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どうすれば心の悩みが解決できるのか カウンセリングや心理療法や禅から見えてくる心

個別の心理面接から見えてくる心の悩み解決の核心

 人の心の悩みは千差万別です。もちろんその解決に至る道も、人それぞれに千差万別です。しかしカウンセリングや心理療法の現場で個々のクライアントと悩みの解決に取り組んでいると、あるパターンのようなものが見えてきます。個々人の症状や問題は千差万別でもその背景に、人の心のあり方に共通した動きがあるのです。今回はそんな共通項目を取り上げて、心理的な問題の解決に至るための核心部分について述べてみます。それは大きくまとめると(心理的な側面において)人が生命体として元々生まれ持った(生命体としての)働きと、生まれ育っていく中で身につけたものとの関係性の問題となります。

 心の悩みを解決するためはどうすれば良いか。ということの答えとして一言で先に言ってしまうと「自分自身との関係をよりよいものに作り直す」ことです。心理的な問題の解決策はこれにつきると言って良いでしょう。自分との関係というと奇妙に聞こえるかもしれません。確かに自分は自分なのだから関係の持ちようがないと言えます。でも実際のところはよく「私の身体、私の感情」などと言い方をしますね。そんなふうに言えるということはすでに自分自身対身体や感情となっていてそことの関係がすでにあるということになります。

 自分自身との関係をよりよいものに作り直す。それは自己否定から自己肯定に変わる工夫ということもできます。これは既存にある単純なプラス思考とは大きく異なるものです。既存のプラス思考のテクニックにはすぐには気づけないマイナス思考が秘かに盲点となって含まれているので、本当の意味でのプラス思考になれません。ところで自己肯定には条件付きの肯定と、根拠のない(無条件の)の肯定があります。心の問題を乗り越えるにはこの無条件の肯定感を強める必要があるのです。

 自分と良い関係ができて、うまく付き合えるようになると他人ともうまく付き合えるようになるので一挙両得でもあります。精神科医中井久夫氏はフランスの文筆家ポール・ヴァレリーの言葉からこのあたりのことを「私は、このアフォリズムを広く解して、私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度であるというふうにした。ほとんど絶対に他者と通じ合えないようにみえる患者は何よりもまず自分と通じ合えていない」などと言っています。しかしこれは意外に至難の技で、既存のプラス思考を当てはめたくらいでは歯が立ちません。目には見えない心には思い込みや勘違いが多発します。盲点に陥らないための注意とコツが必要なのです。

 このブログの最後の章には自分とよりよく通じ合うための心理テクニックを紹介してあります。これらの心理テクニックの中には心の悩みや問題を抱えていてもそれをちょっと横に置いて自分に向き合える人なら自分一人でできるものもあります。けれども、心が深く傷ついている場合や、自分が受け止めかねるトラウマなどの問題がある場合にはそれを一人で乗り越えることは至難の業です。そんな場合はやはり信頼できるカウンセラーや心理療法家に手伝ってもらう必要があります。

 まず、どうして無条件の自己肯定に取り組まなければならないのか、その理由を知って納得できなければはじまりませんね。そのために今の自分が一体どうなっているか、目には見えない心を解明して、そこからなぜ自分と通じあう必要があるかを理解していきましょう。

自分を知る!なぜ心の悩みは解決が難しいのか

 まず、人間関係の問題などが出てきたときに、人はそれを自分で考えて何とか解決しようとします。けれどもそれがうまくいかないことが多々あります。なぜ問題を乗り越えられないかといえば、それはストレスや神経症的な障害、また対人関係の悩みなどのような、心からくる問題を「自分でよく考えて答えを出そうとすること自体」がすでに間違った取り組みのきっかけになっているからです。実は人は自分で思っている以上に、自分の心に対して無知で、勘違いや間違った思い込みをしているのです。そんな立ち位置からでは、いくら良い考えを思いついたとしても、元が間違っているのですから必ず的外れに終わります。まずは目には見えない心がどうなっているか自分をよく知り、勘違いを正す必要があります。

 心は非常に早く動きます。例えば「癖になっている」とか「無意識的にやってしまった」などというような素早さです。特に「今」のありようについては、始まりもわからなければ「今」と言ったときには、もうその今は跡形もない。というくらいに素早いわけです。また微細でもあるので見逃しやすくもあります。おまけに、目に見えないことも重なるので、対処が適切にできないだけでなく、大きな勘違いをもってそれをとらえてしまいがちなのです。

よく考えて答えを出すという方法の弊害2つ!

 大前提としていえるのですが、この世界は人工的な都市やその他の建造物は別にして、宇宙が作り出したものであって、人間が作り出したものではありません。よって人間ではどうしようもないことがあって当然なのです。2500年前にお釈迦さんが悟りを開いた時に、最初に説いた「四諦ーしたい」という説法の中に「四苦ーしく」というのがあります。生まれる、年をとる、病気になる、死んでしまうことは人の思うようにならない(苦)のだと明言しています。

 ところで人間は古代から知恵をもって言葉の伝達機能を発達させたり、道具を作り出すなど、いろいろな工夫によって生き延びてきました。人間には過酷な地球環境を支配、コントロールしてきた歴史があります。特に西洋から発した近代科学を駆使した便利な人間社会の発達には目を見張るものがあります。病気やケガを治したりする医療も驚くほどの発達をとげてきました。それらによって平均寿命は格段に高くなってきました。先に述べた人間の思うようにならない生老病死を多少なりとも克服なしえたともいえるでしょう。

 その素晴らしい人間の英知を基礎に人間を教育する学校において私たちは「よく考えて答えを出しましょう」と言われて育ってきました。そのせいで何事に関してもまず頭を使ってうまくやろうとする癖があたりまえとなっています。要するに人は何かあったら人間の知恵で何とかしようとするのです。お釈迦さんが説いたのとは真逆に、この世に人間の理性を持ってすれば解決できないことはないとまで思い込んでいる人も数多くいます。確かに科学の未来には、もしかしたら生老病死もすべてコントロールできるようになりそうな勢いさえうかがえます。しかしこのような情勢の過程で人類は大きな勘違いをするようになったのです。

 その勘違いのなかで特に間違ってしまったのは、機械を取り扱うようなロジックや思考方法を機械ではない人間の心の問題を解決するために用いようとしたことです。法律や約束などを守る話とは別に、科学的合理的な手法で自分の心をコントロールしようとするのは間違っています。自分の頭で生命体としての心身を、意識的にコントロールしようとすることは、例えれば、放っておいても勝手に自動車運転(生命活動)をしている車に乗っていることに気づかずに、ハンドルを切ったりブレーキを踏んだりして自分で運転しているつもりでいる状態です。生命体が元々もっている運転手と意識的な自分との二人の運転手が一つの身体という車を運転していることになっているのです。「船頭多くして船山に上る」ということわざと同じです。

 もちろん「よく考えてものごとを解決しようとする」ことはとても大切なことです。ここはぜひ科学的手法にこだわらないで、もっともっとよく考えて知性を洗練させて、生命体としての自分自身とより良い関係が持てるように工夫せねばなりません。

 なぜ科学的(合理的)思考方法を心に当てはめると良くないのか。細かい心理分析が続くので疲れるかもしれませんが、人の心身の動きに沿ってより詳しくたどっておきましょう。まず、考えるということは悩みの中に入り込むことなので、悩み自体が膨らみがちです。その結果、問題に圧倒されたり振り回されたりするようにもなります。それを抱え続ける分、リラックスすることができなくなって自然治癒力がうまく働かなくなります。また頭がいろいろ考えて動く分、相反する考えを思いつくので、それらが対立して葛藤が増えてしまいます。身体は常に一つのことしかできませんから葛藤がおこると身動きとれなくなります。

 身体は疲れていても頭だけは動き続けたりします。また頭でイメージしたことは大なり小なり身体にすぐ影響します。だから身体も大変です。一方では休息したいのに、頭の思いに準じて活動せねばならないからです。眠るに眠れなくもなります。身体のペースとズレてしまったのです。このように「なぜリラックス出来ないかの根本的な理由は、頭(思考)が止まらない(心の切り替えができない)からです」さまざまな神経症的な症状や心理的な問題の背景に、このような、休みたいけど心の思うように頑張らなければならない身体と、動きまわる頭という引き裂かれた構図があるのです。

 頭脳中心のあり方にはもう一つ大きな欠点があります。それは「こうあるべきと考えた理想的なあり方が一番大事とされるために、ありのままの部分に対して否定的となることです」人は生まれた環境に適応して生きていかねばなりません。環境に適応するようにと、ありのままのあり方を自己コントロールによって変じていこうとします。物心がつくとまず家庭内のあり方(価値観)に適応せねばならず、自分自身内で理想の自分と、それに届かないダメな自分を比べて自己否定が生まれます。また自分と他人も比べて評価し、そこでも自己否定が生まれます。学校や社会の枠組みは条件付きのことがほとんどのために、それにはまりきれない自分はダメとなるのです。 心の悩みで苦しんでいる人の多くが社会の枠組みに適応できなかった自分に価値がないと思い込んでしまうのです。時にそれは自分を責める動きとなります。また、ありのままの自分にはまったく価値がないと結論するまでに至るのです。

 理性で考えコントロールすべきであるという価値観が強いほどに必然的に、ありのままの部分を否定することになりがちです。そうなると、良くないと思える自分を出さないように、常に自分を監視下においてコントロールしなくてはならなくなるのです。外に出たら常に緊張していなければならず、人間ならあって当たり前の、疲れや弱みを出すこともできなくなります。非常に疲れる生き方になります。

上記の二つを変化させるための具体的な心理技法

 まず「なぜリラックス出来ないかの根本的な理由は、頭(思考)が止まらない、心の切り替えができない」ということですから、まず、頭脳中心に動き回るを部分を止める(休ませる)工夫が必要です。そのとらわれから脱して全体を客観しできるようになって、自分の問題や内面のさまざまな局面と適切な間をとれるように再調整します。次に「ありのままの部分に対して否定的」となっているのを修復したり、今後、ありのままの部分を自己否定しないようになるためのあり方を会得します。その際に気をつけることは否定的な動きや考えが出てきてもそれを否定せず認めることです。

 以下に具体的な心理技法とその特徴を簡単に解説してみました。興味のある技法など、より詳しく知りたい方はリンク先をご覧ください。

 フォーカシングは、自分の内面や身体を深く信頼して見守ったり、寄り添ったりできるようになる心理技法です。「見守る、寄り添う」は良い関係を保つためのの理想的あり方のひとつです。またフォーカシングには、心の一部分だけに一体化せず、そこから出て距離をもって見守ったり、さまざまな要素や側面のすべてを、そのままにときには肯定的に見るようになるためのトレーニングもあります。自分のどんな要素にも臨機応変に、それぞれ適切な距離感をとることができるようになるので、偏った考えや一時的な感情に振り回されなくなります。

 インナーセルフ療法はいろんな思いや感情をイメージ化、人格化して自分の内面と対話形式をとることで、今まで否定していたり、無視していたり、生きてこなかった側面と通じ合えるようになります。また、インナーセルフ療法の技法によって自分で自分を癒やせるようにもなります。

 カウンセリングで信頼できるカウンセラーに肯定的に聞いてもらうことで深い自己否定からも抜け出せます。カウンセラーがクライアントの気持ちをわかってブレずに寄り添って話を聞いていると、その支えの中でクライアントは、それまで否定したり無視していたり、今まで生きてこなかった側面を再検討できます。カウンセリングで話をするだけというのはちょっと地味な感じもします。はたしてそれだけで良くなるのかと疑問を持つ人もいます。けれども本当に力量のあるカウンセラーに話を聞いてもらっていると最終的には驚くほどの素敵な変化が起こったりするのです。カウンセリングは心理療法において「カウンセリングにはじまってカウンセリングに終わる」と言えるくらいに奥が深いのです。

 催眠療法で自己解放したあり方を体感することで、理性でコントロールしなくとも身体がいかに上手に何事にも対処できるかがわかります。また、催眠療法の中でそんなあり方のトレーニングを重ねれば、楽でいてうまくいくやり方が会得できます。そのようにして自分の心身を信頼できるようになると、フォーカシングの、距離感を持って見守るあり方とは正反対であるけれど、ものごとを成し遂げるには必須な能力といえる「我を忘れて物事に没頭する」コツも会得できます。

 マインドフルネスがテーマとしている「今この瞬間の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れる」というあり方を、瞑想などでトレーニングしていると、フォーカシングを同じく、思考のループを止めることができます。また問題へのとらわれもなくなっていきます。

 坐禅瞑想を重ねることで事実と想像や観念との区別をつけられるようになると、マイナス思考に振り回されなくなります。曹洞禅宗の只管打坐といわれる坐法を続けることによって、肩の力の抜けた等身大の楽な生き方が深まっていきます。また自我へのこだわりを抜けて、あるがままのあり方を体得することで、悩みことが極端に少なくなります。

★参考ページ:『心理療法


心全体の構造図 フロイト・ユング・マインドフルネス・禅

西洋の自我を中心にした心理図

 心の構造図として一般的なのは「意識は氷山の海面に出ている一角であって潜在意識は海中にある氷山のように大きい」という説明でよく知られる、フロイト・ユングの意識・無意識を元にした図です。19世紀後半にフロイトが無意識という考え方を提唱して以来、発展してきた(深層)心理学の基本にもこれがあるわけです。それは「人は素晴らしい思考力・理性を持っている。だから客観的になって考え(科学する)れば答えを出せる。そのようにして心を研究してわかったのは、人間には無意識というものがあると言うことである。そしてその無意識に抑圧した ものを自我意識に統合することによって悩みや症状が解決する」という科学的な論理です。

従来の精神面に限定された心の構造図

 フロイト・ユングの心の構造図は自我意識と無意識に分かれています。そこには身体や環境は含まれていません。あくまでも理性を中心とする考えを背景に持つ西欧で生まれた心理学だからなのです。

禅仏教のあるがままのあり方を主体にした心理図

 ところで東洋では2500年前にインドで仏陀を始祖とした仏教が発展しました。仏教には開祖となる仏陀の教えにとどまらずに発展したものまで含めると、数千に及ぶ経典があります。仏教経典には戒律から修行法や行住坐臥までいろいろ含まれています。しかしその基本とするところは観相から得た心理学的なものです。それらは仏陀の説法を元にしています。あいにく仏陀自身が書き残したものは残っていません。さまざまな宗派がそれぞれに釈迦はこう言ったああ言った、といって伝説化したものを掲げているのです。

 そんな数多い宗派の中で、中国と日本で発展した禅宗は「仏陀が苦行をやめ菩提樹の下で結跏趺坐をして瞑想に入ってそれによって悟った」というそのこと自体を追体験していこうとする実践に重きを置くものです。スポーツや武道、芸事と同じに体現学習をメインとしているのです。他の宗派では、経典の教えを第一と掲げ守っていこうとする経典中心のものから、実践修行はあっても、例えば有名な千日回峰行や念仏・題目をあげるなどに見られるような、お釈迦さんが悟りに至った修行方法とは直接繋がらないような修行法を用いている宗派もあるのです。

 何事にもいえますが、マニュアル(教義)を読んでその教えをそのまま実践するだけでは、ともすると頭だけで知的に理解して心身はそうなっていない場合が多々あります。禅仏教の掲げる最初の物語に、拈華微笑(ねんげみしょう)というのがあります。仏陀がある説法の時、ただ黙って花をかざしてひねって見せました。それを見た弟子たちは何だろうと頭を巡らすばかりでしたが、そんな中において摩訶迦葉だけが微笑したのです。仏陀の伝えたいことが言葉を超えた今の事実そのものであることがわかった摩訶迦葉。その故事によって仏法の奥義が伝授されたとされているのです。そんな禅には、お経本を焼いてしまった僧や、悟った後に、それまで一生懸命唱えていた観音経の教本をお尻に敷いていた女性がいたりと、常識外れの行動が逸話として残っています。それは理屈よりも実践中心の手法が極端化して出た行動といえるでしょう。

