夢は心の掃除から整理、整頓までしている

 今回は夢が教えてくれるというより、夢が私たちを、そくしてくるとでもいうような場合があることをテーマにしました。

 近年になってますます睡眠の重要性がわかってきていますが、脳を含めた心身は日々の睡眠中に自然治癒力の働きによって、心身の調整作業を活発におこなっています。私たちの自我意識にとって、夢はそんな心身(主に脳)の調整作業の働きを、私たちにただモニター的に見せてくれるだけではないようです。どこかで私達がそれを受けとめやすくするというか、川におけるダムのような機能も持っているようです。

 そしてそんな日々の活動以外に、ある時、時が熟するのでしょうか。夢は心身の奥に封じ込められていた「トラウマなどのちょっと大きなものを、そろそろ整理しましょうよ」とか「ちょっとした大掛かりな掃除をするから、ちゃんと準備して受けとめてね」などと言ってくるのです。でもそれは思わせぶりな物語形式の夢表現をしてくるので、なんのことだかすぐにはよくわからないものですが。

 ところで、精神科医の中井久夫氏は、統合失調症の急性精神病状態のはじまりと終わりには悪夢をみることが非常に多いと述べています。といって悪夢を見たからそく統合失調症かと心配する必要はありません。統合失調症の臨界期のはじめに見る悪夢は通常の悪夢レベルのものではありません。 中井先生によると、ついに夢そのものが破裂し、自律神経系を巻き込んで全身が動揺し、最後に睡眠そのものが不可能になってしまうのが悪夢である。と述べているように夢自体が壊れてしまって機能しなくなった状態のもののようですから。

 それにしてもやはり、子供の頃のことにせよトラウマなどは大人になった私たちでも、そうそう簡単には受けとめかねる場合も多いわけです。いきなりさっさと大掃除などとはできないのです。やはりそれなりに、大掃除をするための準備と同じく、心の深層にしまっておいたものを受け止めるだけの準備や器が必要のようです。

 ですから、もし夢に興味を持って夢日記をつけたり、夢の自己分析をする場合には、根を詰めすぎないことをお勧めします。私は場面やストーリーがかなりハッキリしているような印象的な夢だけを書きとめています。自然治癒力(夢)が無意識の内容を一つにまとめて、整理できえたものが印象的な夢となるのだと思います。そんな夢と反対のよくわからない、まとまりのない夢は、夢が心のなかを整理しようとしている途中経過の夢といえそうです。信頼できる夢分析家と共に夢分析に取り組んでいるのでない限り、そんな夢は無理して掘りおこさず、熟成するまで時がかかるのだなと思ってそっとしておきましょう。

 ・・・ここでは、秘密保持のためにごく簡単な事例を趣旨は曲げない程度に変えて紹介します・・・もうかなり古い話ですが、夢と自律訓練法から過去のトラウマを消化できた男性がいました。カウンセリングで、何か狭い所に押し込められるような夢を時々みるという話をした後日、自宅で自律訓練法を行っている時に、その夢の嫌な感じと同じような感覚になったようです。それで「この感じは夢と同じだな」と注意を向けていたら突然、学生時代の思い出が蘇って来たとのことでした。その自律訓練中の不思議な体験の話から続いて、その学生時代の辛かった体験も話してくれ「その時は感じませんでしたが、自分で思っていた以上に辛かった所があったようです」と語り終えたのです。そして「何だか肩が軽くなってスッキリしました」と言って肩をぐりぐり動かし気持ちよさげでした。トラウマが解消されると身体的にもスッキリするところがあるようです。

 座禅に取り組み始めたら、受けとめられず恐怖症的になってる、避け続けていた事柄を最近夢によくみるようになったと言う人がいました。この人は座禅によって心の浄化作業がかなり進んできたのでしょう。自律訓練法に限らずヨーガや瞑想などからくる深いリラクゼーションがそれを呼び覚ます場合もあるわけです。心身が開放的になり、それによって自己治癒力のはたらきが活発化するところに、その動きは登場しやすくなるといえるでしょう。

 先の男性の場合は自律訓練法による深いリラクゼーションと、また私と話し合ったことで、そのトラウマを受けとめる準備が全て整ったのかもしれません。時が熟するなどといいましたが、やはりそのトラウマなどが受けとめかねる程度が強いにしたがって、開放作用がスムースに行えるように体制もしっかり整う必要があるわけです。心理療法の場では、そのためのカウンセリングや催眠療法やフォーカシングやその他のトラウマやストレスの流れをスムースにそくするための、さまざまな心理技法があります。でも何よりも信頼できるカウンセラーの存在があることで、そこは守られ受けとめられるためのより大きな器となるのです。それで一人ではなかなか解消できないレベルのものまで対処できるわけです。

