の光を見ることができ、それを信じて辛抱強く接することができたようです。