心全体の構造図 フロイト・ユング・マインドフルネス・禅

西洋の自我を中心にした心理図

 心の構造図として一般的なのは「意識は氷山の海面に出ている一角であって潜在意識は海中にある氷山のように大きい」という説明でよく知られる、フロイト・ユングの意識・無意識を元にした図です。19世紀後半にフロイトが無意識という考え方を提唱して以来、発展してきた(深層)心理学の基本にもこれがあるわけです。それは「人は素晴らしい思考力・理性を持っている。だから客観的になって考え(科学する)れば答えを出せる。そのようにして心を研究してわかったのは、人間には無意識というものがあると言うことである。そしてその無意識に抑圧した ものを自我意識に統合することによって悩みや症状が解決する」という科学的な論理です。

従来の精神面に限定された心の構造図

 フロイト・ユングの心の構造図は自我意識と無意識に分かれています。そこには身体や環境は含まれていません。あくまでも理性を中心とする考えを背景に持つ西欧で生まれた心理学だからなのです。

禅仏教のあるがままのあり方を主体にした心理図

 ところで東洋では2500年前にインドで仏陀を始祖とした仏教が発展しました。仏教には開祖となる仏陀の教えにとどまらずに発展したものまで含めると、数千に及ぶ経典があります。仏教経典には戒律から修行法や行住坐臥までいろいろ含まれています。しかしその基本とするところは観相から得た心理学的なものです。それらは仏陀の説法を元にしています。あいにく仏陀自身が書き残したものは残っていません。さまざまな宗派がそれぞれに釈迦はこう言ったああ言った、といって伝説化したものを掲げているのです。

 そんな数多い宗派の中で、中国と日本で発展した禅宗は「仏陀が苦行をやめ菩提樹の下で結跏趺坐をして瞑想に入ってそれによって悟った」というそのこと自体を追体験していこうとする実践に重きを置くものです。スポーツや武道、芸事と同じに体現学習をメインとしているのです。他の宗派では、経典の教えを第一と掲げ守っていこうとする経典中心のものから、実践修行はあっても、例えば有名な千日回峰行や念仏・題目をあげるなどに見られるような、お釈迦さんが悟りに至った修行方法とは直接繋がらないような修行法を用いている宗派もあるのです。

 何事にもいえますが、マニュアル(教義)を読んでその教えをそのまま実践するだけでは、ともすると頭だけで知的に理解して心身はそうなっていない場合が多々あります。禅仏教の掲げる最初の物語に、拈華微笑(ねんげみしょう)というのがあります。仏陀がある説法の時、ただ黙って花をかざしてひねって見せました。それを見た弟子たちは何だろうと頭を巡らすばかりでしたが、そんな中において摩訶迦葉だけが微笑したのです。仏陀の伝えたいことが言葉を超えた今の事実そのものであることがわかった摩訶迦葉。その故事によって仏法の奥義が伝授されたとされているのです。そんな禅には、お経本を焼いてしまった僧や、悟った後に、それまで一生懸命唱えていた観音経の教本をお尻に敷いていた女性がいたりと、常識外れの行動が逸話として残っています。それは理屈よりも実践中心の手法が極端化して出た行動といえるでしょう。

 ここで、仏陀が坐禅瞑想に入って悟りを開いて後に、仏陀が最初に以前の修行仲間に説いた「四諦(したい)=苦・集・滅・道」というのがあります。それを私のかってな解釈ですが現代語訳的に意訳して述べてみます。

 ・・・もともと人間が作ったのではないこの世で起こる出来事の多くは、人間ではどうしようもない事が多くて当然である(苦)。しかし、人はよくそれをわきまえないままに、何とか自分の良いようにしたいと思い解決策を考えてしまう。それから、逃れよう、乗り越えよう、良くしよう、解決しようなどのような動きがたち起こる。そうすると必ずこだわりが発生するので、それによって逆に苦悩が作られ膨らんでしまうのである(集)。苦悩の解決策としてはまず、この世のことは宇宙の法則として、人が知恵を働かせる以前に人知を越えて、今に生滅して完遂しながら流転しているのが真実であることに気づかねばならない。そしてだから、私たちは何事があっても、あるがままに居れば悩んだり苦悩が起こることはなくなるのである(滅)。そうなるためには坐禅を実践してそれを理屈でなく体得すれば良い(道)。・・・「あるがまま」という言葉。それは図らずもビートルズが歌っている、マリア様がくれた言葉「Let It Be」とほとんど同じ言葉ですね・・・