 ここで、仏陀が坐禅瞑想に入って悟りを開いて後に、仏陀が最初に以前の修行仲間に説いた「四諦(したい)=苦・集・滅・道」というのがあります。それを私のかってな解釈ですが現代語訳的に意訳して述べてみます。

 ・・・もともと人間が作ったのではないこの世で起こる出来事の多くは、人間ではどうしようもない事が多くて当然である(苦)。しかし、人はよくそれをわきまえないままに、何とか自分の良いようにしたいと思い解決策を考えてしまう。それから、逃れよう、乗り越えよう、良くしよう、解決しようなどのような動きがたち起こる。そうすると必ずこだわりが発生するので、それによって逆に苦悩が作られ膨らんでしまうのである(集)。苦悩の解決策としてはまず、この世のことは宇宙の法則として、人が知恵を働かせる以前に人知を越えて、今に生滅して完遂しながら流転しているのが真実であることに気づかねばならない。そしてだから、私たちは何事があっても、あるがままに居れば悩んだり苦悩が起こることはなくなるのである(滅)。そうなるためには坐禅を実践してそれを理屈でなく体得すれば良い(道)。・・・「あるがまま」という言葉。それは図らずもビートルズが歌っている、マリア様がくれた言葉「Let It Be」とほとんど同じ言葉ですね・・・

 禅修行で「まず坐れ」とか「ただ坐れ」「無心に作務をしろ」などと指導されるのは、先にのべたように、理屈に走らないで事実や行為そのものを重要視しているからなのです。そのためフロイト・ユングの心の構造理論に関しては、真っ向から理屈っぽいと対立することになります。確かに西洋人は心の悩みについても逐一言語化して理論づけないと気が済まないようです。日本人として初めてのユング派の心理療法家となった河合隼雄氏は、その著書ユング心理学と仏教の中で「仏教では根本的に言語に対する不信感を持つ傾向がある。西洋に生まれた心理療法においては言語が重要視されます。とか(箱庭療法の)指導をしていていつも感じるのは、欧米人はわれわれ日本人に比して、明確な理解を急ぎすぎることである」などと述べています。

 また戦後の日本の催眠界をリードしてこられて、後年は動作療法を提唱されている成瀬悟作先生は、ある雑誌社のインタビューで「ヨーロッパやアメリカで発展した精神分析や心理療法は、結局意識的にわかること、知る事、理解することが大事だと思っている。それは伝統的に、考えたり、知ったりすることが人間として生きている証だと考えていたからじゃないですか。〈・・・中略・・・〉でも、そういうことと全く関係なしに、身体のバランスを変えるだけで心の病が取れてしまうことがある」などと言って身体の動きをメインにした治療法を提唱しています。

 禅には不立文字という言葉もあるくらいに理屈っぽさの排除が徹底しています。もう言葉を使うこと自体がマニュアル化や地図するという作業であって、実体から離れる危険性があると否定して、前半に述べた「拈華微笑、以心伝心」を強調するのです。それは、キリスト教における、聖書の教えを学んでそれによって自分をコントロールしていこうとするのとは真逆のあり方といえるでしょう。

 例えばパソコンなど機械類ならマニュアルを読んでその通りの手順をふめばちゃんと操作できます。そんな科学的操作法があまりにも有効だったために人は自分の心身もマニュアル通りに操作しようとしてしまうのです。スポーツや芸事なら、すぐにはマニュアル通りには行かないことはだれでも承知しています。けれども目に見えない心の事に関しては、直ぐにマニュアル通りにできるような気がしたり、まねている内に本物になるような気がしてしまうのです。キリスト教の牧師さんに偽善者が多いという話題になるのは聖書を読んで記憶してしまえば外見だけは格好がつくからです。けれどもキリスト教だけでなく仏教徒にも教義だけを鵜呑みにして格好だけの人も多いのです。さらにはカウンセラーや心理療法家の中にも理屈だけを学んで、それだけで他の人を治療しようとしている勘違いな人もいるのです。

 理論と実際との違いといえば、地図についてはそれを実際の地形と間違う人はまず居ません。けれども私たちは言葉を使い始めた時点で概念(心の地図、観念)と事実や実体とを混同してしまったのです。確かに「木」と言ってもそれは「木」を指し示す概念であって「木」そのものではありませんね。でも自分の内で勝手に「木」を想像しておいて、わかったつもりになったりします。

禅の考え方を元にした心身相関図

 これまで事実が大事と言いながら矛盾してしまいますが今回私は不遜にも、そんな地図を否定するような禅仏教的なあり方をあえて地図化してみました。

 ケン・ウィルバーの意識のスペクトルの考え方によると。人は物心ついてからまず自分の皮膚と外界を区別します。図でいえば②の楕円の点線の部分です。次には意識③と身体②を区別します。図でいえば③の外にある円に当たります。そして最後は自我(網線の部位)と自我でないもの(自分の性格にそぐわないもの・影)を区別したのです。これは人間が勝手に作った境界線なので事実ではありません。けれども私たちはそれが事実であると教え込まれ頭の中に自分という実体があるのだと知らぬ間に思い込んでしまったのです。

 禅仏教からするとフロイト・ユングの心理構造は仏教で六識といわれる眼、耳、鼻、舌、身、意の6種の認識器官の中の「意」に当たる部分に過ぎなくなるのです。禅仏教では自我は実体としては元々ないのだとまでいい切ります。そして先に四諦(したい) の説明でも述べたように、思考し分別することによって悩みや問題がたち起こり苦悩するのだから、理性にこだわらないあり方を会得しなければならないというのです。

 禅宗派の一つである臨済宗では公案(禅問答)によって、つい働きがちな理性・分別の動きを手放さずをえなくなるような修行をします。例えば隻手の音声という公案があります。両手を打ち鳴らせばパンと音がする。では片手の音を聞いてこい老師は言います。このように理屈に合わない文言になっていて、その答えを出すのに真剣になればなるほど、考えが行き詰まるように仕組まれているのが公案なのです。理性で考えている範囲ではこれについての答えを見いだすことはできないようになっているわけです。

フロイト・ユングの心理図と禅仏教の心理図を合わせた図

 禅の手法とフロイト・ユングの心理療法との問題解決の違いに関して、ここであらためて対比してると。フロイト・ユングの心理学では、自我意識が行き詰まったときには人間の持つ素晴らしい能力である理性を使って、潜在意識のものを自我意識に統合すれば乗り越えられる」と言うことになります。禅仏教の方では理性をすべて否定はしませんが「宇宙意識からしたら取るに足らないような人間の理性であれこれ考えたり、何でもコントロールしようとするから苦悩がはじまるのである。自我意識は元々実態はなく観念的なものであることに気づいたりして、自我中心主義をやめるのがよい」ということで両者相反したあり方になります。

 近年は西欧でもヨガの流行などによって身体面も重要視され、その次にはマインドフルネスも流行ってきて、西洋で生まれた心理学と禅仏教の考え方の歩み寄り、統合がはじまったといえそうです。西洋でのヨガの流行は、あまりに自我意識中心に精神面に重点を置いて、身体的な側面を下位に見てきた西洋人が身体との関係を見直してきたためであると言われています。そんな身体の再生の次の潮流がマインドフルネスでしょう。ヨガが浸透したと同等くらいに広まるかもしれません。

 マインドフルネスのいう「今に注目する」ということは、自我中心主義で心と体をコントロールするのでなく、今という自我意識が働き出す以前に、すでにある様子に目を向ける(委ねる)ことになるのです。自我中心の西洋人がそうでないあり方を会得しようとし始めたのです。もちろんこの課題は西洋人だけではありません。良いも悪いも科学の恩恵を受けている日本人の内面においても同じ課題となっています。そんな日本でもマインドフルネスは逆輸入的におおいに流行ることでしょう。

 マインドフルネスは禅仏教の教えを元に「今この瞬間の自分の体験に注意を向ける。現実をあるがままに受け入れる」というあり方を目標に呼吸瞑想などいくつかの瞑想を実践していくものです。その効果としてはストレスの軽減からはじめ、心理的問題の解決や集中力の向上他さまざまな効果があると言われています。欧米では近年ヨガの流行によって身体側面の復権が行われてきました。次にマインドフルネスという言葉によってさらに禅仏教的なありかたが浸透しようとしているのです。しかしその内実は、まだまだ「注意を向ける」というような自我意識から向かおうとする行為が残っています。ですからそれはまだ自我意識寄りの考え方なのです。

 逆に言うと、マインドフルネスレベルだとまだ自我意識中心なのでとっつきやすいですが、禅仏教の自我を認めない徹底したあり方はなかなか受け入れがたいのではないでしょうか。禅仏教のあり方(悟ってみれば)からするとフロイト・ユングの心理図は余計なものとなるのです。しかし河合先生は、自分の心理療法が、気がついてみれば仏教的あり方に即したものであったと言いながらも、科学の恩恵を受けて生きている現代においては西洋的あり方も無視できないのではと言っています。私自身は悟りに至ってないからかフロイト・ユングの心理図が気になります。また河合先生が「言語化は必要である」と言われていたので、それを捨て去りがたいのもあります。そこでフロイト・ユングの心の図に禅仏教的なあり方を図式化したものを無理やり合体させて両者の合体図を作成してみました。また実際問題として、自我意識が抑圧したものが(横軸の)現実世界を見るときにどうしても投影されて見えてくるという問題点があるので、その点でも両者をひっくるめて考えていきたいのです。

西洋と東洋の考え方を合体させた全体の構造図

 禅仏教の六識といわれる眼、耳、鼻、舌、身、意の6種の身体機能や、現実や環境、その今あるがままの様子を含めた方面を図式化した和風心身相関図を横軸に、精神面を図式化したフロイトやユングの心の構造図を縦軸にして重ね合わせてみました。しかしこの図はとりあえずまとめてみたというレベルです。矛盾もあれば、相対立する部分もあるので、きちんと統合されているとはいえません。けれどもこの図によって旧来からあるフロイト・ユングの精神面に限った心の構造図に限定しないでこの現象界の全体図を概観できます。

 この図には書き込んでいませんが、ユング心理学では心の構造図においては自我に対するセルフ(自己)を心の深層の中心に位置づけて現した図(考え方 )が広まりました。そのためにセルフは心の深層にあるのだと勘違いしやすいのです。河合隼雄先生はその著書「ユング心理学と仏教」の中で・・・私はユングが「自己」とは何か具体的に示して欲しいという質問に対して、「すべての皆さん」(all of you)と答えたという逸話が好きであります。・・・・と言っています。この河合先生が賛同するユングの考え方は縦軸であるフロイト・ユングの心の構造図だけでは現せられませんが、私が禅の考え方に即して作成して付け加えた横軸の図に現れるものすべてが自己だということで位置づけができます。

★参考ページ:『自分を知るための心身相関図 催眠・禅・意識の勘違い


カウンセラーを捜す時に気をつける事

 ある著名な文筆家のカウンセリングに関する著書に、自分に合ったカウンセラーを見つけるには五年かかるとありました。ちょっとビックリですね。五年したら治ってるよ、と突っ込み入れたくなりますが。でも確かに自分に合うカウンセラーを見つけるのはそうそう簡単にはいかなそうです。

 普通はごくシンプルに「こんなカウンセラーが良いなぁ」と思い浮かべるような人を探す事になります。そしてそれに近い人が居ればそのカウンセラーと心理面接に取り組むことになります。けれども、残念なことに力量のあるカウンセラーばかりではないのです。心は見えないせいもあって、一見頼りになりそうな人でも、それは表面的なものに過ぎない場合もあります。

 カウンセラー選びに限らず、他の例えば自分に合う靴や、自分のやりたいことに見合うパソコンを選ぶ際にもよりピッタリしたものを欲しいなら、時間や足をかけて探す必要がありますね。そして靴でもパソコンでも、自分にあったものを選ぶ際には失敗しないようにチェックポイントをわきまえて調べていくべきです。それと同様にここではカウンセラー選びをする際に気をつけるべきチェックポイントを述べてみようと思います。

 まずはじめに、悩んでいる当人に親身になってくれる人でなければ話ははじまりませんね。そして次に話がしやすい人です。特に反論がしやすく、そこをしっかり受けとめ聞いてくれるカウンセラーだったら、もうかなり良いカウンセラーに出会ったといっても良いでしょう。ここで注意しなくてはならないのは、悩み苦しんで「どうしたら良いかわからなくて早く答えが欲しい」と思っている場合は「こうしなさい」などとハッキリしたことを言ってくれる力強いカウンセラーが良いように見えることです。もちろんあまりにも自分が頼りない場合にはカウンセラーにしっかり支えてもうことが必要な時もあります。でも何時までもそれだと自立できなくなってしまいますよね。

 それでなくても私たちはカウンセラーの所に相談に行こう思うと、ちゃんと話しできるかしらなどと気が引けたりするし、ましてや反論など思いもつかないくらいに自分が下に見えたりもしてきます。ですからあまりにもカリスマ性が強いようなカウンセラーだと頼りがいあって良いようだけど、ずっと上下関係のままになってしまってほんとうの意味でよく(自立)なれないのです。

 その逆の、会うと話がしやすくて反論などもできそうなカウンセラーはカリスマ性がなくて普通のただの人に見えたりします。おまけに自分の悩みを早く良くしてもらいたいとの期待が強かったりすると、そのカウンセラーがなんだか頼りなく見えてくる場合さえあるのです。でもそんなカウンセラーの中にも意外に力量のある人がいるのです。ですから「こうしたら良いとか、すぐには答えがでなかったけど、なんかよく話ができたし気持ちをわかってもらえたな」などと思えたなら、そのカウンセラーの所にしばらく通ってみるのが良いでしょう。

 やはりカウンセラーに最も必要不可欠なものは、なんといっても共感能力です。わかってもらえそうな感じがしないカウンセラーや心理療法家は、はなから避けた方がいいと思います。知名度が高くカリスマ性があったりして説得力があるので、カウンセラーとしての力量がとてもありそうに見える心理療法家がいます。でもその中には自分の考えをアピールするには長けていても、悩み苦しむ人の心に寄り添うことはできない人がいるのです。

 なぜかというと、一面的で断定的な物言いをするほうが一見すると説得力がでます。そのような表現をする人は、割り切った考えが身についてもいるでしょう。それで本人は確かに葛藤したり悩んだりすることはないかもしれません。けれどもその分、様々な葛藤を抱えたりして悩み苦しんでいる人をわかることもできません。思慮深くなればなるほど明解な言い方はしにくくなるものです。その意味ではあまりに明解な言いをするカウンセラーもよした方がよさそうですね。

 共感能力をもう少し詳しくいうと「悩み苦しむ人に寄り添ってそこを共にしていける能力」といえます。河合隼雄先生は作家小川洋子との対談本『生きるとは、自分の物語をつくること』の中でそこを「悩み苦しむ人のいる世界の内側にとどまるということが大切」「望みを失わずにピッタリ傍に居れたらもう完璧なんです」などと表現しています。

 河合先生はとてもわかりやすい言い回しで述べていますが、これがなかなか至難の業なのです。カウンセラーは自分の心の器を広げ深めるために、心理学の勉強はもちろん、その他、人の心に関するあらゆる勉強をしなければならないとも河合先生は言っています。ホントの意味で器の大きな人というのでしょうか。「望みを失わずに悩み苦しむ人の傍にいる」というのは結構命がけだったり、フラフラになったりと大変な心の作業なのです。

 昔、カウンセリングに長い間通ってきていたクライアントから「先生は紙のお皿くらいの器だ」と言われたことがあります。その当時、私はそのクライアントが面接の中では全く自分に向き合った話をしないことにイラついていました。そのクライアントを内心では「何で肝心の所を話そうとしないのだろう」と責めてもいたのです。そしたらちょうどそのクライアントが登場する夢を見ました。

 その夢の中で、クライアントは高い高い崖の上の道の、直角に近いカーブの出っ張りの所から崖下の川に向かって釣り糸をたれていました。私はそのクライアントの傍に行こうとしましたが、あまりにも崖が高くて下を見て怖くなりました。みっともないことに、すぐに私は一人で這いずりながら安全な場所に逃げました。

 この夢で、私は意識の上でクライアントを責めていたけど、実は私自身が逃げていたことに気付かされました。ちゃんと釣りをして獲物を得ようとしているクライアントなのにそこは全くわかっていなかったのです。私はそのクライアントの居る、ギリギリの崖っぷちの世界が怖すぎて一時も一緒には居られませんでした。恥ずかしながら、これでは「紙のお皿くらいの器」と言われても当然ですね。

 この辺りの感じは、真摯に悩んでいる状態でしたら「このカウンセラーわかってないなぁ」とかすぐにピンとくるのでそう感じたら「先生の器は紙のお皿くらいですね」とそのカウンセラーに言ってみるか、他を当たるかした方が良いでしょう。後もうひとつ、心理面接にはカウンセラーとの相性も大事です。といっても相性が良いか悪いかなどを深く考えるとよくわからなくなってきますよね。このところは「このカウンセラーは何か感じがいいな」などの閃きというか直感的な感覚の方が当たっている場合が多いようです。


カウンセリングで本当に良くなるの?