 ところで夢にではなくても身体的な違和感があってその奥にトラウマがひそんでいる場合もあります。急激な人格変化が起こって開放され、のびのびやっていけるようになったは良かったけれど、胸の辺りのなんだか苦しい感じがとれない人がいました。カウンセリングで「何か小さいころに辛いことでもありましたかね」「そういえば長い間・・・してましたが、それでしょうか」などと話し合ったのです。そんな面接の直後に、そのカウンセリングで話題に出た地元の思い出の場所を通っていたら突然いっぱい泣けていろいろ思い出し、それで胸の苦しい違和感も解消したのでした。時は熟してたわけですが、私とのカウンセリングがその流れをそくすようなきっかけになったようですね。

 夢分析に限らずいえることですが、こちら側からそれを分析(意識側から知的に分析)していくのでなくて、ゲシュタルトセラピーのドリームワークみたくそのもの自体になって(語って)みたり、またはフォーカシング的に寄り添いながらも、そのもの自体が語りだすのではないかというような姿勢でいたりしていると、向こう側(夢の方)が勝手に展開しやすくなるというのがこの場合のコツといえます。

 もっと詳しい具体例を見てみます。秘密保持のこともあるので今回も手前味噌でなんですが私の夢からです。

 私がエンカウンターグループやその他のさまざまな心理技法をあさるように体験学習していた遙か三十五年近く前に、通いで四日間の「ゲシュタルトセラピーセミナー」が開催されていました。ゲシュタルトセラピー体験学習にはドリームワークという夢のセッションがあるというので、夢を記憶しておいたのです。といっても、放っておいても忘れることはないくらいにとても印象的な夢でした。

 {夢 : 母、丸いフォルクスワーゲン車、別れ}

母親が前の席で私が後ろの席に乗って、
旧式の丸っこいフォルスワーゲンのような車で走っている。
私は、走っている車から降りようとする。
ドアの鍵の部分は通常のより大きくガッチリできていた。
私はそのドアを開けて半分転がり落ちるように道に投げ出る。
車は母親を乗せていき「ああ、行ってしまった」
という感じ。

 こんな夢でしたがこの夢が言いたかったこと。ゲシュタルトセラピーのドリームワークをやってみて発見したそれには我ながらビックリでしたよ。ドリームワークでは見た夢の一部になったつもりで思いつくまま喋ってみる。という技法があります。でもセミナーのみんなの前でこの夢のワークをした時にはうまくいきませんでした。かなり心残りだったのでセミナーが終わって自分のアパートに帰ってきて、もう一度同じワークを自分一人でやってみたのです。

 部屋にあったクッションを何気なしに抱えながら次第に夢の中に入り込んで少したつと驚いたことに、まるで赤ちゃんが唇をとがらせて「チューチュウ」と母親の乳房を吸っているようにしたくなってしまったのです。一人とはいえかなりの恥ずかしさがありましたが、思い切ってずっと「チューチュウ」と唇をとがらせてやっていると、突然両肩から両腕にかけてかなりの衝撃で電気が走るような感じとともに、幼い頃「もっと母親の乳房を自分のものとしたかった!」「いっぱい、気が済むまでおっぱいを吸いたかった」という思いとそれに絡んだ強い感情が蘇ってきたのです。

 いい大人が、クッションを強く抱きしめ「チューチュウ、チューチュウ」やりながら「誰にも渡さない!二つとも僕のオッパイだ!、、」とか強い口調で言ったりしました。それもかなりの時間。一人だからできたのですねぇ。

 そういえば。私には五歳下の弟がいます。その弟が生まれた頃かもっと上の年齢だったかもしれませんが「もう赤ちゃんじゃあないのだから母親の乳房をあきらめねばならないんだ、男の子だし、我慢しなければ」と思ってその、甘えたくてたまらない欲求を抑え込んだことを思い出しました。衝撃的だった肩から腕にかけての電気の走るような感じは、欲求を我慢することによって固まり滞っていた身体が急に開放されたからでしょう。自分で思っている以上に身体で押さえ込んでいるもののようですね。4~6才の頃のものが30才になっても強く残っていたわけでホントに不思議でした。

 その後数年たってから、同門の先輩にこのドリームワークの体験をおもしろおかしく話したのでしたが、その先輩から「そのフォルスワーゲン(旧型)の車って乳房に似てるじゃん」と鋭く突っ込まれて大笑いしながらも、確かにと納得したのでした。そういえば河合隼雄先生は箱庭療法の勉強会で、箱庭の中に作られた丸い砂の山を、あれは乳房に見えるねなどと幾度かいってましたが。

 それにしても夢って凄いですね。うーむ。あなたも夢の中に「丸くもっこりしたもの」が登場したときはよくよく気をつましょうね。

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