 禅修行で「まず坐れ」とか「ただ坐れ」「無心に作務をしろ」などと指導されるのは、先にのべたように、理屈に走らないで事実や行為そのものを重要視しているからなのです。そのためフロイト・ユングの心の構造理論に関しては、真っ向から理屈っぽいと対立することになります。確かに西洋人は心の悩みについても逐一言語化して理論づけないと気が済まないようです。日本人として初めてのユング派の心理療法家となった河合隼雄氏は、その著書ユング心理学と仏教の中で「仏教では根本的に言語に対する不信感を持つ傾向がある。西洋に生まれた心理療法においては言語が重要視されます。とか(箱庭療法の)指導をしていていつも感じるのは、欧米人はわれわれ日本人に比して、明確な理解を急ぎすぎることである」などと述べています。

 また戦後の日本の催眠界をリードしてこられて、後年は動作療法を提唱されている成瀬悟作先生は、ある雑誌社のインタビューで「ヨーロッパやアメリカで発展した精神分析や心理療法は、結局意識的にわかること、知る事、理解することが大事だと思っている。それは伝統的に、考えたり、知ったりすることが人間として生きている証だと考えていたからじゃないですか。〈・・・中略・・・〉でも、そういうことと全く関係なしに、身体のバランスを変えるだけで心の病が取れてしまうことがある」などと言って身体の動きをメインにした治療法を提唱しています。

 禅には不立文字という言葉もあるくらいに理屈っぽさの排除が徹底しています。もう言葉を使うこと自体がマニュアル化や地図するという作業であって、実体から離れる危険性があると否定して、前半に述べた「拈華微笑、以心伝心」を強調するのです。それは、キリスト教における、聖書の教えを学んでそれによって自分をコントロールしていこうとするのとは真逆のあり方といえるでしょう。

 例えばパソコンなど機械類ならマニュアルを読んでその通りの手順をふめばちゃんと操作できます。そんな科学的操作法があまりにも有効だったために人は自分の心身もマニュアル通りに操作しようとしてしまうのです。スポーツや芸事なら、すぐにはマニュアル通りには行かないことはだれでも承知しています。けれども目に見えない心の事に関しては、直ぐにマニュアル通りにできるような気がしたり、まねている内に本物になるような気がしてしまうのです。キリスト教の牧師さんに偽善者が多いという話題になるのは聖書を読んで記憶してしまえば外見だけは格好がつくからです。けれどもキリスト教だけでなく仏教徒にも教義だけを鵜呑みにして格好だけの人も多いのです。さらにはカウンセラーや心理療法家の中にも理屈だけを学んで、それだけで他の人を治療しようとしている勘違いな人もいるのです。

 理論と実際との違いといえば、地図についてはそれを実際の地形と間違う人はまず居ません。けれども私たちは言葉を使い始めた時点で概念(心の地図、観念)と事実や実体とを混同してしまったのです。確かに「木」と言ってもそれは「木」を指し示す概念であって「木」そのものではありませんね。でも自分の内で勝手に「木」を想像しておいて、わかったつもりになったりします。

禅の考え方を元にした心身相関図

 これまで事実が大事と言いながら矛盾してしまいますが今回私は不遜にも、そんな地図を否定するような禅仏教的なあり方をあえて地図化してみました。

 ケン・ウィルバーの意識のスペクトルの考え方によると。人は物心ついてからまず自分の皮膚と外界を区別します。図でいえば②の楕円の点線の部分です。次には意識③と身体②を区別します。図でいえば③の外にある円に当たります。そして最後は自我(網線の部位)と自我でないもの(自分の性格にそぐわないもの・影)を区別したのです。これは人間が勝手に作った境界線なので事実ではありません。けれども私たちはそれが事実であると教え込まれ頭の中に自分という実体があるのだと知らぬ間に思い込んでしまったのです。

 禅仏教からするとフロイト・ユングの心理構造は仏教で六識といわれる眼、耳、鼻、舌、身、意の6種の認識器官の中の「意」に当たる部分に過ぎなくなるのです。禅仏教では自我は実体としては元々ないのだとまでいい切ります。そして先に四諦(したい) の説明でも述べたように、思考し分別することによって悩みや問題がたち起こり苦悩するのだから、理性にこだわらないあり方を会得しなければならないというのです。

 禅宗派の一つである臨済宗では公案(禅問答)によって、つい働きがちな理性・分別の動きを手放さずをえなくなるような修行をします。例えば隻手の音声という公案があります。両手を打ち鳴らせばパンと音がする。では片手の音を聞いてこい老師は言います。このように理屈に合わない文言になっていて、その答えを出すのに真剣になればなるほど、考えが行き詰まるように仕組まれているのが公案なのです。理性で考えている範囲ではこれについての答えを見いだすことはできないようになっているわけです。