話をするだけでなぜ良くなるのか

 話をするだけでは悩みは解決しないのでは、と思われる方は少なくはありません。でもそんな人でも、友達や誰かに自分の話をピッタリわかってもらった時、思わず自分の声が弾み、その後の話に勢いがついてくることを、それと知らずにでも経験したことがあるはずです。その時に心が解放されて、のびのびエネルギーが動きはじめたのです。

 信頼できるカウンセラーにだと話を聞いてもらった時『なるほど』と言ってもらうだけで、今まで不安定だった心がスッとおさまり、落ちついて来たり楽になったりします。このような事からも、カウンセリングがかなり役に立ちそうに思えてきます。

 人にわかって(共感して)もらうことはとても心地よく良いものです。安心感で包まれホッとします。そして立ち向かう勇気が出てきたりもします。共感はすごいパワーを秘めているのです。それが常に基本にあるのがほんとうのカウンセリングといえるでしょう。

 もちろん人の心はなかなか、わからないものです。でもクライエントの身になって、なんとかそれをわかろうと努めるのがカウンセラーの役目です。かといって心あるカウンセラーなら無理矢理人の心に入り込もうとはしません。クライエントの方も話したくないことを無理に話す必要もありません。わかってもらったからこそ、そこで自然に次へと話したくなったり、深まっていったりします。そうして心の整理が進むのです。

 このようにわかってもらえる人(信頼できるカウンセラー)とともに一緒に取り組んでいくところから、心的パワーも強まり、悩みや問題を解決することができるようになっていきます。

 現代ではさまざまな心理技法がありすぎる位にあります。でもそのどれもが治療者側のクライアントへの共感しようとする態度を強調しています。それがあってこそ、その技法の持つ治癒力を最大限発揮できるからなのです。

 心の専門家にカウンセリングで話しを聞いてもらうということは慣れないうちはかなり勇気のいることです。実際にはそんなことはないのですが、面接の前には自分のことが見抜かれてしまうのでは。などと不安になる場合もあります。実際に会って話してみたらそんな心配はどこかに行ってしまって楽に話せるものです。

カウンセリングといっても色々あるそのやり方

 カウンセリングという言葉は、心理療法とは直接に関係のないような、例えば美容関係の案内文の中にも「カウンセリングを行ってから・・・」などと使われていたりします。ですから一口に「カウンセリング」といっても中身は全然違っています。 心の治療分野に限っても様々な派があって、同じカウンセリングといっても、その手法はずいぶんと違っているのです。

 霊感的なものをクライアントの問題解決に用いるというスピリチュアル・カウンセラーもいますね。 また同じ派内においても心理療法家個人個人でそのやり方はかなり違ってきたりもします。

 当相談室で用いている「カウンセリング」は、米国のC.R.ロジャーズの始めた「来談者中心療法とか、パーソンセンタードアプローチ」などと呼ばれる、援助技法を手本としたものです。カール・ロジャーズを手本としたカウンセリングではカウンセラーは聞き役一方になることはかなり多いです。それはカールロジャーズの提唱したテクニック上からそうなる場合もあれば、よくよくクライアントの話を聞いているとそうそう簡単にアドバイスができなくなることも多くなるので、そうなるのもあるわけです。

 でもカウンセラーが聞き役一方でも、本当に気持ちをわかってないで上辺だけで聞いているなら、真剣に話してるクライアントは直感で、あ、この先生はわかってないな、と感じられたり、自然にもう話す気持ちが失われてしまいます。

身体から変化していく

 普通はクライアントはしばらく話しをすれば治療者の良いアドバイスを聞きたくなります。ロジャーズの提唱したやり方にのっとっていない治療者だとそれに対してアドバイスをしてくるか、またはその治療者の依拠している心理技法を用いて解決することを勧めてくることが多いでしょう。

 でもアドバイスというものはどうしても知的になりがちです。カウンセラーから良いアドバイスを聞いてクライアントがそれを用いて良くなったとすれば、それはよほどクライアントに現状を変えていく力があったからか、かなり簡単な問題だったからです。アドバイスが役に立たないからこそカウンセリングをするのだといえそうですよ。

 機械を動かすのなら正しい取り扱い方の載っているマニュアルがあります。でも心の問題はそのような頭で操作するところとは別にあって、その解決も不思議に頭で思い描いていたのとは別の所からもたらされるのです。そのようなハウツウ的なものでないカウンセリングや心理療法での本当の効果は頭(理性)より身体から先に現れてくると言えます。意識で治った!などと思っていても身体は全く変わっていない場合があるのです。

 例えば良くあるのは、カウンセリングを受けていたら、本人はそれほど自覚がないままに前より周りに積極的に働きかけることが多くなっていたりすることです。良い意味でお喋りになったりしている場合もあります。もっと話しするようしましょうなどと、意識してそうなっていったのではありません。自然に身体から変化してそうなっていくのです。

頭で学ぶのではないカウンセリング

 カウンセリングでは話し合いの中でクライアントが自分の感情をより正直に率直に出せるようになることが良くなっていくための基本の作業となります。もちろんその感情や情動は無理やりにでも出せば良いというものではなくて、それはクライアントとカウンセラーの二人で受け止め消化できる範囲でなくてはなりません。

 そのような点から、一番シンプルなカウンセリングの効果としてよくあるのが「話を聞いてもらいたくて来た。そして話してわかってもらったらスッキリしました」とサッパリすることです。自分の内面を深く掘り下げることなどはそれほどしないでも当面の心の苦しさが解消することでスッキリして「また困ったら来ます」などと一回の面接だけで済む人もいるのです。

 ところがそうでなくて「どうしたら良いか・・」などと問題を解決しようとして「頭で考える」方向に話しが向かってしまう場合があります。頭で考える作業も必要でとても大切なものです。でもそれはカウンセリングの本流とは違います。もちろんカウンセリング場面でも理性でシッカリと考え理解することがとても役立つ場合はたくさんあります。でも頭ばかりで考えてしまうと「~すべきだが、わかってもできない」などと感情や体感と離れて堂々巡りになってしまいがちです。

 他の心理療法機関で心理療法を受けていたというクライアントがよく来談されます。その中で私もよく知らないような難しい心理学用語を使って話しをされる方がいます。心理学用語は心の状態を表すのにピッタリの場合も確かにあるわけで、その言葉によって気づきが促進される場合もあります。けれどもそれとは違って知識だけが一人歩きしているふうな、実際の体験や感情とはほど遠いような話しっぷりなのです。

 これはその方の相手をしたカウンセラーに問題があります。カウンセリングや心理面接で話し合うさいに、理屈中心で直そうとしたのでしょう。頭だけが治ってしまったといえるかも。

 心理面接場面では、クライアントの本音や、シックリくるこないなどの「体感的な納得感」を大切にします。それによって上滑りにならない心理療法が進められるからです。それを怠ったのでしょうね。たぶん治療者が頭で学んだだけで心理療法を行っているのかも。または元々頭でっかちで生きている人だったのかも知れません。

 カウンセラーが、豊富な心理学の知識でクライアントの相手を(例えば心理分析や解釈などを)することがカウンセラーの主な仕事であると勘違いしている危険性が考えられます。心理面接場面でカウンセラーがそのような接し方を中心としていいると、熱心なクライアントほど同じように知的になろうとしてしまいます。その結果、こころとからだとがそれまで以上に複雑に乖離してしまうのです。

 またカウンセラーが「こうすればよい」とアドバイスをした場合でもクライアントが腹から納得できるものでなければ、実行する気になりませんから無駄なアドバイスに終わります。しかしもっと良くないのは、アドバイスされた言葉のようにしなければと自分のペースを無視してまで頑張ってしまうことです。

 この危険性の本質は、元々人が苦悩してしまう根本の原因でもある『心とからだがバラバラになって一体になれなくなってしまっている』こと。言いかえると知性で学習したことと、からだや心の深いところとが切れてしまって引き起こされる問題と同じなのです。

 とても皮肉なことですが、実は心と身体がバラバラになってしまっているがために悩み苦しんでいたわけなのに、その治療に行ったら、それに上乗せしてより複雑に心と身体をバラバラにされてしまう場合があるということです。

 悩んでいる人が今後をより良く生きていくようになるために、本物のカウンセリング(心理療法)ではクライアントが今まで顧みなかった自身の「こころやからだ」と良い関係が持てるように、そこと繋がることを目標にします。そのためには、すぐに治そうなどと、自分をコントロールしようとすることは一旦置きます。そして自分の心と身体をもっとよくわかろう、感じとろうとするのです。不思議なことにその方が急がば回れで、かえって早く良くなるのです。

カウンセラーはなぜ聴くばかりになるのか

 もう30年以上前の話ですが、催眠教室に勤め始めて催眠療法士としてクライアントに接するようになった私は、催眠療法だけでは心理療法として不十分なところがあるのがわかったのです。そこをなんとか克服しなければ、と模索する中でこれだ!と見つけたのがユング分析心理学派の河合隼雄氏の著書でした。

 その『カウンセリングの実際問題』という河合先生の本はその内容のどれもが素晴らしくて、その後私が本格的な心理療法の世界に入っていくきっかけになったのです。タイトルに、カウンセリングの実際問題とあるようにこの本は理論について書かれたものではありません。そしておもしろいことに日本で最初のユング派分析家であった河合隼雄氏のおはこであるユング心理学については全く触れていないのです。

 その当時ロジャーズ派のカウンセリングは全国規模で流行り、様々な人が学んでカウンセリングを実践するようになっていました。でも、カウンセリングを学ぶにあたって、形や理屈から入って学んでいくためか、実践でなかなか役立たないカウンセリングに終始してしまう人が多かったのでしょう。たぶん河合先生はそんな人たちにもっと実力をつけてもらいたいためもあってこの本を書いたように思えます。心理療法の先駆けとして、とにかく実際にクライアントに役立つことを一番に書かれた本です。

 私は河合隼雄氏の『カウンセリング実際問題』という著書に接して、二律背反の考え方(ものの見方)を学びました。そして物事をハッキリ断定できないで、弱いと思いこんでいた自分をかなり救えたと同時に、それまでより広い視野から物事を見れるようになったのでした。

 一面的な考え方やステレオタイプ的なものの見方に対して、うまく言葉にできませんでした。でも、どうもシックリこないなぁ、などと感じていたのです。例えば「テレビなどでは曖昧な言い方は視聴者受けしないので良くない。コメントは断定的に言う方が良い」という意見を聞いたことがあります。確かに時間の制限の中で場面を切り取っていくテレビ的には、ジックリ話しを煮詰めていく時間がないので単純なハッキリ断定した物言いが一見わかりやすいし、そのように表現する人物がまかり通ってもいますね。

 ところが『カウンセリングの実際問題』には、再三再四、二律背反性に関して書かれてあって「カウンセリングは二律背反性が多いのだから単純に物事を割り切って考えてしまうと失敗することが多い」といっているのです。そうなんです、カウンセリングでは断定的にものが言えない方が普通だったのです。

 傾聴などというように、正当なカウンセリングではカウンセラーは話を聞くだけに終始することが多く、断定的なことはほとんど言わないわけです。それには「本当にクライアントの気持ちが分かれば分かるほどに簡単にはものが言えなくなる」という深い理由があったのです。また可能性をより多く考えられるほどに、ひとつにハッキリ決めることもできなくなるのでさらに言えなくなるわけです。これは葛藤だらけ状態の中に身を置くということです。

 河合先生は他の本の中で「その子(クライアント)のいる世界の内側にとどまるということが大切」とも言っています。そこからすると、例えば沈黙に耐えられなくなった時など、クライアントの世界に寄り添うためにカウンセラーが話しをすることは必要なことではあります。でも下手なカウンセラーほど自分が早く了解して安心したいために自ら考えをつくり出してそれを話してしまうのです。

 同じ話をするにしてもそこには大きな違いがあります。クライアントの世界にとどまるための話は端的で短い場合がほとんどです。カウンセラー側が早く安心したくなっている場合の話は、理屈中心だったり、お説教ぽくなったりなど、話が長くなる傾向があります。

★参照ページ:『心理療法』『心の悩みや問題を乗り越えて行く道の地図と心理療法の実際


あがり症克服のコツ(1~9)

 このブログページには、電子書籍として作成した「あがり症克服のコツ 1~17」の前半部「その1~9」までを無料でアップしてあります。 1ページ内にまとめてありますが、読みたいところだけ読むこともできるように、目次にリンクを貼りました。興味ある目次をクリックして、そこを読んで頂いたりしながら入り込んでいただければ取っ付きやすいかと思います。

その1 はじめに
その2 なぜあがってしまうのか
その3 どうすれば良いかを先に言うと
その4 具体的な葛藤事例
その5 慢性化したあがり症の場合
その6 よいアドバイスが全く役立たない場合も
その7 真面目で正直な人ほどあがる
その8 本来の目的を見失ってしまう 1
その9 本来の目的を見失ってしまう 2

その1 はじめに

 私の営んでいる横浜心身健康センター心理療法室には心から来るさまざまな問題で悩んでいる方がその解決のために来談されています。そしてその中にはあがり症やスピーチ恐怖症で悩んでいる方もかなりの数にのぼります。

 人前であらたまってスピーチをしたりすると、ひどく緊張して動悸が強くなり、赤面したり体が震えたり、頭が真っ白になったりして、人前でこうありたいと思う理想の半分くらいもできない。そして終わった後は人目が辛くて穴があったら入りたいような恥ずかしさにおそわれてしまう。そのために人前で何かすることが苦手意識や恐怖にさへなってしまって、その場面を想像するだけでも動悸がしてくるというまでになっている人もいます。その苦手意識の強さの程度は違えども、このようなあがり症、対人恐怖症の問題で悩んでいる人はとても多いのです。

 こんな悩みを他人や家族にさえも相談できずに一人で長年悩んできたという人も少なくありません。学校の授業で本を読まされた際にあがってしまって、スムーズに読めずにクラスのみんなに笑われてしまった。その後も似たような経験をしてそれらが大きなトラウマとなってしまった人もいます。また、電車の中や家の近所の人の目も気になるので気軽に外に出かけられない。夜みんなが寝静まった頃に外に出たら、誰もいなくてとても楽な感じがしたことがあると言った青年もいました。

 私はそのような問題で悩んでいる方々と個別の心理面接でその解決に長年取り組んできました。その内容や解決に向かう道はひとりひとり千差万別です。でも、そんな個別の作業を地道に積み重ねていくうちに次第に他の人にも通底するような、あがり症やスピーチ恐怖に共通の心のパターンやその特徴というものが見えてきたのです。実は、この見えてきたものは、あがり症やスピーチ恐怖症に限らず、人が行為、行動するときには全てにおいて陥りやすい問題でもあるのです。それは心とからだがバラバラになってしまったがために起こってくる問題であるのです。

その2 なぜあがってしまうのか

 こころとからだがバラバラになってしまっているからあがってしまう。というのをより詳しくいうと『人前に出ていざスピーチしようという段階に至っているにもかかわらず、心はまだ葛藤し迷っている。そこでそれに連れてからだも迷うままになり身動きが取れなくなっている』つまりあがった状態にあるといえます。この所をよくふまえた上で対策を立てていくことで真に適切なあがり症の克服方法が必ず見いだせるのです。

 人前に出たということは行為すべき時がきているのです。それなのに、いろいろ相反する考えが思い浮かび、心と身体がバラバラになり一丸となって事に当たれなくなってしまっているのです。このような状態を競泳で例えてみましょう。もし泳ぎがあまり上手でない人でも、競泳に参加して「用意ドン」とプールに飛び込んだら後はもうゴール目指して一生懸命泳ぐしかありませんね。ところでプールに飛び込んだ後に「・・・自分は上手に泳げるんだったっけ。泳ぐの止めたいな、でも泳がないと、どうすれば上手く泳げるかしら、、」などと考え葛藤してしまったとしたら、手足はまともには動きません。 悪くすれば水中にズブズブと沈んで溺れてしまいます。このように競泳に例えるとあり得ないようなおかしな状態が、実は人前に立ったとき、あがってしまっている人の内面で、それと知らぬ間に起こっているのです。

 水の中なら、とにかく手足を動かさないことにはおぼれてしまいますから一生懸命泳ぐことひとつ(心身一如)になるしか手はありません。でも人前では溺れて死にそうになるまでいかないからでしょうか、心身一如でない葛藤したままのあがり状態に終始してしまうのです。

その3 どうすれば良いかを先に言うと

 あるやり方を他にも役立てようとマニュアル化するときには表面的なものを見ていくのではなくて、その根本(本質)を見抜いてそこから普遍化、一般化しなければ万全ではありません。ここでは、個別のあがり症や対人恐怖症に関する心理臨床を重ねる中からわかってきた『あがりとは、心の葛藤によって心とからだが一体でなくなっている状態である』というのをその根本にしてそこからどうすればよいかを探っていきます。

 繰り返しになりますが、この根本にある状態をきちんと把握しないままに、自分がこれであがり症を解決できたので他の人にも役立つだろうなどと、そのテクニックだけを紹介しても、それは表面的なものであるために、ある人には役立つけれども他の人には通用しないというようなものになってしまうのです。そうならないためにもまず基本の『人前に出るとはどういうことなのか』を再確認しておかねばなりません。これが第一のテーマです。

 あがり症の人は人前が怖いために、嫌々、中途半端な気持や思いで人前に出てしまいがちです。人前に立ったばかりなのにもう「早く終わりたいな」などと思ったりしてしまうのです。また逃げの気持から、人前で何をやるかを明確に持っていません。またありのままの自分に自信がないせいで、人前に立ってから「みんなの反応がおかしい、私の話をしょうもない話と思っているのではないか」などと思えて焦ってきます。そうなればもし準備してきたものがあっても、他のやり方が良いのではないか、などと迷ってもきます。頭があれこれ考えはじめいそがしくなってくるのです。

 この状態を今度はファミレスで食事を注文するときに例えてみましょう。人前に立ってから、頭があれこれ考えてしまう。それはファミレスで食事を頼むさいに呼び出しチャイムを押して、ウェイターやウェイトレスを目の前に呼んでから、食事を何にしようかとメニューを見はじめるのと同じようなことなのです。場にそぐわない、おかしなことをやってしまっているのがわかるでしょうか。よほどの図々しい人でない限りはそんなことできませんね。ウェイターやウェイトレスを呼んだら選んだ食事を注文という行為をする時がきているのですから。そこで実際には食事を注文する時はウェイターやウェイトレスを呼ぶ前に今日はカレーにしようなどと決めておくわけです。

 それと同じに人前に立ったさいにも、すぐ行動に移れるように前もって心を一つにまとめておかねばならないのです。よほど人前が慣れている人でない限りは人前に立ってからいろいろ思考をめぐらしてそこで何をしようかなどと考えているゆとりはありません。けれども多くの人が思考を巡らす時と、心を一つにして行為、行動する時との区別をハッキリと自覚していないがために人前に立ってからも、頭がいろいろ考えはじめてしまうのです。

 あがり症の原因(本質)は心が葛藤して心身が一体になって物事に向かう状態(心身一如)になっていないということですから、それを克服するには人前に出たときに『心身一如になるように工夫』すればよい。ということになります。これが第二のテーマです。このための工夫として一番効果的なのは『人前で表現したいもの伝えたいと自分の気持のこもるハッキリしたものを持っておく』ということです。このことはまた後の章で詳しく具体的に取りあげます。

 例えばイメージトレーニング技法やプラス思考などは、それによってより強い心身一如の状態になることをねらっているから、それができた人には役立つのです。また例えば自信がつけばあがらない、というのも自信があれば迷ったり葛藤しないからあがらないということです。また時には、今から大事な試合に臨む直前にコーチから強い言葉で叱咤激励されて、それで迷いが吹っ切れ心身がひとつになったために、あがらないで試合がやれた、ということも起こるわけです。これら以外にも様々なあがり症克服の手法があるわけですが、それら全てが心身一如の状態に持って行くための工夫であるとみてよいでしょう。逆に言えばどんなに良いといわれる方法でも心身一如になれないとしたら役立たないのです。

その4 具体的な葛藤事例

 ある青年は絵を習っていましたが、絵の教室の少々厳しいその先生が見ている前だと手が震えて絵が描きづらくなってしまいました。カウンセリングしたりイメージ面接をしてみて解ったことは、自分はまだ先生の期待するほど充分な絵は描けないなぁ、と思っている部分と、でも先生の前ではその自分の実力以上にうまく描かないと怒られるのでは。と思っている部分があるということでした。 先生の前だとその二つの心が「怒られるのでは、、そんなに上手には描けないし、、な んとかうまく描けないものか、、でも無理だ、、」と葛藤してしまい手はそれに連れて震えるしかなくなってしまうというわけです。

 そこで彼と二人で考えたことは、絵の先生の期待通りに上手く絵を描くという、今の自分にできそうもない所はあきらめよう。自分のできる範囲で精一杯描けばよいのだ。と心を決めることでした。そして催眠療法でも、それを自分に強く言い聞かせるように暗示したのです。彼には他にも対人恐怖症などの課題がありましたが、それによってとりあえず絵の先生の前で手は震えないで絵が描けるようになったのでした。

 また、ある壮年男性は研修会においてふと皆の前で発言してみようと思いつき、手を挙げて発言をはじめたのでした。ところがすぐに自分が意見を明確にまとめていないことに気付いてしまったのです。「自分の考え意見を早くまとめなければ、でもすぐにはできない、もう発言を止めようか、いやなんかまとまったことを言わなければ、」などと葛藤し、焦り、口がこわばり中途半端なままに発言を終えたのでした。

 この壮年男性の人前での心の葛藤状態はまさに、その2の章のところで述べた水泳競技の例えと同じです。すでにプールに飛び込んでいるにもかかわらず、泳ごうか止めようか考え込んで溺 れてしまう人と全く同じ状態であるのがわかりますね。

その5 慢性化したあがり症の場合

 あがり症で長年悩んでいる人は「私は話し下手だ」との苦手意識が強くなっていて、人前であがってしまうことが劣等感となっています。また過去に人前でとても苦しかったり恥ずかしい思いをしたトラウマがそのつどよみがえり、それを思い出すだけでも、体がこわばり心臓の鼓動が早くなったりすることも起こってきます。このような場合には、その4の章で述べたようないうような葛藤は隅に追いやられてしまいます。それよりも人前に出ることが怖くて大嫌いになっているので「なんとか人前に立たないで済ませられないか、なるべく早く終わらせたい、でもちゃんとやらねばならないし」などの葛藤が前面に出てきて悩んでしまいます。

 人前であがっている時に当人の内面でたち起こっている心の動きをちょっと振り返ってみましょう。あがり症の大変さは、あがって緊張してしまう苦しさだけではありません。それを人に知られたくないので隠さねばならず、ますます緊張がエスカレート悪循環してしまう大変さです。そんなあがり症で悩むすべての人がこの通りとはいえませんが、まず人前であがることが劣等感となり、早く逃げ出したい思いと、そうはいかないという葛藤に心は支配されます。それがために人前に出てからみんなに伝えたいものを用意することをうっかり見過ごしてしまいがちなのです。人前で行為するさいの一番のかなめが盲点となってしまったのです。これだというはっきりした伝えたいものを持たないで、そちらを忘れたまま人前に出てしまって、その点でもどうして良いかわからず、全くのお手上げ状態に陥ってしまうのです。

 人前に出るということは、そこで何かを表現したり伝えたり訴えたりするということです。それは前にその2の章で述べたように、ヨーイドンでプールに飛び込んだらとにかく手足を動かしてゴールまで泳ぎ切ることと同じなわけです。まず人前に立つということは何かを表現したり伝えようとするという(プールに飛び込んだらとにかく手足を動かしてゴールを目指す)ことだと、再確認して良くわかっていなくてはなりません。その心構えをまず持って、逃げないでそれに前向きになるというような基本の所から立て直して行く必要があるのです。それがないままに中途半端な心持ちで人前に立てば、あがってしまうのが当然なのです。逃げたい気持ちが強いなら人前に立つことは諦めるべきでしょう。そうでないと必ず、逃げたい気持とやらねばならないという思いとの間で葛藤してしまうのですから。

その6 よいアドバイスが役立たない場合も

 あがり症でも症状が重い対人恐怖症を伴うようだったりする場合には個別の心理療法でその克服に取り組むべきです。何事もですが、問題が難しくなればなるほど簡単なアドバイスや「こうすれば良くなる」というようなハウツウ的な解決策は通用しなくなります。なぜかというと頭に知識を得て、それで外界や自分の心身をコントロールするという事ができないレベルにあるからです。神経症でも重くなればなるほど心と身体の亀裂が強く複雑になっているといえます。心と身体がうまく繋がっていなければ、いくら良い知識を頭に入れたとしても頭で思うことと心身のエネルギーやその動きとが噛み合わないので「努力逆転の法則」などと言われるような空回りに終始します。時にはそれでより心が複雑になって、ますます心と身体の繋がりが遠のいてしまう場合さえあるのです。

 この本では心理療法の説明が主ではないので詳しくは述べませんが、気持ちをよく解ってくれる信頼できるカウンセラーに共に歩んでもらい支えられることではじめて心身まるごとが変化していける場ができあがります。その中で次第に心と身体が繋がる事を体験し、治癒が起こり、その個人の個性にあった心身一如を会得できるわけです。

その7 真面目で正直な人ほどあがる

 真面目で正直であればあるほど自分に厳しくもなりますから、人前に出たと きにも「自分の内面にはみんなに表現するほどのものや自信を持って見せるようなたいしたものがないなぁ、、」と弱気にならずにはいられません。

 そのうえに、日本ではその場での一体感を優先しますから、みんなの前にひとりで立つ時にさえ、その場の一体感を壊さないようにしようと気をつかいます。冠婚葬祭などは粗相のないようにふるまわねばなりません。また個人的にも「恥をかきたくない、みんなに良く見られたいしそこまでいかなくても普通くらいには見られたい」などとと思えば、ありのままの自分とはかけはなれた理想的な言動か、または常識的な無難な発言をしなければならないとプレッシャーがかかります。

 でも真面目で正直で誠実だと、嘘がつけませんから格好だけうまくやらねばならないとか本音や自然体と違うところを見せなければならないという状況に耐えられなくなったりして、その葛藤であがってしまうのです。逆に他人がどう見ているかは関係なく「自分は凄いんだ、天才なんだ」などと思いこんで反省することのない人はあがらないわけです。極端な例えですが、どこかの政治家やプレイボーイのように、自分は口がうまくて何とでも誤魔化せる、などと思っている人は自分の内面がどうあろうとそこの反省はしないので、葛藤も起こらずあがりもしないのです。

その8 本来の目的を見失ってしまう 1

 その5の章で「人前に出るということは、そこで何かを表現したり伝えたり訴えたりするということです」と言いましたが人前であがっている時にはこの基本の部分がどこかに行ってしまいがちです。

 それは例えばラブレターを書くときに時に陥ることのある心理状態と同じなのです。ラブレターは好きになった人への自分の愛する思いや、気持ち伝えるのが本来の目的です。ところが「その手紙を読んだ時相手にガッカリされたくない。嫌われないようにしたい。できればこの手紙を読んで自分を好きになってもらいたい、、」などと思いが膨らんでくるとします。すると次には「相手が自分を好きになるように書くにはどうしたら良いだろう、、」などと考えます。この時にはもう元にあった自分の素直な思いや愛情とは分離したところで文章を考えるようになっています。そしてもちろん恋愛小説家ではないのだし、ましてや相手が自分を好きになるような文章なんてわかるわけないので筆はいっこうに進まず、行き詰まってしまいます。

 これと全く同じに、人前で「みんなに変に思われたくない、良く見られたいし認められたい、最低限普通に見られたい」などと思えば、見た目の格好がどうなのか気になりだします。またより緊張が強くなってくると今度は焦りの中であがっていることを知られたくない、バレないようにしなければとそちらが気になってきたりさえしてしまうのです。

その9 本来の目的を見失ってしまう 2

 その7や8の章で述べたことと重なるのですが、ここでは少し違った側面から考えてみます。

 あがり症が癖となってしまって長引いたり、その症状が強くなったりしてくるとそれが劣等感となります。そして人前を避けるようにもなってきます。そうなると自分自身に自信がないことが悩みとしてクローズアップされてきます。そこで見過ごされがちになるのが第二のテーマの方である『表現したり伝えたり訴えたりするその内容の方に自信がない』という点です。

 考えてみれば人前で何かやる時、伝えたいもの(内容)に自信がなければ、よほど嘘が上手で誤魔化すことに自信があるか、逆に自信がないことを正直に告白するのでなければどうして良いか分からなくなってしまうでしょう。そんな時には葛藤して身動き取れなくなったり、焦ってしまって当然なのです。この側面から考えてみても、人前に出たらそこで自分が何を表現するのか、みんなに何を伝えたいのかなどをハッキリ持っていなければなりません。そしてその中身を人に伝えたい!と逃げの気持でなく前向きになっていることが最低限必要なのです。人前に出た時には、まずもって人に聞いてもらいたい見てもらいたい!と思えるような伝えたい気持ちがこもった中身がなければ始まらないのです。

★紙の本:『あがり症克服のコツ:980円+送料:300円
★電子書籍版:『あがり症克服のコツ:Kindle本:500円
★参照ページ:『当相談室の心理療法


心の悩みや問題を解決する道の地図と心理療法の実際

はじめに

 このページは心理療法やカウンセリングに興味はあっても、まだ実際に体験したことがない方や、カウンセリングや心理療法に通ってはいるが、今一つシックリこない方。また過去にカウンセリングやその他の心理療法を受けたがあまり良い結果が得られなかった方などに読んでもらえたら、と思って書き出しました。でもかなり長文になってしまったので目次をつけました。