フロイト・ユングの心理図と禅仏教の心理図を合わせた図

 禅の手法とフロイト・ユングの心理療法との問題解決の違いに関して、ここであらためて対比してると。フロイト・ユングの心理学では、自我意識が行き詰まったときには人間の持つ素晴らしい能力である理性を使って、潜在意識のものを自我意識に統合すれば乗り越えられる」と言うことになります。禅仏教の方では理性をすべて否定はしませんが「宇宙意識からしたら取るに足らないような人間の理性であれこれ考えたり、何でもコントロールしようとするから苦悩がはじまるのである。自我意識は元々実態はなく観念的なものであることに気づいたりして、自我中心主義をやめるのがよい」ということで両者相反したあり方になります。

 近年は西欧でもヨガの流行などによって身体面も重要視され、その次にはマインドフルネスも流行ってきて、西洋で生まれた心理学と禅仏教の考え方の歩み寄り、統合がはじまったといえそうです。西洋でのヨガの流行は、あまりに自我意識中心に精神面に重点を置いて、身体的な側面を下位に見てきた西洋人が身体との関係を見直してきたためであると言われています。そんな身体の再生の次の潮流がマインドフルネスでしょう。ヨガが浸透したと同等くらいに広まるかもしれません。

 マインドフルネスのいう「今に注目する」ということは、自我中心主義で心と体をコントロールするのでなく、今という自我意識が働き出す以前に、すでにある様子に目を向ける(委ねる)ことになるのです。自我中心の西洋人がそうでないあり方を会得しようとし始めたのです。もちろんこの課題は西洋人だけではありません。良いも悪いも科学の恩恵を受けている日本人の内面においても同じ課題となっています。そんな日本でもマインドフルネスは逆輸入的におおいに流行ることでしょう。

 マインドフルネスは禅仏教の教えを元に「今この瞬間の自分の体験に注意を向ける。現実をあるがままに受け入れる」というあり方を目標に呼吸瞑想などいくつかの瞑想を実践していくものです。その効果としてはストレスの軽減からはじめ、心理的問題の解決や集中力の向上他さまざまな効果があると言われています。欧米では近年ヨガの流行によって身体側面の復権が行われてきました。次にマインドフルネスという言葉によってさらに禅仏教的なありかたが浸透しようとしているのです。しかしその内実は、まだまだ「注意を向ける」というような自我意識から向かおうとする行為が残っています。ですからそれはまだ自我意識寄りの考え方なのです。

 逆に言うと、マインドフルネスレベルだとまだ自我意識中心なのでとっつきやすいですが、禅仏教の自我を認めない徹底したあり方はなかなか受け入れがたいのではないでしょうか。禅仏教のあり方(悟ってみれば)からするとフロイト・ユングの心理図は余計なものとなるのです。しかし河合先生は、自分の心理療法が、気がついてみれば仏教的あり方に即したものであったと言いながらも、科学の恩恵を受けて生きている現代においては西洋的あり方も無視できないのではと言っています。私自身は悟りに至ってないからかフロイト・ユングの心理図が気になります。また河合先生が「言語化は必要である」と言われていたので、それを捨て去りがたいのもあります。そこでフロイト・ユングの心の図に禅仏教的なあり方を図式化したものを無理やり合体させて両者の合体図を作成してみました。また実際問題として、自我意識が抑圧したものが(横軸の)現実世界を見るときにどうしても投影されて見えてくるという問題点があるので、その点でも両者をひっくるめて考えていきたいのです。

西洋と東洋の考え方を合体させた全体の構造図

 禅仏教の六識といわれる眼、耳、鼻、舌、身、意の6種の身体機能や、現実や環境、その今あるがままの様子を含めた方面を図式化した和風心身相関図を横軸に、精神面を図式化したフロイトやユングの心の構造図を縦軸にして重ね合わせてみました。しかしこの図はとりあえずまとめてみたというレベルです。矛盾もあれば、相対立する部分もあるので、きちんと統合されているとはいえません。けれどもこの図によって旧来からあるフロイト・ユングの精神面に限った心の構造図に限定しないでこの現象界の全体図を概観できます。

 この図には書き込んでいませんが、ユング心理学では心の構造図においては自我に対するセルフ(自己)を心の深層の中心に位置づけて現した図(考え方 )が広まりました。そのためにセルフは心の深層にあるのだと勘違いしやすいのです。河合隼雄先生はその著書「ユング心理学と仏教」の中で・・・私はユングが「自己」とは何か具体的に示して欲しいという質問に対して、「すべての皆さん」(all of you)と答えたという逸話が好きであります。・・・・と言っています。この河合先生が賛同するユングの考え方は縦軸であるフロイト・ユングの心の構造図だけでは現せられませんが、私が禅の考え方に即して作成して付け加えた横軸の図に現れるものすべてが自己だということで位置づけができます。

★参考ページ:『自分を知るための心身相関図 催眠・禅・意識の勘違い


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