 目次をクリックすればその項目に飛びますので、良かったら興味があるテーマからすぐ読むこともできます。

1,心理療法と心が旅する道の地図
2,心の問題や心からくる症状はどのようにしてよくなって行くのか
3,一面的な解決策の問題点
4,理性で自分をコントロールするというやり方の問題点
5,あちらも立てて、こちらも立てる 多面的なあり方

1,心理療法と心が旅する道の地図

 心理的な症状や問題に悩まされている状況は、知らない土地で道に迷ってしまっている場合と似ています。道に迷った時に地図があれば大いに助かります。そこで心からくる悩みや問題を乗り越えたいと願っている方に、参考になる地図のようなものを作ってみようと思いつきました。目的地にたどり着くために地図を参考にするのと同じように、自分がどのように変化していけばよいかを把握できれば、心からくる問題解決の一助となるはずです。

 心からくる悩みや問題に苦しむ時、そのどうしてよいかわからない大変さは、知らない土地で道に迷うよりさらに大変かもしれません。なぜかというと、心が目に見えないものであることで道に迷った上に、暗闇の中を暗中模索で歩いているのに等しくなるからです。うつで苦しんでいたクライアントで「包帯を巻いている人がうらやましい」と語った人がいました。包帯を巻いていれば一目瞭然でその大変さが他の人にも伝わります。けれども心理的なものは、とても苦しく不安ではあっても自分自身でいったいどうなっているかよくわかりません。そのため、それを家族や親しい人にさえ、伝えたり解ってもらうことが至難のこととなるのです。何事も、解決に向かう道のりは、常に暗中模索から始まるものであることには違いないでしょうけれども。

 どうしてよいかわからくて行き詰ってカウンセリングに来談されたクライアントが、その解決の道を歩まれる過程は、それぞれに独特で一つとして同じものはありません。それもあってか、他の人が、こうしてうまく悩みを乗り越えたというやり方が、他の人の解決策としては役立たない場合が多いのです。おまけにこのテーマの後半で述べることになりますが、心の問題には二律背反が常に付きまとうためにハウツウ的な解決策がなかなか通用しないのです。

 アドバイスが役立たない理由は他にもあります。例えばよくあるのが親が子にするアドバイスがほとんど役立だたないことです。 時代の変化の影響で昔との価値観のギャップは大きく違っているのでほとんど役立たないといっていいでしょう。他にも友達や会社の先輩などに悩みを相談して「そんな場合は私だったらこうするな」とか「私はこうして解決したよ」などとアドバイスをもらっても、なかなかその通りには行かないし、役立たない場合が多いものです。それは人それぞれ、その人を支えとする価値観を持って生きているために、その価値観をなくしかねないものは簡単に取り入れるわけにはいかないからです。

 また人は、ある価値観を持って頑張って生きてきた場合、必ずその価値観の器では受け止めかねるような、ギリギリの感情や情動を体験したり、それらを受け止めかねて、心の奥にしまいこんでおかねばならなかったりします。そんな時には、いくら他に良い考え方や価値観があっても、それを新たに受け入れる余地はないのです。今までの自分の生きざまにまつわるさまざまな感情や、受け止めかねていた、不安や、怒り、悲しみなどの感情が表出され、それらを他者にちゃんと受け止められて、整理、解消がなされることによってはじめて新たなものを取り入れらるようになるのです。

 そんな自分の存在を根底から揺るがしかねない変化は、人によって、またタイミングによっても違ってきます。カウンセリングの場においてさへも、かなりの大仕事です。信頼できるカウンセラーとの協力体制によってようやくそれが可能になる場合も少なくありません。そんな心の作業が本格的な心理療法といえるでしょう。

 ところで先に価値観の器と述べましたが、物事を受け止めるさいに、受け止める側に強い思い込みや観念の偏りがあると、柔軟に物事を受け止めにくくなります。これの一番大きいのが先に述べてきた、人それぞれが持つ価値観です。この部分が変化すると、今まで認めることができなかったり受け止めきれなかった様々な感情や価値観を統合していくことが可能となったりもします。

 今回私のお勧めしたい心の地図はこの辺りを切り口にしています。そのキーワードは「価値観の変容」「心の成長」「一面的な思考から多面的な思考への転換」です。近年ビジネス界で言われ始めているマインドセット的な思考への転換です。マインドセットというのは「人の意識や心理状態は一面的なとらえ方はできず、多面的に見てセットしたものがマインドの全体像を表している」というところから来ているようです。

 この地図は実は最近流行ってきた認知行動療法の認知に当たる部分と重なります。ただ実際の認知行動療法のように、思考の方から考え方を指示的に変えようとはしません。もちろんクライアントがそこに気づき、自ずから思考が変化して解決に向かうことは大歓迎ですが。

 地図はあくまでも地図なので、それを見ているだけではいつまでたっても目的地に着きません。目的地に達するには地図ではない、山あり谷あり雨、風ありの、実際の地を歩んでいかねばなりませんね。それと似ていると思うのですが、心理療法の実際では心の奥にしまってあった不安や怒りや悲しみなどの感情を解放することによって、一時的に心身の大きな揺らぎが起こる場合があるのです。それに取り組むのは慎重にも慎重でなければなりません。またそのエネルギーを受け止め象徴化していくという作業は根気もいるものです。そんなふうな理屈通りにはいかない実体験の中を、問題解決という目的地まで歩んでいかねばならないのです。

 旅をするさいには地図を見て、目的地までの道のりをまず頭で理解し目安をつけてから出発します。また、旅の途中で方向喪失感に至った時には、自分のいる所と目的地を再確認するために地図を役立たせます。それと同じに、目に見えないことから倍増する心の不安や、暗中模索の状態から少しでも抜け出て、心の旅(本格的な心理療法)を歩んでいけるように。そんなふうに、この心の歩む道の地図を役立たせてもらえたら、と願っています。

2,心の問題や心からくる症状はどのようにしてよくなって行くのか

 心からくる問題や症状が解消する過程をまず大枠から見ていくと「環境を変える」か「自分を変える」かの二つに大別できます。劣悪な環境にあることで心の悩みや症状が立ち起こってくるのは間違いありません。例えば、うつ病で休職していて、良くなったので仕事に復帰したらまた再発してしまった。という場合は、職場という環境にうつにさせる要素が大きくあることは確かで、職場を変わったらスッキリ良くなったという人はもちろん多いわけです。

 けれどもそれだけでなく、当人の職場などでの人間関係の築き方に無理がある場合もあって、そんな場合は部署を変えたり、仕事自体を変えてもまたうつになる可能性があります。うつは再発を繰り返しやすくて、良くはなってはまたひどく落ち込んで、と悪循環に嵌ってしまって抜け出せないで苦労している人が多い症状でもあります。うつ状態は心と身体が度を越して疲れた様子ですから、心身共に深く休息すれば必ず回復します。投薬も心身の深い休息を誘うきっかけのためのものといえるでしょう。けれども、無理な人間関係の築き方などのような、そうなりやすい癖というか、そうなりやすい心のあり方の部分が変化していないままだと再発してしまう可能性は高いのです。そこで「自分を変える」必要が出てきます。

 うつ以外の症状を持った方でも同じに、薬だけでは本当の解決にならないと考えて心理相談室に来談される方がいます。カウンセリングなどで、投薬とはまた別に「自分を変える」ことに取り組むわけです。その取り組み方は、個々人でそれぞれに違っていて千差万別ですが、あえて分けてみると、これも二つになります。一つはできるだけ「心身ともに深く休息できるようになる」ことともう一つは「そうなりやすい自分のあり方の部分を変える」ことです。この二つができれば再発は繰り返さないでやって行けるようになります。…心理療法は自分を変えるためにあるわけですが、その中にはもちろん自ら環境を変えていく力である、交渉力を育てることも含まれています…

 良くなっていく順番からいけば、まずは「前より深く眠れる」とか「心もホッと休まるようになってきた」などというようになる必要があります。悩んでいる最中は「とにかく、この問題が解決したらゆっくり休める」と、休むより先に問題解決をと思っているのが普通です。でも疲れが強すぎると、身体も脳も十分働かないので、空回りや悪循環から抜け出せることに取り組む力がでませんね。それに、より悪化しないためにも、いったん身体をリセット、リフレッシュすることは必要です。深い安らぎやリラクゼーションは心身の健康にとって必須のものです。ここでは割愛しますが、もう一つの方のホムペに『リラクゼーションと自然治癒力』というテーマのページがありますのでよかったら参考になさってみてください。

 そして休息して余裕ができてから、どのようにあれば、そうならないで良い感じでやっていけるようになるのかを、考えたり工夫していけば良いでしょう。しかし事はそれほどスムースにはいきません。まずちょっと休憩することができたなら、そこからあえて今ある自分の存在の根幹を揺るがしかねないような心の大仕事には、取り組む気がなくなる場合もあるのです。カウンセリングの中で、この問題は根が深すぎることに気づいて、とりあえず安定したところで終了された方もいます。基本的にはクライアントの自己治癒力の働きと「時が熟する」などというような流れに沿うことが大切ですから、それはそれで良いのかもしれません。

 けれども「窮すれば変ず、変ずれば通ず」という言葉があるように、今の自分が、問題や症状に切羽詰まって必死だからこそ、今までの在り方を変えようと動きやすいのです。いよいよ追いつまって来談されたクライアントで、カウンセリングの中でそれまでの逃げの気持から「やるだけはやってみよう」などと、立ち向かう気持ちに切り替わって何とかなった人は意外に多いです。

 自分に向き合い、本格的に変化させようとする時には、ユング心理学などで「死と再生」ともいわれるような象徴的な心の体験をする場合もあります。しかし本格的な心理療法にはやはり、それを受け止め処理できるだけの器がなくてははじまりません。それは心理療法の場では、カウンセラーとクライアントの相性にもよりますが、基本的には心理療法家やカウンセラーの力量いかんにかかってくるところが大きいのです。

 実際の心理面接やカウンセリングの場では逐一このように型にはめて取り組むものでもありません。どんな良いと言われる方法でも、それによって当人の自然治癒力が良く働くようにならなければそれは役立たないからです。 時には初回の心理面接をしただけで、その後に眠気がどっと出て一日中寝ていた。などと、身体がかってに深い休息に入るようなこともあります。また、カウンセラーに話を聞いてもらうとスッキリするので、只それだけを続けていたら、いつの間にか良くなっていた。ということもあります。 カウンセラーにわかってもらったことによって今までの緊張が急にほぐれたり、心が次第に開放的になっていくことなどで、知らぬ間に自然治癒力が良く働くようになって良くなっていったといえるでしょう。

3,一面的な解決策の問題点

 実際にカウンセリングや心理療法などを受けようとする時に気をつけねばならないのは、レベルの高いカウンセリングとレベルの低いカウンセリングがあることです。例えば「~すればよい」などのアドバイス的な解決策は、一見わかりやすく、専門家の意見だと思えば説得力がありそうに見えます。でもこれは低レベルの解決策となる場合が多いのです。「もっと自己主張をした方が良い」とのアドバイスを指示されたクライアントがそれを実行するとします。もちろんそれでうまくいく場合もあります。けれどもかえって反発を招いて、当人の人間関係をこじらしてしまう場合も起こりえますね。

 また素直なクライアントの中には、常にアドバイスされたやり方でやり通さねばと頑張ってしまう人もいます。すると柔軟性がなくなるために自分自身のペースとズレが生じてきて、ここでもうまくいかなくなります。このように書き出してみるとよくわかる話ですが、カウンセラーにアドバイスされてそれでしばらくやってみるが結局はうまくいかなくて、また他のアドバイスをもらって、などというようなパターンを繰り返しているカウンセリングも実際あるのです。特にカリスマ性のある権威的な心理療法家や治療者との関係において、本当には役立っていないこのような悪循環がよく起こりがちです。

 極端化した例えですが、今までは人に合わせる方でやってきていた人が、自己主張をした方が良いということで、今度は自分の方ばかりを優先しようとしてしまうというような、一面的な変化では本当の解決にはならないのです。一面的なやり方の失敗例はたくさんあります。例えばよくあるのが、親に厳しくされたから「ああはなりたくない、自分の子供にはとにかく優しくしよう」とし過ぎて時に厳しくせねばならない時にもそれができずに結局は子育てに失敗する場合などです。

 そのような一面的な解決策が通用しなくて行き詰っているからこそ、それを打破するためにカウンセリングや心理療法があるといえるのです。この一面的解決策の問題点と、それを乗り越えるための解決策は後半に詳しく検討します。

 カウンセリングや心理療法の成否は、カウンセラーや心理療法家の力量のあるなしにかかっているのです(もちろん時にはクライアント自身に力量があるので下手なカウンセラーでも何とかなったという場合もかなりあるようですが)。それはそうなのですが、他に知っておいた方がよいのは、心理療法の中で用いられる様々な心理技法は、そのどれもが必ず限界があるので、その影響も否めないというところです。いくら良い方法でも、その時々の心身のあり方に則したやり方でなくては役立ちません。

 私は心理療法は「カウンセリングに始まりカウンセリングに終わる」といえるくらいに話を聴くことをが一番大切と思っています。でも例えば、ボクシングの試合において選手が戦いにしり込みしているので、セコンドのコーチが彼を立ち直らせようとするとします。そのさいには、カウンセリングなどのように内省によって「いったいどうしてこんなに気弱になったのかふり返ってみよう。何か思いつくこと話してごらん」などと悠長なことをやっている暇はありません。それよりも「何を弱気になっているのだ、お前はすごい奴なんだ!私が言うから間違いない!」などと強く支持する言葉をかける方がずっと適切ですね。このような場面ではカウンセリング的な手法は全く役立たないのです。この例えでわかるように一番重要なカウンセリングさへ限界があります。

 その他の良いとされる心理技法もやはり万能ではありません。また、しばらく自分にマッチしたやり方(心理技法)であっても、心の方が変化したために、その心理技法のやり方はもう卒業となってしまうことも起こります。心の変化・成長過程によってその人に必要なものが違ってくるのです。

 最初はうまくいっていたカウンセリングなのに、堂々巡りになって深まらずマンネリ化したり、またカウンセリングに長く通っているのに、途中で収拾できない不安や混乱などが生じて、他のカウンセリング所を探すはめになったりする場合があります。それはまず、クライアントとカウンセラーで、心の問題を受け止め消化する器が充分でない場合が考えられます。そして最初うまくいっていたカウンセリングだったのにそうなった場合などには、先に述べたような、心の成長過程に沿った次へのステップアップが滞ってしまっている場合が意外に多いものです。クライアント(の自然治癒力)の方は(それと知らずして)次へのより良い変化に取り組みたい時期が来ているのに、カウンセラーの力量の足りなさと、その時用いている心理技法の持つ限界によって、深まりや進展が生じずにいるのです。

 話は変わりますが「心の成長」などというと何かおもはゆいですね。でも「自分が未熟だからこのようになるのかもしれない。何とか少しでも自分を成長させることで、この問題を乗り越えられるのではないか」と、今ぶつかっている問題を自分への試練として受け止めることは良い解決への第一歩です。もちろんこの場合の、自分が未熟というのは自分に価値がないと否定することとは全く違います。そのように思って自分自身に目を向けてみると、思った以上に偏った思い込みがあったり、狭い価値観にとらわれていたことなどに気づけたりします。するとそれらから解放されるとともに、楽になって等身大の自分でのびのびやっていけるようになります。

4,「理性で自分をコントロールする」というやり方の問題点

 一面的な解決策の問題点の所で述べたところと重なるのですが、ここでは少し視点を変えて、自分自身との関わり方を中心に考えてみましょう。

 学校では「よく考えて答えを出しましょう」と、それが人間の用いることのできる、最上の手法であることを強調します。確かによく考えて答えを出すというやり方の最たるものである科学技術の恩恵によって、人は昔に比べてずっと便利に、安全に暮らせるようになりました。そこで人は、科学によって地球の自然をコントロールしてきたのと同じように、自然の一部である自分の心と身をも科学的にコントロールできると思いこんでしまうのです。

 けれどもはたしてそうでしょうか。よりよくコントロールしてきたはずの地球環境をかえりみても、加速度を増す温暖化の兆候に伺われるように、自然破壊はすでに後戻りできないゾーンに入っているやもしれないのです。それと同時進行で、デジタル化による心身への浸食も進み続けています。いやしかし、人間は科学がそれほど発達していなかった古代においても、突き詰めると言葉と想像力というものを持った時点で、自然の一部である心身とは矛盾する生物となったのです。言葉のもつそんな二律背反性の理解は現代においても未熟なままです。人はそんな盲点などつゆとも知らずに言葉を使い続けています。そして時には言葉や想像したことの方こそが、あたかも大切であるかのように勘違いしてしまうのです。

 「よく考えて答えを出す」のはとても大切なことに違いはないのです。違いないのですから更に、よく考えて良い答えが出るように知性を洗練させていく必要があります。そこでまず「よく考えて答えを出す」という手法自体を、よく考えてもっと洗練させていくことを以下に試みてみましょう。

 例えば、何々すれば良い、と決めて自分をコントロールしようとして、一面的なやり方で頑張りすぎると、体のリズムやペースとのズレが必ず起こってきます。非常にまじめな人で、夜ベッドに入ってから明日の仕事などの計画をする人がいます。そして朝早くに仕事が入った場合には「明朝は早く起きなければいけないな」などと思います。そのさいに自分(の心身)が信じられないと目覚まし時計をかけるくらいでは安心できなくなります。身体に委ねられないぶん眠りが浅くなったり、寝過ごさないようにとどこかで頑張ってしまいます。心底休めなかった心身の疲れは蓄積して心身の不調となっていきます。

 自分を理性でもってコントロールすることは人として時に必要です。でもそれが極端になると「からだに任せきると、怠けてしまう」などと自分の心身を信用できない、性悪説や自己否定感が潜んできます。すると、まるでいつも一緒にいる友人なのに実は嫌い、というのと同じに、本当の意味で自分自身と良い関係を持てなくなります。それが高じて疲れた馬に鞭打って倒れるまで走り続けるのと同じような生き方になってしまう場合もあります。

 身体にはからだのリズムやペースがあります。その身体を信じて任せておけばスムースに行くものを、うまくやろうと意識しすぎると、からだが本来身につけている実力の発揮をさえぎって努力逆転します。また理性による思考は、アナログ対デジタルで分ければデジタル(合理的思考)になりますが。そこでは効率よく結果を出すことが全てとなります。途中はなるべく省いてでも目標に到達すればよいという、情や遊びのない手法を自分自身にも当てはめて、よい結果が出せなければ全てが駄目、無駄という救いがないものになるのです。

 レベルの低い解決策の説明のところで述べた「こうすれば良い」というアドバイスは、この理屈(理性や頭)でもって自分の心身をコントロールしていく手法に属するわけです。そのため、アドバイスというものはその根底に、ここに述べてきたような、自分の心身との不調和という問題もはらんでいるわけです。確かにアドバイスをもらってそれでうまく解決する時もあります。しかしそれば一時的な解決にとどまりがちで、根底からの解決にはなりえなかったりするのです。

 「よく考えて答えを出す。という手法自体をより洗練させていく」というのはどんなことなのか。今度はそれを具体例をあげながら試みてみましょう。

 「自分は話が下手で会話が続かず、人と話すのが苦手です」という人がいます。当人は「他の人のように会話をうまく進められない自分は人より劣っている」と劣等感を抱いています。けれども話し下手なのは事実としても、そんな自分が他人より劣っているというのは勘違いなことが多いのです。むしろ逆に人より頭がよくて良くいえば思慮深かったりします。

 例えば子供が大勢遊んでいる中に一つのボールにさまざまなお菓子を一緒に入れて「皆で食べてね」と大人が置いて行ったとします。すると、周りに気を使わない自分中心な子供は、さっさと自分の好きなお菓子を取って食べます。けれども、周りに気を使ったりなどと、いろいろ考えが回る子供はそんなことはできません。「幾つくらい取れば多すぎず、少なすぎず平均になるかな…大きさとかいろいろあるから他の人と取り合いになったらまずいな…」などといろいろ考えてしまいます。いろいろ考えている分、迷って、言葉にしたり行動することは遅くなります。その結果、それほどの考えのない子供たちが自分の欲しいものを我先にと取った後の、残りのお菓子から自分の分を選ぶことになってしまうのです。

 よくよく考えてみると、いろいろ考える「能力」があるからこそ迷ったり悩んだりが多くなるのは確かなのです。話が苦手な人や人の中で気を使って楽に動けないで悩んでいる人は、ハッキリ物を言ったりする人や、すぐ行動できる人の方が賢くて、自分は劣っていると思い込んでいます。しかし本当は逆だったりもするのです。そうでなくても自分のことを優先するか、他を優先するかの違いだけだったりします。…この「能力がある」というのは、精神療法に精通した精神科医である神田橋條治先生が、一見否定的なことがらでも「~能力がある」と付け加えると肯定的なものに変化させることができるよと提唱したものです…

 この辺りのことがよくわかってくると「なんだ、自分は他人より劣っているわけではないんだ。自分はいろいろ考えているから迷うし、言葉にするまでに時間がかかるんだな」と思えてきます。「話をするにしても行動するにしても、早くしないと、と思うのはいろいろよく考える自分のペースに合ってないのだな。これからはそんなふうに、いろいろ考える自分の持ち味にあった会話術を身につけていこう」と思えれば、自分の持ち味を積極的に生かしていけるでしょう。

5,あちらも立てて、こちらも立てる 多面的なあり方

 さてここで先ほど、子供たちが大勢いる所へ大人がお菓子を置いて行った時、自分の気に入ったお菓子を取り損ねてしまう子供の例え話しをしました。次に、その子供がどうあれば良い感じでやれるようになるかを考えてみます。子供のことに例えてはいますが、このテーマは心理面接でクライアントが行き詰った壁を乗り越えよとする場合のテーマと同じです。人間関係に絞っていえば、心の問題の内容や症状の違いに関係なく、ほとんどの人がこれと同じテーマ苦しんでいるといえるでしょう。

 子供たちが大勢遊んでいる所へ大人が、一つのボールに盛ったお菓子を持ってきて、みんなで食べなさいと言った。そこにいた子供の中で、いろいろ気づかったり考えすぎて行動が遅れてしまい、残り物のお菓子から自分の分を選ぶはめになりがちな子供。彼はどのように変わればよいのか。そのさい「自分一人でお菓子を独占してしまう」その逆に「もう自分は残り物で良いと諦めきる」という手もなくはないです。でもこの二つの方法は現実的でないので除外します。

 わかりやすい解決策としては、自分も他の子供と同じように積極的にお菓子を取るようなれば良い、というのがあります。確かに現実にたくましく生きて行くには弱肉強食ではないですが、自分中心のやり方を身につけるのも必要かもしれません。でもせっかくいろいろ考えられる人なのだから、より思慮深く考えて、より良い解決策を身につけたいものです。それに自分中心のやり方は「一面的なやり方の問題点」のところで取り上げて検討したのと同様の問題をはらんでいてベストな解決策とはいえません。

 「あちらを立てればこちらが立たず」という言葉がありますが、やはり「あちらも立てて、こちらも立てる」のでなければ本当に良い解決とはいえないのではないでしょうか。けれども二者択一の方が解りやすいために心理療法の場面でさえ、先の章で述べたように、ただ自己主張すればよい。などとレベルの低い一面的な意見がまかり通ったりしています。

 理想的な解決策として思いつくのが、勇気のいることですが皆を制して「みんなで平等に分けるようにしようよ」などと発言して自分の考えをアピールすることです。それが通れば、全員に平等に行き渡るようにお菓子を分けるとかできて自分も満足できます。こちらの方はリーダーシップ能力まで発揮した素晴らしい解決策です。一人では発言できなくとも傍にいる友人に自分の考えを話して協力し合って、そうなるように工夫する手もあります。

 このやり方は消極的な子供にはハードルが高いでしょう。この点からも「あちらを立てればこちらが立たず」というテーマがいかに難問であるかが見えてきます。でもそうはできなくても「相手のことや周りのことなどを、いろいろ考えられるのは良いことだし、それで行動が遅れるのは自然なことなんだ」などと、自分の持ち味を大事にできるようになったなら一歩前進ですね。そしてそんな自分の持ち味を生かした解決案を工夫していけるようになってほしいものです。

 ところで一面的なあり方を多面的なあり方に変えて行こうとするさいに、とても厄介な問題があります。それは同一化(一体化)などといわれている心の状態のことです。等身大の、長所も欠点もある人間としての自分と、こうあるべきという理想像との区別がつかなくなっているのです。生まれ育ってくる過程にあって、等身大の自分で居ることが許されなかったのか、それともあまりにもまじめに、人はこうあるのが良いのだと自分で思って、そうなろうと頑張り続けたのか。それがまるで自分の全てとまでなっている場合もよくあります。

 そうなるとその価値観から一歩でも外れるとか、その在り方に反してしまうと存在意義をなくすることになるので、それらをつゆとも認めることはできなくなります。また「私はこういう考えを持っているけど、あなたはどんな考えなの」などというような共存共栄的な態度も持てなくなります。自分も他人も含めてその理想像にそぐわなかったり、他の価値観をよしとすることは自分の死に値するのです。そこでどうしてもありのままの自分も、他者も否定せざるを得なくなります。また一体化しているので、それ以上客観的に見ることはできなくなり、カウンセリングなどで内省すること自体が困難となります。でもだからこそというか、自分がどのような価値観で生きてきたのか、それに縛られていたのかが明確になるだけでも、自分を救えたり楽になったりもするわけです。

 さて、どのような心のあり方が人として健康的なのか、神田橋條治先生は著書の中で「心の健康の理想形は混沌に酷似している」とか「葛藤能力を具えた健康な人格の育成…」などと多面的なあり方をよしとして述べています。冒頭でも述べましたが、ビジネス界で近年注目されいるマインドセットという考え方は、人の意識や心理状態は一面的なとらえ方はできず、多面的に見てセットしたものがマインドの全体像を表しているということから来ているようです。これは神田橋先生のいう混沌的あり方と同一のものといえるでしょう。

 また河合隼雄先生は、ある本の中で「人間性の中に必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。そのダイナミズムを通じてこそ、われわれは、そのれよりも高い次元のものを創り出すことができるのです。ひとつの状態に安閑としているのでしたら、これは別にカウンセリングを受けにくる必要はありません」と述べています。この意味をちょっと言い換えると「人が様々な問題にぶつかって悩んでいること自体に、すでに高い次元のものを創り出すための下地がある」と言っているように思います。河合先生はそののちに、人生で遭遇する様々な受け止めがたい災難なども含めて、それらをクリエイティブ・イルネス(創造の病)として受けとめることを提唱しています。それは、問題を抱えて悩んでいる一人ひとりが、その人の持ち味を発揮(創造)して問題を乗り越え心豊かに生きて行く可能性を持っているのだということのようです。

 心からくる悩みや問題を乗り越えたいと願っている方に、参考になる地図のようなものを作ってみようと思って書き出してみたら随分と長文になりました。その分、読み取りにくい地図になってしまったかもしれないですが。また、これはあくまでも地図なので、実際にこのように変化していくための心理療法は時に大作業となります。旅にあっては、たとえ順当な旅であっても山あり谷ありと、地図とは違う実際の地を行くことになりますね。

 一時的にですが自己主張がとても強くなった時期に、そんな自分を「私は今鬼です」と言って、怒りでいっぱいな自分を悲しげに語りながらも、しっかりと決着をつけて行かれた、純粋で心根の優しい女性を思い出します。心の問題解決までの旅では特に、感情の嵐などの悪天候に遭遇することも多々あります。でもそんな大作業に取り組んで、ほんとにのびのび爽やかになって行かれるの方もいて、何か、おごそかな気持ちになることさへあります。

★参考ページ:『当相談談室でおこなっている心理療法


電子書籍/小冊子『あがり症克服のコツ』

 あがり症で悩む方々の心理面接から導き出されたノウハウ本です。多くの心理面接の積み重ねによって、あがり症に共通する心理構造が解明されました。この本を読むことで、どうしてあがり症に陥ってしまうのかがよく理解できます。また、だれでも取り組める「あがり症克服」のための実践方法についてもわかりやすく述べています。

 既存のあがり症克服本は、その根本原因を明確にしないままにさまざまなテクニックを述べているに過ぎないように見えます。例えば、足が腫れて歩けなくなったという症状が出た時に、骨折なのか筋を痛めているのかそれとも筋肉を痛めているのか、またそれら以外の原因なのかで対処の仕方がそれぞれに違ってきます。ところが既存のあがり症克服本は、ただ冷やせば良いとか、温めれば良いとか言っているのと同じことになってしまっているのです。ですから、今までのあがり症対策のノウハウは、あの人には役立ってもこの人には役立たない。時に、まぐれで役に立つ。という位のものがほとんどだったのです。

 私は細々ですが、30年以上にかけて心の問題で悩んでいる人の個別のカウンセリングに取り組んできました。その中には、あがり症や今でいう社会不安障害で悩んでいる方もたくさん居ました。その方々と心理面接の中で、問題の克服に向かって取り組むなかで、多くの人に共通するあがり症の本質といえるものが見えてきたのです。個別のあがり症の原因や、その克服の容易さ困難さは人それぞれに違ってはいます。けれどもなぜあがり症になるのかの本質(根本原因)は意外に共通しているのです。それらをベースに他のあがり症で悩んでいる方に、読むだけでも、あがり症克服に役立つようにと、このマニュアル本を書き上げました。

 目次内容は以下の通りです。

  1. はじめに
  2.  なぜあがってしまうのか
  3.  どうすれば良いかを先に言うと
  4. 具体的な葛藤事例
  5. 慢性化したあがり症の場合
  6. よいアドバイスが全く役立たない場合も
  7. 真面目で正直な人ほどあがる
  8. 本来の目的を見失ってしまう 1
  9. 本来の目的を見失ってしまう 2
  10. 人前(壇上)に立つ前にしておくこと
  11. 伝えたい気持ちを強く持つ
  12. 実際場面での対処法 できることできないこと
  13. あがり症や社会不安障害の深層心理 1
  14. あがり症や社会不安障害の深層心理 2
  15. あがっている時の心境から
  16. まずあがり症の自分を救う
  17. 逃げの気持ちや上手くやりたい気持を乗り越える

★紙の本:『あがり症克服のコツ:980円+送料:300円
★電子書籍版:『あがり症克服のコツ:Kindle本:500円
★参照ページ:『当相談室の心理療法


個別の心理療法に学ぶ 自分に自信を持つための方法

 心理的な症状や悩みで行き詰ってカウンセリングに来談された方が、話しを進めていく中で、おしなべて行き着くのが「自分に自信がない」ということです。「集団に溶け込めなくて自分だけいつも浮いているような疎外されているような感じです」とか「職場で人に気を遣ったり遠慮してしまって、自分の行動や話すことは後回しになります」「周りや世間がどう思うか気になって外に出るのも辛いです」などと自分に自信がないことからくる人間関係での大変さが話題となるのです。

 自分に自信が持てないと人とのかかわりが重荷となって疲れるばかりで、次第に人の中に入ることが嫌になってきます。引きこもりになっている人の多くが、事情はそれぞれに違っていても自分に自信がないがために人の中に入っていくことができなくなっています。さまざまな問題や困難を乗り越えたり、自分の成し遂げたいことに挑戦するなどして、充実した人生を生きていくためには、まずもって自分に自信を持っていることが必須といえるでしょう。

 心理面接やカウンセリングでは、何らかの形でなくしたこの自信を取り戻したり、新たな自信を育てたりすることが課題となります。けれども「自分に自信を持てばよい」と言うほどに簡単にはいきません。自信とは自分を信じるということですが、中身が具体的ではありません。自信を持つためにどのようにしていけばよいのかがわかりにくいのです。また自信の持ち方自体にもいろいろあって、例えば自分の実力もわきまえずに自信過剰になったとしたら、はた迷惑ばかりで人間関係はかえってうまくいきません。

 そこでまず「自分に自信を持つ」ということがいったいどのようなことなのかを、より具体的に整理しなおしてみました。それによって自分の場合はどのように取り組んでいけば本当に役立つ自信を得ることができるのかがわかってくるはずです。今回の内容は個別の心理面接でこの問題に取り組むことを共にしたクライアントから学んだものが中心となっています。(やはり自分に自信を持てなくなった事情の根が深い分だけその再生は困難を極めます。そんな場合はやはり個人の心理面接でカウンセラーなどに支えられながら根気よく取り組んでいくのがベストでしょう)

条件付きの自信

 「自信」は二つに大別できます。わかりやすいのは仕事が人よりできるとか、頭が良いとか運動能力が高い、などというように他と比較して自分の方が優れているところからくる自信です。よほどの障害や才能がない限り、その道で努力工夫していれば次第に上達するので自信は強まります。でも上には上があってきりがないので、自分より下位の者が多い中にいる時は良いのですが、優秀な人が多く集まる中に入ってしまうと途端に自信喪失しかねません。また自分の到達したい理想を高く持ちすぎると、いつまでたっても自信が持てないことになります。

 この自信は何々が優れているからというように条件付きのもので、その条件から外れてしまえば役立たなくなるというもろいものなのです。でも社会の中で活躍するには、物事を成し遂げるまで努力する力が欠かせません。そのためには、自分は人より優れた能力があるのだとの自信がある方がずっとやる気が出ます。

 逆に、自分は今までちゃんと物事を成し遂げたことがない。どうせまたうまくいかないだろう。などというような自信のなさでは、できるかどうか試してみることさえ諦めてしまうでしょう。こんな時一番良いのは「好きこそものの上手なれ」というように、自分の好きなことに夢中になっているうちに自然とそれに上達していく体験をすることです。その体験によって自分もやればできるのだと自分の可能性自体に拡大した自信が持てる場合もあります。

無条件の自信(基本的信頼感)

 自信にはもうひとつ無条件の自信というのがあります。それは他人との比較するものでない無条件のありのままの自分に対するものです。根拠のない自信ともいえるでしょう。これは先に述べた条件付きのように他と比較してのものではないので一見わかりにくくて目立ちません。けれども例えば家を建てる際に一番重要な基礎工事に相当するもので人がより良く生きていくためにはより重要なものです。

 心理学で乳幼児期に育つといわれている基本的信頼感というのがこれに相当します。乳幼児がより快適に安全に育っていくための要求を親や養育者がよくわかって、できるかぎり叶えてあげられるほどに、周りや自分に対する基本的信頼感が強くなると考えられています。他者にも自分にも、世の中に対しても強い肯定感を持つことができるのです。そのため社会の中においても意欲と信頼を持って前向きに活躍していけます。

 かといって、完璧を目指して乳幼児を養育するのでは神経質さが伝わるので逆効果です。赤ちゃんに対する深い愛情と理解がありながらも肩の力が抜けた感じで、ゆとりを持って接する方が基本的信頼感がよりよく育つはずです。これがあれば条件付きの自信が全てなくなっても、自分の存在をすべて否定しなくて済みます。

 逆に基本的信頼感を育むことができなかった子供は、自他ともに信頼しにくく安心できなくなるでしょう。この世に生まれ出てから、充分守られている感じが持てないで育った子供は、失敗を恐れて何事にも消極的で他人を信頼できず情緒的な人間関係が築きにくいといった傾向があるといわれています。その後に来るしつけに対して、怖さや否定されたという思いを強めがちになるともいわれています。また、夫婦喧嘩や離婚など不安定な家庭で乳児期を過ごすと、基本的信頼感が育まれにくいという指摘もあります。不安が多くて落ち着く暇がなければ信頼どころではありませんね。

 さらには、物心ついてからのしつけにおいて、この無条件の自信(基本的信頼感)を脅かす事態が加わるのです。しつけにおいて良い行動、悪い行動などと条件がつき始めるために、無条件の愛情の方が隅に押しやられてしまいがちです。カウンセリング場面では、子供時代に親の期待が大きすぎたり、虐待までいかない場合でも、無条件に大切にされた感覚を持てないような家庭に育ったという辛い話がよく語られます。自信が持てなくなった事情として、当人が育ってきた家庭や環境において乳幼児以後にも、ありのままの自分を認めてもらった感じがしなかった体験が見えてきます。

 親としては、ちゃんと無条件の愛情を子供に持っているにしても、例えば両親ともに忙しくて子供と接する機会が少なかったりすれば子供は見捨てられているように感じたりもします。そしてその理由として「私に価値がないのだろう。愛されるためにもっと良い子にならなければ」と健気にも思い込むのです。

 余裕がない親に育てられた場合は、ちょっとのことでも怒られたりするために自己否定感が強くなります。子供によりよく育ってもらいたい、社会で活躍する人になってもらいたいと期待して頑張る方ばかりを強調してしつけていると、それを受け止める子供は親の無条件の愛情の方が見えなくなります。そして「ありのままの自分ではダメだから叱られるのだ」と思ってしまいます。

 また、しつけ体験と同時並行して子供の内面には、覚え始めた言葉による自己評価が始まります。そこで、それらの体験は(良いも悪いもですが)観念の地図となって、ずっと残ってしまいます。それは思いの癖として、何かの折には登場して当人をそこに決めつけてしまうのです。

 ありのままの自分が認められなくて基本的信頼感が充分得られなかった人は、どこかもろい部分があります。また、常にこうあるべき理想像に向かって努力をしていなければならず気を抜けません。深い休息も少なくなるので常に疲れが残っています。例えば一旗揚げようとして都会に出た若者が挫折して実家に帰ってきた時に、優しい家族のその無条件の抱え環境があれば傷ついた心を癒すことができます。そしてまた新たな人生を歩むことが可能となります。このような心の作業が簡単に進みにくくなるのです。

ありのままの自分を愛することが自信に

 かといって基本的信頼感が得られていなければもうダメというものではありません。乳幼児のころに得られなかった基本的信頼感をその後に獲得することは充分可能です。この側面を育てていく過程が本格的な心理療法やカウンセリングの仕事といえるでしょう。

 逆にいえば、子供時代に基本的信頼感を充分得られなかった人は無意識裏にそれを求めて生きていきます。例えば、プチ家出をして親が必死になって探しに来る姿を見ることでようやく自分が心底大切にされているのだと確認できて安定する子供がいます。時には離婚して実家に戻ってきてから、この無条件の自信(愛情)を家族とのやり取りで獲得しようと再挑戦している動きがうかがえる成人女性もいます。

 自殺未遂をすることの裏に、自分では全く無価値に思える自分の存在が家族にどう受け止められるか、命を賭して確かめようとしている動きが見える場合もあります。古い話ですが、自分のベッドの下に剃刀の刃を隠していたのを母親が見つけて、慌ててご両親で心理相談室に連れてきた不登校の中学生を思い出します。彼女は心理療法を受ける以前に、それを重大事と受け止めたご両親の態度でもう半分以上立ち直っていたといえるでしょう。

 重度のうつ病の中年女性は来談してカウンセリングを積み重ねていく中で少しづつ回復に向かっていました。そのころ、同年代の女性で不登校の子供のことで悩んだことのある友人と電話で話している際に「居るだけでいいのよ」と言われました。それが心に響いた彼女はそのことを夫に言いました。すると夫も「そうだよ」とそれに賛同してくれたのです。それをきっかけにして彼女の回復に一段と弾みがついたのでした。「居るだけでいい」これこそが無条件の愛情(自信)といえるでしょう。

 心理的な症状や悩みがない人の中にも無条件の自信については充分持ちえていない人が多くいます。人間社会にはさまざまな条件があります。学校では成績の優秀な子供が高く評価されます。プロスポーツ界でトップクラスの選手には莫大な契約金が支払われます。仕事で結果を出すことができなければ会社を辞めねばなりません。結果がすべて。条件付き(の自信)がまかり通っているのが人間社会なのです。

 そこで一生懸命に頑張って仕事をした結果、例えば定年退職をした男性で、過去の会社での肩書や活躍などの自慢話にふける人がいます。悲しいことに年老いてしまった今の自分に価値を見出せないのです。だからついそんな過去の話を持ち出して、自分を支えなおそうとしてしまうのでしょう。

人間の理性(科学的思考力)と自然(生命体)の知恵との比較

 自信があるなしについてさらに深く探っていくと、学校で学ぶ「よく考えて答えを出す」というやり方や、理性で自分をコントロールするのがベストであるとの価値観の弊害が見えてきます。例えば、素直で感受性が強くて頭の回転が良い子供ほど、人の言うことを真に受けるので、周りに振り回されやすくなります。またいろいろ考えられる分、葛藤が増えたり、こだわりができたりします。悪い方にも強く想像力が働くので強い不安に襲われます。そして次第にそんな自分の心身に否定的となります。知らないうちに性悪説の上に立ってしまったのです。そして常に自分を監視してコントロールしなければならなくなるのです。

 「ありのままの私は怠け者だから」とか「手放しにしたらどうなるか心配で」「ありのままの自分は全く無価値です」などと言います。これらは事実ではなくて思い込みなのです。でも常に気が抜けないのでこのままでは心底楽にはなれません。

 …他に、理性偏重が極端化してしまって、しんどい生き方になっている例をちょっと紹介しておきます。元々まじめで理性の働きが強い人で、何事もきちんとやらねば気が済まない完全主義となり、それが高じて強迫性障害的にまでなる場合があります。ちょっとしたミスもダメだと、常に意識を強く持って几帳面に成し遂げようと頑張ります。疲れは倍増します。伸び伸びできず、感情発散もできなくなってしまいます。また、理性で物事を「良い悪い」「白か黒か、0か100か」のどちらかに割り切って区別、判断する癖がついている人がいます。そのぶん極端から極端に、心や行動が揺れ動いてしまうので、とても不安定な生き方となります。当人はとても一生懸命なのですが事実や他人とのズレが大きくなるので、なかなか他とわかり合えないで苦労します…

 科学万能時代の私たちは、その近代科学最大の発明といえる自動車の運転と同じに、理性でもって自分の心身をコントロールしていくのがベストだと思っています。けれども人間の身体はスイッチを入れなければ稼働がはじまらない自動車と同じではありません。身体は生まれてからずっと環境と連携して死ぬ時がくるまで終始自動運転し続けているのです。道を歩く際に考え事をしながらでも、身体はちゃんと目的地に向かってくれます。

 ほとんどのことを身体の機能がかってに自動運転してくれているからこそ、人はいろいろ自分の考えを膨らます暇があるのです。身体は自動車のように他と切れた個体ではありません。けれども近代科学の下に生きてきた私たちは、身体に任せっきりにするのは手放しで暴走する自動車に乗っているのと同じに、あまりに無謀なことだと思えるのです。これがありのままの自分に自信が持てない理由の根底にあるものです。

 自分で獲得しなくても生まれた時にはすでに備わっている心身の機能や知恵は計り知れません。例えば失敗したり挫折や病気になったことが、実は心身の知恵によるもので、より大きな災難を守るためのものだったという場合さえあります。

 かなり昔に来談した戦争体験のある老年の方の話を思い出します。彼は東南アジアに遠征した際に上官から明日偵察に行って来いと命令を受けたのでした。ところが次の朝目覚めてみると足がパンパンに腫れあがって歩けないほどの急病になっていたのです。そこで急きょ代わりの人が偵察に行かされたのでした。でもその人は帰ってこなかったのです。代わりに偵察に行った人が水死体となっていることが、彼には事前に分かったそうです。彼の身体が急病になることで彼の命を守ったのだとしか思えません。

 このような典型例でなくても私たちが気づけないところで心身がとり行っている人知を超えた働きは無数にあるでしょう。私たちのちっぽけな頭で良い悪いを判断したり、全てを取り仕切ろうとするのは思い上がりもいいとこかもしれませんね。

 子供時代に様々な事情から充分な自信を持ちえなかった事情はあるにしても、大人になった今、自分だけでそれを回復する道もちゃんとあります。まずは今まで見てきたように、より正しく自分を知ることです。自分が自分の心身をどう思っているかを見直して、そして自分の勘違いや思い込みを剥がしていきましょう。すると、ありのままの自分が素敵にいきいきしてきます。あるがままの事実と、自分が想像で作ったり思い込んだりしたことの区別がつくようになるだけでも、かなり楽になります。

 実際のテクニックとして、ちょっと立ち止まって自己否定することは横に置いて、自分の内面をまるで親友を見守るように、優しく見守もってみましょう。内なる自分にあれこれ話しかけずに寄り添うつもりになってみましょう。すると、それまで否定してダメに見えていた自分がとても愛おしく大切に思えてきますよ。

★参考ページ:『当相談室の心理面接について』『心と身体の能力を最大限発揮するための本当のコツ



人間関係に働く自我の防衛機制の具体例

 人は自分のことが一番わからないといいます。確かにそうです。例えば他の人から見たら一目瞭然なその人の特徴でも、当人は全く気づいていないで盲点となっている場合が多々あるのです。

 例えば、とても繊細で心根が優しい人で、でもシャイなために人と接するときに緊張する人がいます。その緊張している硬い表情やしぐさは一見すると、ちょっと怒っていそうに見えます。近寄りがたく感じられ、それによって当人は人の中で孤立しがちとなります。その逆に、とても人が良い感じで、親しみを持たれやすい人がいます。何を言っても怒らないような人に見えるために、言いたいことをズバズバ言われたり、時にはなめられたりします。いじられキャラになりやすかったりします。でも内心とても傷ついていて、私は虐められやすい人間なんだ、とまで思ってしまっている場合もあります。

 どうして自分には人が寄ってこないのか、どうして自分は人に嫌なこといわれたりいじめられるのか、などとその原因を考えてみても先に述べたような盲点には気づけません。考えに考えた挙句に「私に価値がないからそうなるのだ」と勘違いしてしまうのです。

 私もあきれるくらいに自分自身のやっていることに気づいていませんでした。でも、エンカウンターグループの体験学習の際にグループの世話人から率直に言ってもらったことをきっかけにして、次第に自分が盲点としていた側面に気づくことができたのです。そんな体験談を述べながら、人の心が人間関係でどう働いているか(自我の防衛機制)を具体的に解明してみます。

 実は私は若いころ人と接する時、少しでも脅威を感じたりする人や集団の場で、極端なくらいに愛想笑いをしたりペコペコしたりして、相手に合わせうまくやっていこうとしていたのです。ところが自分がそんなことをやっているとはつゆにも知りませんでした。あきれることにその逆に内心では「私は男らしい」方であると思っていたのです。

 三十代に入ったころエンカウンターグループのワークショップに幾度か参加した私は、今度は少し遠出をして山梨大学関連の主催する三泊四日のワークショップに参加したのです。場所は富士山麓のなだらかな斜面の平地に緑が心地よい山荘でした。ファシリテーターは、それ以前に一度エンカウンターグループでお世話になった山梨大の古屋先生と、同じ大学の山口先生という男性二人が世話人でした。グループは少人数制ではじめから12名。会議室のような部屋で一人がけのソファーでみんなで輪になってセッションが始まったのです。

 私はそのころにはエンカウンターグループに少し慣れてきていました。それとも、そのグループの雰囲気のせいだったのか以前よりグループの中で行動しやすくて、他の人の話が長引いた時など、率直に話しを止めようとするような発言をしたりしました。でも基本的にはまだまだ初心者というか人間関係にも未熟で、人との関わりがよくわかってなかったのです。で、とにかく動けばよいのではないか、などと思って無理して頑張っていたのでした。そんな私はグループ全体からは少々浮き気味だったといえるでしょう。そのグループで何が起こっているかなどを充分にはわからないままに動いていたのですから。

 このエンカウンターグループで私はかなり酷い言われ方をしたのです。世話人の山口さんが「あなたは女々しい感じがする、太鼓持ちのようだ」と率直に言ってきたのです。それを言う時には私が傷つくのではとかなりの心配があったでしょう、少し言いよどむような感じもありましたから。

 その言葉に私がショックを受けてひどく落ち込んだりしたと思いきや、全くそんなことはありません。そんなにズバリ言ってもらっても、当の私はなんのことだかさっぱりピンときませんでした。内心では「こんな男らしい私に向かっては何でまたそんなことを言うのかしら」と思っていたのです。イヤほんとに。太鼓持ちだとか女々しいとか言われてもそれは私ではありません。だって私は空手もやっていた時期があるくらいに男らしい男のはずなのですから。人間あまりにもわかってないことはピンと来ないので傷つきようもないのですね。

 でも私の内心の思い込みとは裏はらに私はその時、ニコニコ、ペコペコ愛想振り撒き状態だったのです。

 後日、別個の通いのカウンセリング勉強会の時にメンバーの一人から「駅を出た所でNodaさんが一人で歩いているのを見かけたら、怖いような顔つきをしていた」と言われたことがありました。そのグループにいる時も愛想を振りまいていたのですね。不思議なものでその時の言われ方の方が「自分には人に対して裏と表があるのかぁ、、」とちょっとショックでした。

 私はそんなにまでも愛想したりしながら人と接していたなんておかしいなあ。と次第に内省しました。そういえば先輩のカウンセラーで、あんなにはなりたくないと思うタイプの人がいました。「何だかウンウンと直ぐに頷いてばかりで軽い人だなあ。ちょっとカウンセラーとしてどうかしら」などとその人を見てほんとにイヤーな感じになったりしました。でもあれは私自身を嫌っていたのですね。ごめんなさい。自分にある、でもそれと認めたくないところをその先輩カウンセラーに投影していました。

 投影という防衛機制は「実は私がそうだったんだ」などと投影の引き戻しがあってのちにはじめて、投影していた相手がそれまでとは違って見えてきます。でも、投影して見ている時は相手が持っている特徴として全く事実に見えるのです。そしてほんとに嫌に感じてしまうのです。人間関係においてこの心の防衛機制の作用によるトラブルにはとても多いのではないでしょうか。

 私ほどに自分に気づいていない人も少ないでしょう。でも、もしかしたらあなたも、自分の内面の認めがたい要素を抑圧したり、見ないようにしているうちに、いつの間にかそれを周りの誰かに投影しているかもしれませんよ。なんかあの人嫌だなあ、虫が好かない。などというような人がいる場合はちょっと気をつけて内省してみた方が良いかも。

 さて、ここが素敵なところなんですが。正直になって自分の認めがたいところを認め受け入れ投影を引戻すことができると、投影していた人が嫌でなくなりますね。またその否定し押さえつけていた部分を生かして、今後はよりいきいきと生きていけます。さらに、このような場合、ありのままの自分を受け入れ認められるようになることが同時進行しています。ですから自分の中に立てていた、かっこつけたり無理していた壁が取り払われてしまいます。その結果、生きていくこと自体がとても楽にもなるのです。

★参考文献:『ジョハリの窓』『人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制



人間関係の体験学習 エンカウンターグループ

エンカウンターグループとは

 私はエンカウンターグループが大好きです。過去にカウンセリングの学びの一助としてよく三泊四日や四泊五日で旅館などに泊まり込んで行う人間関係の体験学習をやるエンカウンターグループのワークショップに出かけたものです。2009年末には九州の九重エンカウンターグループでした。大分の山中、外は極寒の雪に囲まれた山荘でのワークショップでしたが暖かい雰囲気のメンバーグループで実に伸び伸び楽しかったです。

 近年はそうでもないですが、私がカウンセリングを学びはじめた30年以上前にエンカウンターグループはとても盛んに行われていた人間関係の体験学習法でした。 神奈川カウンセリング研究会のカウンセリング研修科目の中にエンカウンターグループがあり、年に数回、研究会の主催で泊まり込みのワークショップが開催されていたのです。

 エンカウンターグループはカウンセリングの創始者カール・ロジャーズとその仲間がシカゴ大学の学生達のカウンセラー養成に集中的なグループ勉強会が効果的なの見いだしたのがきっかけではじめたようです。ベーシック・エンカウンターグループ(Basic Encounter Group 非構成的出会いグループ)と呼ばれるこのグループは通常のグループアプローチとはかなり違った特徴を持っています。その最も特異な点は、主催者側に会をリードしていこうとする人が居ないところです。そんなことを何も知らないで参加すると、その常識外れにビックリします。

 私がはじめて参加した湯河原の温泉旅館でのワークショップでは50人くらいの大人数が集まっていました。まず大広間に全員が集まってグルーッと大きな輪になって座ってセッションが開始されます。その直後に世話人という人達が何人か自己紹介をするのですが後は何もしないのですです。それでどうなるかというと、50人の大沈黙が始まるわけです。

 しばらくするとせっかちな人か積極的な人かが「自己紹介でもしましょう」などと発言しますが、尻切れトンボに終わります。そしてまた沈黙。「私は引きこもりで居ました」とか自分の悩みなどを語ろうとする人が出てきますが「その話は今は受け止めかねるし、時期尚早の感じなのでまたに、、」と止めようとする意見が出てきます。そしてまた沈黙。沈黙が多いのです。

 私自身はエンカウンターグループとはどんなものかを本で下調べしていたのですが、それでもこの先どうなるのか、と心配になりましたね。何も予備知識がない場合はもう帰ろうかと思うくらいお先真っ暗な感じになるでしょう。私は人間関係の勉強に来たのに教えてもらえないなんて酷い!お金返せ!と思う人も居るかもしれませんね。

 でも、これが良いのです。世話人の基本ポリシーとして、グループにはグループとメンバーの実現傾向(成長・適応・健康へと向かう)の促進力があると信じているのです。それでメンバーを信じて任せているのでリードしないというわけです。私は上から教えられるような感じで学ぶのが嫌いというか、自分のことは自分で気づきたいし発見したいとの思いがあるからでしょうか。そんな私の性分に合っているのでしょうね。このような方法は自由でホントに良いなぁと思います。

 通常では、何か学ぼうとする集まり(集団)の場合には自主学習会でないかぎり、必ず講師が居たりトレーナーがいます。またどのように学んでいくかの予定やスケジュールが組まれているのが普通です。それらがないのですから当然面食らってしまうわけです。ベーシックエンカウンターグループではトレーナーや講師は居なくて代わりにファシリテーター(世話人)と呼ばれる人が居るわけですが、その役割はメンバー同士の人間関係を促進することが第一で後はグループメンバーの一員として行動しようとするのです。世話人は基本的にはリーダーシップを取ってグループを導いていこうとしないわけです。ですから時にはグループの誰かがリーダーシップをとる可能性もあり得るというわけです。

 ベーシックエンカウンターグループには大まかなセッション時間とかの枠組みなどは決まっていますがどのようなことをやるのかなどの内容は決まっていません。グループのメンバーで決めても良いわけです。通常はグループメンバー10人前後にファシリテーター2人くらいです。先に話した50人から始まった湯河原でのワークショップでも、この大グループのままで居たいという人もいましたが、次第に幾つかの小グループに分かれて、私も総勢10人くらいのグループに入ったのでした。

 大グループから別れた幾つかの小グループは最終日に皆で集まるまでは旅館の別々の小部屋でそれぞれに自由にセッションを重ねるのです。私は湯河原、山梨、長野、大分などで開催されたエンカウンターグループに幾度か参加しました。そこでおもしろくて楽しいだけでなく為にもなるホントによい経験をさせてもらったのです。

菩薩と鬼女がいた初めてのエンカウンターグループ

 私の初めてのエンカウンターグループ参加はとても刺激的なものでした。三泊四日の合宿が終わって下界に出たら、自分が何だか良い人間にでもなったような感じがしてかなりハイになっていました。それから一週間くらいは毎日、下手なギター片手にフォークソングを楽しく歌って過ごしたりしていたくらいの盛り上がりでした。開放されていたといえば聞こえは良いですが、足がふわついて地についてはいませんでした。今思うと恥ずかしいですが。

 しかしそんな一時的な感情の盛り上がりとは別に、私はその初回のエンカウンターグループのワークショップでかなりの体験学習をしていたのです。いや、その当時には全くそれと気づきませんでしたけど。それは『人がいかにそれぞれに色眼鏡で外界を(投影して)見ているか』ということです。

 湯河原温泉でのエンカウンターグループでは大部屋で50人くらいで話し合ううちに次第にそれぞれが希望する小グループに別れていったのです。私も10人くらいのメンバーグループに参加することにしてそのメンバーと小部屋に移りました。

 全く初めて出会う人達と畳の部屋で輪になって座って、ワクワクドキドキしながら本格的なセッションが始まったのです。そのグループには二人世話人がいて、一人はその当時山梨大学で教鞭をとっていた古屋先生という中年の男性でした。そしてもう一人は神奈川カウンセリング研究会のベテランの世話人で中年の女性でした。この女性の世話人の方がなんともステキで、私にはこれぞカウンセラーではないか!と映ったのです。どうしてかというと、見た目や雰囲気が「菩薩」のような感じだったのですから、そう思わずにはいられませんでした。

 私は当時カウンセラーに強くあこがれてワークショップに参加したのですから、ベテランのファシリテーター(世話人)は私の理想像となります。そして、まさにカウンセラーとしては最高レベルの人(菩薩)を見つけたのでした。初日のセッションを終えてから私は「こんなステキな世話人の居るグループに参加できて最高だ。よかったなぁ。明日からのセッションが楽しみだ」と思っていたのでした。

 初日のセッションが終わった後に待っているのは、慣れた先輩方が持ち込んだり買い出してきたものでの飲み会です。先輩方は長年エンカウンターグループを行ってきていて知り合いも多いし、日常を離れて開放されて楽しむために、それぞれに寄り集まって、もう初日の夜から飲み会が始まるのです。もちろん自由ですから参加しない人もいたりもします。これはどこのワークショップでもそんな感じですね。

 私も先輩方に誘われてその飲み会に行くと「こっち、こっち」などと皆に声をかけられて、それだけで何だか一員として認められたような嬉しい気持ちになりました。そんな時です。そこにベテランの、時には世話人もやったりするような中年女性が今にも踊り出しそうなくらいの勢いで伸び伸び元気に部屋に入ってきたのでした。そして近づいてきて私を見るなり「野田さんはぁ、、」と何か突っ込み入れそうな声を発したのです。

 幸いばかり長くは続かないもんですね。私は恐怖に固まりました。初めてのワークショップ参加は私にとって新入社員と同じ心持ちです。おまけに「カウンセリングの諸先輩達も大勢いる中に私のようなものが参加していいのだろうか、、」などと半分引け目も感じてましたし。でも図々しくも「ぜひみんなに受け入れてもらいたい!認められたら自信になるし、、」などとの下心もあって参加しているのです。その心はもうちょっとでも否定的なものを感じればすぐ傷つきかねない状態なわけです。

 ありがたいことに、その声をかけられた時は、他の先輩方が私の怯えや傷つきやすさを察知してその対決を流してくれたのです。「マァマァいいじゃない、、」などと言ってくれて。酒のおつまみをみんなで配る方に集中してその元気な中年女性の「野田さんはぁ」の続きは立ち消えとなったのでした。

 でもその後のワークショップの間中、私はそのおばさんに「野田さんはぁ」の次にどんな「酷い」こと言われるのだろうとビクビクものだったのです。全員が一堂に集まる食事の時間などは、できるだけそのおばさんの眼を逃れるように席を取って食事したものでした。そうなんです、私の中でその元気な明るいおばさんは鬼女になってしまったのです。でも私は小グループに行けば菩薩さまが居てくれるのですから大丈夫なんです。セッションでは私がたわいのない話しをしても、菩薩カウンセラーはウンウンと大きく頷いて私を支えてくれるのです。本当にどこかで見かけた菩薩像のような顔つきでした。

 私は皆が集まるところでは鬼が出現しないかビクビクしながらも、肝心の小グループでのセッションでは菩薩様と一緒に心地よく過ごして、そして晴れて三泊四日のエンカウンターグループを終えたのでした。

 下界の湯河原駅のプラットホームで周りを見回すと、気のせいか何だかワークショップ前よりも周りが違って見えるんです。本物とは言えませんがゆとりは出てたのですね。まるで自分がもうかなりのカウンセラーにでもなったくらいのハイテンションで「さあ良い人間になって帰るぞぉ」と電車に乗り込んだものでした。ところが私のエンカウンターはまだ終わってはいなかったのです。驚いたのは、ホームでは見かけなかったのに、同じ車両にその鬼女おばさんが偶然居合わせたのです。もう逃げられません。えぇ、ホントに万事窮しました。

 で、どうしたかというと私は意を決して正直に言ったのです。「実はあなたが怖かったのです・・・」と。たいして知らない人からそんなこと言われたのに、さすがカウンセリングはベテランの鬼女先輩でした「そう」とだけ言って聞いてくれました。私はもう心底ホッとしました。そのうちに目の前の席が一つ空いたので鬼女先輩は座りました。私はその座ってうつむき気味の鬼女を見たときにもう鬼には見えず何だか普通のおばさんが少し淋しげにしているような感じがしたのでした。私に怖がられていたことが悲しかったのかもしれませんね。その後の言葉が足りなくて悪いことしました。

 でもこの話には更に続きのオチがあったのです。その後のことです。神奈川カウンセリング研究会の他の先輩方二人と私とでお茶をしたときに「そういえば彼女(私にとっては菩薩カウンセラーだった中年女性が)この前のグループでボロボロになっていたよね」と先輩二人が話し合ったのです。私は内心「え?あの人(菩薩)がそんなになるの?」と全く信じられない思いで聞いたのでした。

 どうしたことか、鬼女が普通のおばさんになったとおもったら、おまけに菩薩までも只の人になってしまいました。ウーム。ウーム。それにしても、三泊四日逃げ回っていた小心者の私に、鬼との避けようのないエンカウンターを、それも最後の最後に持ってくるようにアレンジしたのは神か仏でしょうか。あんなことあるんですねぇ。

 この経験はその後しばらくしてから、やっとどのような体験だったのかわかってきたのでした。私は勝手に自分の内面の救済者イメージを全てその菩薩に似た女性カウンセラーに投影していたし、またその「野田さんはぁ」と言った先輩おばさんにはその反対の(私を傷つける)否定的イメージをまとめて映して見ていたのでした。でもね、人ごとですから笑っていられるでしょうけど、大なり小なり皆さんもそんな色眼鏡をかけて周りの人を見ているものなんですよ。

★参考ページ&サイト:『人間関係の理解と改善に役立つ「投影」という自我の防衛機制』『人間関係に働く自我の防衛機制の具体例』『人間関係研究会 エンカウンターグループとは